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曹叡(そうえい)

曹魏(そうぎ) · 君主

曹叡(そうえい)

字 元仲

登場回
28
台詞の記録
82
人間関係
35
内面の独白
3

史書の記録(Historical Record)

曹叡(そうえい)、字は元仲、魏文帝曹丕(そうひ)の太子である。彼は幼少より太祖曹操(そうそう)に愛され、常にその左右に侍した。『魏書』の記載によれば、曹叡は生まれつき岐嶷の姿があり、曹操はかつて「我は爾において三世の基を定めた」と言った。彼は学を好み博識で、特に法理に意を留めた。黄初二年、曹叡は齊公に封じられ、三年後に平原(へいげん)王に改められた。しかし、その生母である文昭皇后甄氏(ぶんしょうこうごうしんし)が誅されたため、一時は嗣子に立てられなかった。黄初七年夏五月に至り、文帝曹丕が病重くなって、ようやく正式に曹叡を皇太子に立てた。丁巳の日、曹叡は皇帝の位に即き、天下に大赦し、生母甄氏を文昭皇后と追諡した。

曹叡は在位期間、国家の大事に深く関心を寄せた。彼はかつて肉刑の回復について群臣と議論したが、呉蜀がいまだ平らげられていない状況下で、最終的に施行できなかった。彼は忠臣の建言も多く採用した。例えば、太傅の華歆(かきん)はかつて曹叡に上疏して諫め、千里の運糧は用兵の利ではなく、険を越えて深入りすれば独力で克ちがたいと指摘し、民は国の本であると強調して、まず治道に心を留め、征伐を後事とするよう勧めた。曹叡はこれに深く賛同し、最終的に秋雨が大いに降ったため、詔して曹真(そうしん)に軍を引いて還らせた。彼はまた、漢の桓帝のとき李雲が上書して「帝とは、諦なり。これ帝が諦かならんと欲せざるなり」と言った事について、侍中の王粛(おうしゅく)に問い、その死因が合理的かどうかを探討した。

軍事面では、曹叡はかつて曹真を遣わして子午道から蜀を伐たせ、自ら東のかた許昌(きょしょう)に幸した。曹真が困難に遭った際にも、彼は蔣済(しょうせい)らの諫言に耳を傾けた。遼東で公孫淵(こうそんえん)が叛乱を起こした際、曹叡はかつて蔣済に孫権(そん けん)が出兵して救援するかどうかを問い、蔣済は孫権が軽々しく動かないと分析し、曹叡はこれに同意した。さらに、曹叡は人材の選抜も重視し、かつて詔を下して、才智があり、謀慮が深遠で、忠誠で奮い立つ賢才を、年齢を限らず、貴賤を問わず求めた。

晩年、曹叡は病重くなり、かつて燕王曹宇(そうう)を大将軍に立てて輔政させようと考えたが、曹宇は辞退した。最終的に、彼は劉放(りゅうほう)・孫資(そん し)を召見し、その進言を採用して、太尉の司馬懿(しばい)を召還し、曹爽(そうそう)を任じて輔政させた。

演義の中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、曹叡の形象により多くの劇的な色彩が付与されている。小説は冒頭で曹叡の聡慧を描き、彼が幼少より聡明で、曹丕に深く愛されたことに触れる。しかし、演義は甄氏の死と曹叡が嗣子に立てられた過程を詳細に渲染し、曹丕が郭貴妃の讒言によって甄氏を賜死させ、郭貴妃が曹叡を子として養ったと指摘する。曹叡は母の死により内心穏やかでなかったが、生きるために、やむなく郭后に敬って仕えた。小説では、曹丕がある狩猟で母鹿を射殺し、曹叡に小鹿を射殺させようとすると、曹叡は忍びず、泣いて告げた。「陛下はすでにその母を殺されました、臣はさらにその子を殺すに忍びません。」曹丕はそのため彼を深く奇とし、その者を嗣に立てることを決めた。この筋立ては史書に明記がなく、演義が曹叡の仁徳を際立たせるために行った文学的創作である。

曹叡は即位後、演義でもその若い帝王の特質を示す。司馬懿が表を上げて雍・涼を守ることを乞うと、太尉の華歆と司徒の王朗(おうろう)はいずれも司馬懿に反心ありとして、曹叡にこれを誅するよう勧める。曹叡は一時御駕親征しようとするが、曹真に止められ、曹真の「御駕は安邑に幸し、その動静を観る」という計を採る。これは史実における曹叡の司馬懿への信任とは異なる。蜀漢(しょくかん)の諸葛亮(しょかつりょう)の北伐の際、演義では曹叡はかつて夏侯楙(かこう ぼう)を大都督に任じて諸葛亮を迎え撃たせたが、夏侯楙は無謀のため大敗した。その後、曹叡はまた曹真が度々蜀兵に敗れる状況下で、鍾繇(しょうよう)の進言に従い、再び司馬懿を起用して、その者に重任を委ねた。

演義では、曹叡の司馬懿への信任と依存も強化されている。司馬懿が蜀兵を撃退すると、曹叡は大いに喜び、その者に金鉞斧を賜り、便宜行事の権を与えた。東呉の孫権が僭号して帝を称し、蜀漢と同盟した際、曹叡はかつて慌てふためいたが、司馬懿の分析のもとで、東呉が軽々しく出兵しないと考え、いっそう司馬懿を信任した。小説はまた、曹叡が晩年に宮殿の造営に耽り、不老長生の術を追求して、朝政を荒廃させた筋立てを描く。彼は明悼皇后毛氏(めいとうこうごうもうし)が彼と郭女王(かくじょおう)が庭園で遊んだことを知ったために毛皇后を賜死させ、郭夫人を皇后に立てさえした。これらの筋立ては史書にも言及があるが、演義はより細やかに描写し、誇張している。

最終的に、演義では曹叡は病重くなり、劉放・孫資の進言のもとで、司馬懿を召還し、その幼子の曹芳(そうほう)を司馬懿と曹爽に託孤した。彼は司馬懿の手を握り、劉備(りゅうび)が諸葛亮に託孤した例を引いて、司馬懿に幼主の輔佐を嘱託し、司馬懿への深い信任を表した。

主要な関係

* 曹丕(parent_of):曹叡は曹丕の太子だが、生母甄氏が誅されたため、その嗣子の地位は一時不安定であった。史書には、曹丕が病重くなってようやく正式にその者を太子に立てた、と記される。演義では、曹丕は曹叡が小鹿を殺すに忍びない仁徳の振る舞いのために、その者を嗣に立てることを決める。
* 曹魏(lord_of):曹叡は曹魏の第二代皇帝で、在位期間、政権の強化と外敵の防御に努めた。史書には、彼が肉刑の回復や軍事征伐などの国事を群臣と議したことが記される。演義では、彼は蜀漢と東呉の脅威に直面し、幾度も司馬懿らの将領を起用する。
* 司馬懿(friend_of):史実では、司馬懿は曹叡が晩年に託孤した重臣の一人である。演義では、司馬懿は曹叡の重要な軍事将領であり謀士で、幾度も肝心な時に曹叡に起用され、曹叡の極めて大きな信任と授権を得る。
* 鄭渾(ていこん)(mentor_of):史書には、曹叡が年少のとき、曹丕が侍中の鄭称(すなわち鄭渾)を武德侯の傅に任じ、経学をもって曹叡を輔佐するよう励ませた、と記される。これは鄭渾が曹叡の成長過程で導師の役割を演じたことを示している。
* 文昭皇后甄氏(parent_of):曹叡の生母で、故あって曹丕に賜死された。史書には曹叡が即位後にその者を文昭皇后と追諡した、と記される。演義では、甄氏の悲惨な結末が曹叡の性格形成に重要な影響を与え、曹叡が病重きとき、演義はさらに毛皇后(演義独自)の亡霊が命を索める様を描き、甄氏の死と呼応させる。
* 郭皇后(かくこうごう)(parent_of):史書には、文帝が郭后に子がないため、詔してわが子を養わせた、と記される。郭后もまた自ら子がないと考え、慈愛を加えた。演義では、郭皇后は甄氏を賜死に導いた肝心な人物で、彼女は曹叡を養い、曹叡の即位後に皇太后となる。
* 華歆(advisor_of):史書には華歆がかつて曹叡に進言し、まず治道に心を留め、後に征伐を行うよう勧めた、と記される。演義では、華歆もかつて曹叡に司馬懿を起用して蜀兵を退けるよう建議する。
* 王朗(advisor_of):史書には王朗がかつて肉刑の回復や皇子の生育などの問題について曹叡に進言した、と記される。演義では、王朗はかつて曹叡に夏侯楙を軽々しく将とすべきでないと勧め、曹真の起用を建議する。
* 曹真(friend_of):史書には曹真がかつて命を受けて蜀を伐ち、曹叡も東のかた許昌に幸して支援した、と記される。演義では、曹真は曹丕に託孤され、曹叡を輔佐し、幾度も諸葛亮と交戦するが、度々失利する。
* 劉放・孫資(advisor_of):史書には曹叡が病重きとき、劉放・孫資を召見し、その進言を採用して司馬懿を召還して輔政させた、と記される。演義では、劉放・孫資は曹叡が病重きとき、その者に曹爽と司馬懿への託孤を建議し、燕王曹宇を帰国させる。
* 曹宇(family_of):史書には曹叡が病重きとき、かつて燕王曹宇を大将軍に立てて輔政させようと考えたが、曹宇が辞退した、と記される。演義では、曹宇は曹叡に召されて大将軍となるが、劉放・孫資の進言により帰国させられる。
* 曹爽(friend_of):史書には曹叡が病重きとき、劉放・孫資の進言のもとで、曹爽を任じて輔政させた、と記される。演義では、曹爽は曹叡に大将軍に封じられ、朝政を総摂し、司馬懿とともに託を受けて幼主を輔佐する。
* 馬鈞(ばきん)(subordinate_of):演義では、曹叡はかつて馬鈞に命じて漢朝の柏梁台の上の銅人を取り外させ、不老長生の方を求めた(演義独自)。
* 明悼皇后毛氏(family_of):演義では、曹叡の皇后で、曹叡が郭夫人を寵愛したために寵を失い、最終的に曹叡に賜死された(演義独自)。

象徴的な場面

* 鹿を射て仁を示す:演義では、幼い曹叡が曹丕に従って狩猟し、曹丕が母鹿を射殺した後、曹叡に小鹿を射殺させようとする。曹叡は忍びず、泣いて曹丕に告げ、曹丕はそのため曹叡を仁徳と考え、その者を嗣に立てることを決める(演義独自)。この場面は演義における曹叡の仁徳の形象を形作る肝心なものである。
* 司馬懿の起用:史実でも演義でも、曹叡は幾度も司馬懿を起用した。とりわけ諸葛亮の北伐、曹真が度々敗れる状況下で、曹叡は鍾繇の進言に従い、再び司馬懿を起用して、その者に極めて大きな権力を与え、蜀漢を防ぐ肝心な人物とした。
* 司馬懿への託孤:曹叡が病重きとき、司馬懿を召見し、その幼子の曹芳を司馬懿と曹爽に託孤した。彼は司馬懿の手を握り、劉備が諸葛亮に託孤した例を引いて、司馬懿に幼主の輔佐を嘱託した。この場面は史実にも記載があるが、演義はそれをより感情的な色彩をもって描写し、曹叡の司馬懿への信任と依存を強調している。
* 宮殿の造営と仙を求める:演義では、曹叡は晩年に宮殿の造営に耽り、不老長生の術を追求し、馬鈞に命じて漢朝の柏梁台の上の銅人を取り外させさえした(演義独自)。この一連の行為は朝政の荒廃を招き、演義の曹叡後期の形象への批判的な造形をも反映している。
* 毛皇后を賜死させる:演義では、曹叡は毛皇后が彼と郭夫人が庭園で遊んだことを知ったために激怒し、最終的に毛皇后を賜死させる(演義独自)。この場面は曹叡の残暴で専横な一面を示し、彼の後の病死の伏線ともなっている。
* 遼東の役:史書でも演義でも、曹叡の在位期間、遼東で公孫淵が叛乱を起こしたことに触れる。曹叡は司馬懿を遣わして平定させ、司馬懿は見事に公孫淵を破った。この出来事は曹叡の軍事的決断における果断さと司馬懿への信任を示している。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
幼い頃から聡明で、弓馬に習熟していた。
性格
沈着剛毅で識見があり、心のままに行い、学問を好んで多識であり、特に法理に意を留めた。母方の親族を切に思い、たびたび甄氏(しん し)の母方の一族のために廟を立て観を起こし、位を加え爵を賜った。仁厚柔和で惻隠の心があったが、君主としては疑い深く、目新しいものを好んで驕り安逸に流れ、女色の寵に溺れ、諫言を容れなかった。
話し方
事に臨んで狼狽し、司馬懿(しばい)の官を削ぐことを後悔し、「卿の学識は孫・呉(孫子・呉子)に勝る」と嘆いた。問いかけは簡潔で、手詔をもって計を授け、短い句で決断し「汝の言はまさに朕の意に合う」と述べ、また敵将の能力を「陸遜(りくそん)の用兵は孫呉(そんご)に劣らない」と嘆じた。
生涯
延康元年五月に武徳侯に封ぜられ、黄初三年三月に斉公に立てられ、後に平原(へいげん)王に立てられた。母が誅されたゆえに嗣子には立てられなかったが、黄初七年夏五月、文帝(ぶんてい)の病が篤くなってようやく太子に立てられ、丁巳の日に皇帝の位に即いた。文帝の崩御の後に即位し、卞氏(べん し)を太皇太后と尊び、生母の甄氏(しん し)を文昭皇后と追諡した。
逸話
景初三年正月に崩じ、子がなく、曹芳(そうほう)と曹詢(そうじゅん)を養子とした。嘉平の時にその養母である郭后(かくこう)が崩じたが、幼年の頃の恨みを抱いて彼女を逼迫して死なせたと伝えられる。司馬懿(しばい)を信任し、群臣の「懿を召し返せ」との諫めを聞かず、病が危うくなった時には懿の手を執って幼子を託し、涙を流して襟を濡らした。

人間関係

35 件の関係

名言

全 82 件の台詞 · 厳選 3 件

「昔劉玄德在白帝城病危,以幼子劉禪託孤於諸葛孔明,孔明因此竭盡忠誠,至死方休,偏邦尚然如此,何況大國乎?朕幼子曹芳,年纔八歲,不堪掌理社稷。幸太尉及宗兄元勳舊臣,竭力相輔,無負朕心!」

演 第106回→ 司馬懿(しばい)📍 許昌(きょしょう)

曹叡(そうえい)が司馬懿(しばい)に後事を託したもので、後日の司馬氏(しばし)専権の伏線となり、極めて歴史的な意義を持つ。

「朕建高臺峻閣,欲與神仙往來,以求長生不老之方。」

演 第105回→ 馬鈞(ばきん)📍 洛陽(らくよう)

この一句は曹叡(そうえい)が晩年に方術に耽り、長生を追い求めた暗愚な一面を示している。

「我自召太尉,而曹肇等反使吾止之,幾敗吾事!」

史 第14回

この一句は曹叡(そうえい)の司馬懿(しばい)に対する信頼と依存を体現し、司馬懿(しばい)の権勢をも暗示している。

登場回28 回 ▸
  • 史ch.2ch.3ch.5ch.9ch.11ch.13ch.14ch.15ch.16ch.17ch.20ch.24ch.25ch.27ch.35
  • 演ch.91ch.92ch.93ch.94ch.95ch.96ch.98ch.99ch.100ch.102ch.103ch.105ch.106
関係の年表9 条 ▸

史 ch.14

史 ch.16

史 ch.17

  • commands_in

    加位特进;增邑千户并前四千三百户;自幸河南城置酒送;驿马召至京都;分郃户封四子列侯;赐小子爵关内侯

  • commands_in

    即位拒诸葛瑾;增邑二百并前三千一百户

史 ch.20

演 ch.95

演 ch.100

演 ch.103

演 ch.106

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 朕が朝廷に臨んで報告を聞くとき、最も恐れるのは一か所で烽火が上がることではなく、複数の知らせが同時に押し寄せ、恐れに駆られて拙速な決断を下してしまうことだ。国境に警報があり、蜀の兵が関をうかがい、呉の者たちも安閑としているとは限らない。しか
  • 朕の病は日ごとに重くなり、灯火の影は揺らめいている。殿中の諸臣が進退する物音も、まるで隔たりを一枚隔てた向こうから聞こえるようだ。この数年を思えば、呉・蜀は平定されず、辺境の事も絶えなかった。朕は常々、社稷の憂いを一日たりとも忘れてはならぬ
  • 私は帝王の家に生まれ、幼い頃から祖父の武皇帝(Wu Huangdi)のそばに仕えていた。『魏書』(Wei Shu)には、私が数歳の頃からすでに優れた資質を備えており、祖父はそれを見て褒めたとある。私の記憶に残っているのは、むしろ、目上の人々
生涯の大事12 ▸