史載(Historical Record)
何顒(かぎょう)は字を伯求といい、早年に郭泰、賈彪ら名士とともに洛陽(らくよう)に遊学し、太学において名声が高く、太傅の陳蕃(ちんはん)、司隷(しれい)の李膺(りよう)ら中朝の名臣に深く重んじられた。党錮の禍が起こると、何顒もまたそのなかに名を連ね、名と姓を変えて汝南一帯に身を隠し、行く先々で当地の豪傑と交わった。彼はもとより曹操(そうそう)を高く評価し、また荀彧(じゅん いく)を見出し、袁紹(えんしょう)も彼を敬慕して親しく交わった。当時、天下の士大夫の多くが党錮の難に遭い、何顒は常年二、三度ひそかに洛陽に入り、袁紹と対策を協議し、困窮した士人のために憂いを排し、禍を解いた。しかし、袁術(えんじゅつ)もまた豪侠であったが、袁紹と名を争っており、何顒は一度も袁術を訪ねなかったため、袁術は彼に深く不満を抱いた。袁術はかつて衆人の面前で何顒の三つの罪を数え上げ、賢者の王徳弥を疎んじ、純でない許子遠を親しみ、自身は奢侈な暮らしをしながら貧しい郭、賈の二人を顧みないと非難した。これに対し、陶丘洪が何顒を弁護し、王徳弥は賢明だが世を済(すく)うのに巧みでなく、許子遠は瑕(きず)があるが敢えて難に赴くと指摘し、何顒が善を挙げるには王徳弥を首とし、難を済うには許子遠を宗とすると述べ、また何顒がかつて虞偉高のために手ずから仇を討ち、義名が遠く広まったことに言及し、袁術の非難に反駁した。袁術はそれでも不満で、かつて何顒を殺すと言い放ちさえしたが、後に南陽(なんよう)の宗承の説得を経てやめた。党禁が解かれた後、何顒は司空府に辟召され、三府の掾属の会議のたびに、その謀略は他人をはるかに超え、議事する者は皆自らを及ばぬと恥じた。後に北軍中候に遷った。董卓(とう たく)が政を執った時、何顒を長史に任じた。董卓の乱政の間、関東で兵が起こり、董卓は長安(ちょうあん)に遷都した。何顒は議郎の鄭泰(ていたい)、侍中の種輯、越騎校尉の伍瓊ならびに荀攸(じゅん ゆう)らとひそかに董卓暗殺を謀り、董卓は無道で、実に匹夫であるとし、これを暗殺して天下に謝し、然る後に函谷関、崤山を拠点とし、王命を補佐して天下に号令し、桓公、文公の挙にならおうとした c:4526。しかし、この事がまさに成功しようとするときに察知され、何顒と荀攸は捕らえられて獄に下された。何顒は憂懼のために獄中で自殺した。後に、荀彧が尚書令を務めた時、人を遣わして叔父の司空荀爽(じゅん そう)の霊柩を迎え、同時に何顒の遺骨も納め、荀爽の墓の傍らに葬った c:4526。
演中(In the Novel)
『三国演義』では、何顒の形象は主としてその曹操への知遇の恩と朝政への参与の断片に表れている。演義は冒頭で、南陽の何顒が曹操に会った後、かつて「漢室はまさに亡びんとする。天下を安んずる者は、必ずこの人である」と予言したことに言及している c:130。この評価は曹操の地位を大いに高め、その将来の非凡を予示した。黄巾の乱が平定された後、霊帝の病が重くなり、大将軍の何進(かしん)を宮中に召して後事を協議した。何進は宦官をことごとく誅殺しようとしたが、典軍校尉の曹操は宦官の勢力は根深く、ことごとく除くのは難しいとして、慎重を勧めた。霊帝が崩御し、蹇碩(けんせき)と十常侍(じゅうじょうじ)が死を秘して喪を発せず、詔を偽って皇子の協を帝に立てようとした緊急の折、何進は大臣を召集した。このとき、何進は群臣に擁せられ、何顒、荀攸、鄭泰ら三十余名の大臣とともに宮中に入り、霊帝の霊柩の前で太子の劉弁(りゅう べん)を扶けて皇帝位に即けた c:131。演義では、董卓の乱政の間における何顒の暗殺の謀略とその結末を詳しく描いておらず、これは史実と相違しており、史実では何顒はこの事のために捕らえられて自殺した。演義はより多くを、識見ある人物として、重要人物への品評と肝心なときの朝廷の決定への参与の場面に重点を置いている。
主要な関係
* 董卓集団(rival_of):史実では、何顒は董卓暗殺を謀ったために捕らえられて自殺し、董卓の反対者であり犠牲者である c:4526。演義ではこの段を直接描いていない。
* 曹操(mentor_of):演義では、何顒は曹操の早期の重要な支持者かつ予言者であり、彼を「天下を安んずる者」と称した c:130。史実でも、何顒は「太祖を奇とし」、曹操に知遇の恩があった c:4526。
* 何進(advises_in):演義では、何顒は何進とともに宮中に入り、太子の劉弁を扶けて即位させ、朝廷の重大な決定に参与した c:131。史実では、何進が政を執った時にかつて何顒を召し出したが、何顒の何進への建議は直接言及されていない。
* 袁紹(friend_of):史実では、袁紹は何顒の名を慕い、彼と親しく交わり、何顒はしばしば袁紹のために策謀をめぐらし、士人のために憂いを排した c:4526。
* 荀攸(ally_of):史実では、何顒は荀攸らとともに董卓暗殺を謀った c:4526。演義でも、両者はともに新君を扶立する場に現れている c:131。
象徴的な場面
* 曹操の才を予言する:南陽の何顒が曹操に会い、「漢室はまさに亡びんとする。天下を安んずる者は、必ずこの人である」と言った c:130(演義独自だが、史実にも「顒すでに太祖を奇とす」の記載がある c:4526)。
* 新君の扶立に参与する:何進は何顒、荀攸、鄭泰ら大臣三十余員を率い、相次いで入り、霊帝の柩の前で、太子の弁を扶けて皇帝位に即けた c:131。(演義独自)
* 董卓暗殺を謀る:何顒は議郎の鄭泰、荀攸らと董卓暗殺を企て、董卓が無道であるとし、その首級をもって天下に謝し、要地を拠点として王命を補佐しようとした c:4526。
* 獄中で自尽する:董卓暗殺の謀が察知されたため、何顒は捕らえられて獄に下され、憂懼のあまり自殺した c:4526。
人間関係
4 件の関係
台詞
- 演 ch.1 §25→ 曹操(そうそう)
「漢室將亡,安天下者,必此人也。」
登場回4 回 ▸
- 史ch.1ch.10
- 演ch.1ch.2
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 若い頃、郭泰(かくたい)・賈彪(かひょう)とともに洛陽で遊学し、その縁で太学の賢人たちと交わるようになった。陳蕃(ちんはん)・李膺(りよう)も、かつて私を深く受け入れてくれた。党錮の禍が起こり、名簿に名が連なったため、私は姓名を変えて汝南(