背景
現代政治史アナリストとして195年から200年にかけての江東を振り返ると、孫策(そん さく)による平定行動は単なる軍事的征服ではなく、政権の再建でもあった。孫堅(そん けん)が戦死した後、その旧部は袁術(えんじゅつ)麾下に散逸し、孫策(そん さく)本人も数年にわたって袁術(えんじゅつ)の下に置かれ、長期にわたって冷遇されてきた。この時期の江東は統一された地域でも真に攻略し難い難地でもなく、劉繇(りゅう よう)が曲阿に、厳白虎(げんはくこ)が呉郡に、王朗(おうろう)が会稽(かいけい)に、華歆(かきん)が豫章郡(よしょうぐん)に各自割拠していたが、互いに連携することができずにいた。地方には山越の脅威があり、士族は日和見を決め込んでいた。孫策(そん さく)がこの時期に袁術(えんじゅつ)の兵を借りて南渡し江東に侵攻したのは、本質的には主なき地に新政権を打ち立てることであった。
主要人物
この段階の舞台で最も重要な人物は何人かいる。孫策(そん さく)本人が政治と軍事の中枢であった。周瑜(しゅうゆ)は歷陽で孫策(そん さく)と合流し、朱治(しゅち)・呂範(りょはん)ら謀士をチームに加え、さらに張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)いわゆる「二張」の幕僚陣を推薦した。張昭(ちょうしょう)は内政を、張紘(ちょうこう)は外交・文書を担い、この内外分任の構造は孫策(そん さく)時代にすでに形成され、孫権(そん けん)時代のさらなる発展の礎となった。父の代からの旧将・程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)が軍事の骨幹を形成し、孫策(そん さく)の母方の叔父・吳景が丹陽で補給と策応を提供し、在地士族の朱治(しゅち)・虞翻(ぐはん)は新政権に取り込まれた地元エリートを代表した。この「父代の旧部+地元エリート+新世代の謀士」という三層構造こそ、孫策(そん さく)が五年以内に江東を統合できた鍵であった。
核心議題
江東平定は実際のところ三つの深層的な議題を解決しなければならなかった。第一は正当性の問題である。孫策(そん さく)は「母方の叔父・吳景が圧迫を受けている」という名目で袁術(えんじゅつ)に借兵し、伝国玉璽を担保として提供した。これは借兵のための実務的な取り決めであると同時に、袁術(えんじゅつ)系から独立するための政治的準備でもあった。江東が平定された後、玉璽こそ袁術(えんじゅつ)の手もとに留まったが、実質的な権威は孫策(そん さく)へと移行した。第二は軍政統合の問題である。孫策(そん さく)の軍事的勝利は速かったが、江東大族は北から来た武人に対してもともと警戒心を持っていた。周瑜(しゅうゆ)の紹介で張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)を迎え入れ、さらに自ら隠居する士人を礼を尽くして招くことで、軍事的征服を政権への吸収へと転化させ、江東大族の敵意が薄れるにつれて新秩序を受け入れさせた。第三は北方との関係である。曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)がいまだ勝敗を決していない間、孫策(そん さく)は「尊重される周縁」という位置にあった。張紘を許都(きょと)へ上表させて大司馬の職を求めるといった動きによって北方の反応を探り続けた。曹操(そうそう)の回答は通婚(曹仁(そうじん)の娘を孫匡(そん きょう)に嫁がせる)と制限(大司馬は認めない)という形をとり、この微妙な関係が孫策(そん さく)に独立政権を建立する猶予の窓を与えた。
政治的後果
孫策の江東平定(そんさくのこうとうへいてい)の政治的後果は直接的かつ構造的であった。第一に、江東六郡(呉・会稽(かいけい)・丹陽・豫章郡(よしょうぐん)・廬江(ろこう)・廬陵)が孫氏の一元的指揮下に入り、それ以前の劉繇(りゅう よう)・王朗(おうろう)・厳白虎(げんはくこ)各自割拠の状況に終止符が打たれた。第二に、新たに確立された輔政の枠組み(程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)が兵権を担い、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)・周瑜(しゅうゆ)が政略の参謀となり、朱治(しゅち)・虞翻(ぐはん)が地方を統合する)が東呉政権の人事的基盤を固め、この班底は赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の時においても中枢戦力であり続けた。第三に、199年の廬江(ろこう)奇襲と劉勲(りゅうくん)の撃破によって江東の勢力が北方の合肥(がっぴ/ごうひ)前線まで延伸し、曹操(そうそう)勢力と直接接触するに至った。これは戦略的機会を増した一方で直接対決のリスクももたらし、孫策(そん さく)晩年に許都(きょと)奇襲を企てた計画の物質的基盤となった。第四に、孫策(そん さく)の覇業は孫権(そん けん)が立国するための完全な「準国家」を遺し、孫権(そん けん)は即位後に政治・外交面でわずかな調整を加えるだけで継承することができた。
反事実の推演
仮に孫策(そん さく)が歷陽での周瑜(しゅうゆ)の適時の支援を得られず、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)による輔政班底も持たなかったとすれば、たとえ軍事的に劉繇(りゅう よう)・厳白虎(げんはくこ)を打ち破れたとしても、江東大族の反発によって政権はたちまち泥沼にはまり込み、父の孫堅(そん けん)のように他地で命を落とすことはほぼ確実であっただろう。また仮に袁術(えんじゅつ)が孫策(そん さく)の借兵の意図を早く見抜き、玉璽を抑留し孫策(そん さく)本人を拘束していたとすれば、江東の歴史はまったく別のものとなっていたはずである。しかし袁術(えんじゅつ)は視野が狭く玉璽に目が眩んでいたため、かえって孫策(そん さく)の望みを叶える結果となった。より広い視点から見れば、孫策(そん さく)の江東平定の成功は、この行動を純粋な軍事遠征として捉えず、「政権の移転」として体系的に取り組んだことにある。袁術(えんじゅつ)に依拠する流亡勢力から自立した江東政権へという変容であった。この軍事から政治への全体的な転換こそ、後世が孫策(そん さく)を「東呉の創建者」と評価する根本的な根拠である。
