史載(Historical Record)
許攸(きょゆう)は、字は子遠、もとは袁紹(えんしょう)の謀士であった。官渡の戦い(かんとのたたかい)の重要な時期において、袁紹(えんしょう)の謀士・許攸(きょゆう)は財を貪ったが袁紹(えんしょう)がその要求を満たさなかったため、袁紹(えんしょう)に背いて曹操(そうそう)のもとへ転じた。許攸(きょゆう)の来投は曹操(そうそう)にとって意義が大きかった。『曹瞞伝』の記載によれば、曹操(そうそう)は許攸(きょゆう)が来投したと聞いて、はだしで出迎え、手を打って喜び笑い、「子卿が遠くより来たり、わが事成れり」と称したほどであった。
許攸(きょゆう)は曹操(そうそう)に計を献じ、袁紹(えんしょう)の兵糧や輜重がすべて烏巣に集積され、しかも備えが手薄であることを指摘した。彼は曹操(そうそう)に軽兵をもって烏巣を奇襲し、その兵糧の集積を焼き払い、袁紹(えんしょう)の兵站の供給を断つよう提案し、袁紹(えんしょう)の軍は戦わずして自ずから崩れるだろうと予言した。曹操(そうそう)は許攸(きょゆう)の計を採り入れ、自ら五千の精鋭の歩騎を率い、袁軍を装い、枚を銜み馬の口を縛って、夜を徹して間道を急行し、烏巣を奇襲した。この奇襲は大いに成功し、曹操(そうそう)軍は淳于瓊(じゅんうけい)らの部を大いに破り、袁紹(えんしょう)の兵糧や宝貨をことごとく焼き払い、督将の眭元進、韓莒子、呂威璜、趙叡らを斬殺し、淳于仲簡の鼻を削いで袁軍に示した。
烏巣の戦いの勝利は、直接に袁紹(えんしょう)軍の崩壊をもたらした。袁紹(えんしょう)は淳于瓊(じゅんうけい)が撃破されたと知ると、その部将の張郃(ちょうこう)、高覽もまた曹操(そうそう)に投降した。袁紹(えんしょう)の大軍は潰散し、彼は長子の袁譚(えんたん)とともに軍を棄てて逃げ、河を渡って逃れた。曹操(そうそう)軍はこれにより袁紹(えんしょう)の大量の輜重、図書、珍宝を鹵獲し、その多くの士卒を捕虜とした。戦後、曹操(そうそう)は袁紹(えんしょう)の文書の中に、許昌(きょしょう)や軍中の人員と袁紹(えんしょう)との往来の書簡が多く見つかったが、曹操(そうそう)はこれを追及せず、これらの書簡をすべて焼き払い、その寛大な一面を示した。
演中(In the Novel)
『三国演義』において、許攸(きょゆう)の人物像はさらに造形が進められ、その登場はより早く、しかも性格の特徴がいっそう鮮明である。彼は初登場の際、袁紹(えんしょう)の謀士の身分で現れ、田豊(でんほう)、沮授(そじゅ)、逢紀(ほうき)らとともに冀州(きしゅう)の政務を分掌していた。官渡の戦い(かんとのたたかい)の前、許攸(きょゆう)は他の謀士とともに袁紹(えんしょう)に兵を起こして曹操(そうそう)を攻めるよう勧め、「明公は衆をもって寡に克ち、強をもって弱を攻め、漢賊を討ちて王室を扶く。兵を起こすは是なり」と考えた。
許攸(きょゆう)が曹操(そうそう)のもとへ身を投じる筋立ては、演義ではより劇的に描かれている。彼は袁紹(えんしょう)に許都を奇襲する計を献じたが採用されず、かえって審配(しんぱい)にその子や甥が汚職を働いたと讒言され、憤って自刎しようとした。左右の説得によって、彼はようやく「暗を棄てて明に投ずる」ことを決め、旧友の曹操(そうそう)のもとへ身を投じた。曹操(そうそう)は許攸(きょゆう)の来投に対して大いなる熱意を示し、「履を穿く間もなく、はだしで出迎え」、彼に拝伏して、「公はわが旧友なり、いずくんぞあえて名爵をもって上下せんや」と称したほどであった。
烏巣に計を献じる際、演義は許攸(きょゆう)と曹操(そうそう)の対話を重点的に描き出している。曹操(そうそう)は初め軍糧の数量を隠し、まず「一年は支えられる」と言い、後に「半年あるのみ」と言い直し、最終的に許攸(きょゆう)の問い詰めによって、ようやく「軍中にはこの一月の糧があるのみ」と認めた。許攸(きょゆう)はさらに、曹操(そうそう)と荀彧(じゅん いく)の糧を催促する書簡を直接指摘し、曹操(そうそう)を大いに驚かせ、こうして許攸(きょゆう)を完全に信頼させた。許攸(きょゆう)はすぐさま烏巣を焼く計を献じ、淳于瓊(じゅんうけい)の「酒を嗜み備えなし」という弱点を指摘した。
演義では、許攸(きょゆう)は曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を攻める際にも計を献じ、「漳河の水を決してこれを浸す」ことを提案した。しかし、許攸(きょゆう)は曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)城に入った後、言葉が軽佻であったために最終的に命を落とした。彼は城門を指さして曹操(そうそう)に向かって「阿瞞よ、汝はわれを得ざれば、いかでこの門に入るを得んや」と呼ばわり、また城中で許褚(きょちょ)に出会うと、再び自らの功労を誇り、許褚(きょちょ)らを「匹夫」と罵った。許褚(きょちょ)は大いに怒り、剣を抜いて許攸(きょゆう)を斬殺した。曹操(そうそう)は許褚(きょちょ)を責めたものの、なお許攸(きょゆう)を厚く葬り、旧友への追慕を体現した。
重要な関係
* 曹操(そうそう)(defected_to):許攸(きょゆう)と曹操(そうそう)は少年時代の旧友であり、この情誼は許攸(きょゆう)が袁を背いて曹に投ずる際に重要な役割を果たした。曹操(そうそう)は許攸(きょゆう)の来投に対して大いなる重視と礼遇を示し、はだしで出迎えたほどであった。許攸(きょゆう)もこれにより曹操(そうそう)に烏巣を焼くという決定的な計を献じ、曹操(そうそう)が官渡の戦い(かんとのたたかい)において勝利を得るのを助けた。しかし、演義では、許攸(きょゆう)は最終的に言葉が軽佻であったために許褚(きょちょ)に殺され、曹操(そうそう)は許褚(きょちょ)を責めたものの、許攸(きょゆう)を厚く葬った。
* 袁紹集団(えんしょうしゅうだん)(serves):許攸(きょゆう)はかつて袁紹(えんしょう)の重要な謀士であり、袁紹集団(えんしょうしゅうだん)の早期の発展と意思決定に関与した。しかし、彼と袁紹(えんしょう)の関係は安定せず、最終的に財を貪ったが満たされず(史載)、あるいは献じた計が採用されず子や甥が讒言された(演義)ために袁紹(えんしょう)に背いた,。
* 曹魏(そうぎ)(defected_to):許攸(きょゆう)は官渡の戦い(かんとのたたかい)の重要な時に曹操(そうそう)のもとへ身を投じ、その献じた計が直接に曹操(そうそう)の官渡の戦い(かんとのたたかい)における勝利を促し、曹魏(そうぎ)政権の建立の礎を築いた。
* 許褚(きょちょ)(許攸を殺害した者、演義独自):演義では、許攸(きょゆう)は言葉が軽慢で功労を誇ったために、曹操(そうそう)の護衛・許褚(きょちょ)を激怒させ、最終的に許褚(きょちょ)に斬殺された。
象徴的な場面
* はだしで出迎える:曹操(そうそう)は許攸(きょゆう)が来投したと知ると、「はだしで出迎え」、手を打って喜び笑い、「子卿が遠くより来たり、わが事成れり」と称した。この場面は曹操(そうそう)の許攸(きょゆう)に対する重視と旧友の情を十分に示すとともに、許攸(きょゆう)が続く戦役で重要な役割を果たすことを予示している。
* 烏巣に計を献じる:許攸(きょゆう)は曹操(そうそう)に計を献じ、袁紹(えんしょう)の兵糧が烏巣に集積され、備えが手薄であることを指摘し、曹操(そうそう)に軽兵をもって奇襲し、その兵糧を焼くよう提案した。この計は曹操(そうそう)に採り入れられて成功裏に実施され、官渡の戦い(かんとのたたかい)の転換点となり、直接に袁紹(えんしょう)の惨敗をもたらした,。
* 言葉が軽佻で殺される(演義独自):『三国演義』において、許攸(きょゆう)は曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を攻め取った後、功を恃み、言葉が軽佻で、まず曹操(そうそう)を「阿瞞」と呼び捨てにし、後にまた許褚(きょちょ)に出会うと無礼な言を吐き、最終的に許褚(きょちょ)に怒りのあまり斬殺された。この場面は許攸(きょゆう)の性格における傲慢で尊大な欠点を際立たせるとともに、人物の運命に対する演義の劇的な処理を反映している。
人間関係
5 件の関係
名言
全 20 件の台詞 · 厳選 3 件
「袁紹軍糧輜重,盡積烏巢,今撥淳于瓊把守。瓊嗜酒無備;公可選精兵,詐稱袁將蔣奇領兵到彼護糧,乘間燒其糧草輜重,則紹軍不三日將自亂矣。」
この計略は官渡の戦いで曹操が少数をもって多数に勝ち、戦局を逆転させる直接の原因となり、影響は甚大である。
「阿瞞,汝不得我,安得入此門?」
「阿瞞」は許攸が曹操を呼ぶ愛称で、二人の旧交を示すと同時に、許攸が功をたのんで驕っていることも暗示する。
「汝等皆匹夫耳,何足道哉!」
この言葉は許攸の傲慢不遜、人を見下す様を余すところなく示し、ついには身を滅ぼす災いを招く。
登場回8 回 ▸
- 史ch.1ch.12ch.23
- 演ch.7ch.22ch.30ch.32ch.33
関係の年表3 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 官渡(かんと)の決着がつき、袁紹(えんしょう)一族の輜重は焼き尽くされ、軍勢は潰走した。私はそこで初めて、かつて頼みとしていた家柄や精兵も、一夜の変事には抗えないのだと知った。あの頃、曹操(そうそう)公は兵糧が尽き、兵も疲れ果てたまま、袁紹
- 袁紹(えんしょう)の幕舎で、私は言うべきことをすべて言い尽くした。それでも聞き入れられず、耳に痛い忠言は、ついに私と彼を隔てる道となった。甥たちはすでに審配(しんぱい)の害に遭っている。私はどんな顔をして、また冀州(きしゅう)の人々に会えば
- 私は許攸(きょゆう)、字は子遠(しえん)である。世の乱れを憂える士人にとって、気がかりなのは身の進退だけではない。郡国の情勢、兵糧の量、主君に人を用いる力があるかどうか、いずれも勝敗を左右する。袁紹(えんしょう)が河内を最初に拠点とした頃、
生涯の大事1 ▸
- 0200-01-01 · 許昌(きょしょう)官渡の戦い(かんとのたたかい)· 軍師