起因
初平三年(192)四月、司徒の王允(おういん)と呂布(りょふ)が董卓(とうたく)を誅殺したことは、本来、東漢中興の好機となるはずであった。長安(ちょうあん)の百姓は歓喜し、士民は互いに祝い合い、多くの者が漢室の復興を夢見た。ところが王允の善後策は致命的な欠陥をすぐに露わにした。彼は涼州(りょうしゅう)系の軍隊に対して「赦さず、慰撫もせず」という強硬路線をとったのである。李傕(りかく)・郭汜(かくし)・張済(ちょうさい)・樊稠(はんちゅう)の四人は董卓の核心部将として涼州に逃げ帰った後、使者を立てて恩赦を求めたが、王允の返答は「卓の跋扈はすべてこの四人がこれを助けた。今、天下に大赦するといえど、この四人だけは赦さぬ」というものであった [c:17102]。この決断の政治的代価は甚大であった。数万の涼州兵を「叛かなければ生き残れない」という袋小路に追い込んだからである。賈詡(かく)はここで介入し、その名高い「長安への反攻」の提言を行った。各自逃げ散れば一人の亭長にも捕らえられるが、涼州兵を糾合して「国に代わり賊を討つ」名分で行動せよ。同時に「王允がこの地方の人間を一掃しようとしている」という流言で民心を煽動した [c:17102]。この語り口は反乱に「董卓の仇を討つ」正当性の衣をまとわせ、涼州人の王允への恐怖を十数万の民衆動員力へと転化した。これは中国政治史における「流言による動員」の典型的な事例である。
参与勢力
李傕・郭汜・張済・樊稠の四人が核心的な軍事力を構成し、四手に分かれて長安に攻め込んだ。途中、董卓の女婿の牛輔(ぎゅうほ)が五千の兵を率いて合流し、先鋒を務めた [c:17102]。京師方面では王允・呂布が主要な抵抗勢力であったが、呂布麾下の兵力は限られており、李肅(りしゅく)は最初の交戦で牛輔に撃破されて斬首された [c:17103][c:17104]。城内の「内通者」は李蒙(りもう)・王方(おうほう)ら董卓の残党であり、彼らが密かに城門を開けたことが長安陥落の直接の原因となった [c:17105]。漢献帝は完全に受動的な立場に置かれ、各方面から繰り返し政治的象徴として利用された。馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)が西涼軍(せいりょうぐん)を率いて援軍として入ったことは外部の反董勢力の介入を示すが、長安城内の家童の密告によって三家の少良賤が斬られ内通が無効化され、最終的に退却した [c:17109][c:17110]。曹操(そうそう)による建安元年の天子の西迎が、この乱局を最終的に打ち破る決定的な外力となった [c:17116][c:17117]。
重要な転折点
李傕・郭汜の乱(りかく・かくしのらん)は三つの明確な段階に分けられ、各段階に標識的な転折点がある。第一段階は長安の攻陥である。四手の涼州兵が十数万を集め、呂布の主力を迂回して李蒙・王方の内通によって城門を開けた。王允は逃亡を拒否し、宣平門の上から高々と自らの身分を名乗り、李傕・郭汜に現場で殺された。これは東漢の中央権威が崩壊した直接の節点である [c:17105][c:17106]。第二段階は李傕と郭汜の内訌である。四将が権を共有した後、李傕は宴を設けて樊稠を誅殺し [c:17111]、張済は弘農に退いて守りを固めた。傕と汜の関係も急速に悪化し、権を争って毎日五十余日にわたって戦いを繰り返した [c:17114]――李傕は献帝を郿坞(びう)に連行し、郭汜は公卿を人質にとって、互いに天子と百官を人質として持ち合った [c:17113]。京畿はそのため死者数知れず、国家中枢は実質的に機能しない状態となった。第三段階は曹操の西迎と最終的な清算である。曹操は建安元年(196)に勅命を受けて進軍し、許褚(きょちょ)・典韋(てんい)・夏侯惇(かこうとん)・曹仁(そうじん)ら複数の精鋭部隊が長安東郊で李・郭連合軍を全面的に撃破した。許褚は一人で李暹(りせん)・李別(りべつ)を陣中で斬り、李・郭は「西へ命からがら逃げ、まるで家を失った野良犬、どこにも居場所がないと知り、ただ山中に入って草賊になるほかなかった」[c:17117]。最終的に二人は段煨・伍習(ごしゅう)に誅殺された。
鎮圧と結果
軍事的に見れば、李傕・郭汜の乱の鎮圧は単一の戦役の結果ではなく、多方面の勢力が長期にわたって対抗した末の総合的な効果である――馬騰・韓遂が果たせなかった任務、呂布が果たせなかった任務、王允が果たせなかった任務を、最終的に曹操が天子の名のもとに完遂した [c:17117]。政治的に見れば、この乱は幾つかの不可逆的な後果をもたらした。第一に、長安が荒廃し西都は再び中央の首都として機能する能力を失い、東漢の政治的重心が完全に東へ移行した。第二に、涼州軍事集団は李・郭の敗亡後に凝集力を完全に失い、馬騰・韓遂・張済らは各自地方を経営するようになり、後の曹操の関西平定における分化の伏線が敷かれた。第三に、「天子を挟みて諸侯に号令する」政治的モデルが曹操の手によって正式に完成した――天子が東へ帰還した後は曹操の掌中に落ち、以降、献帝は曹魏(そうぎ)の影のもとで余生を過ごすことになった。
歴史的反響
李傕・郭汜の乱は中国政治史において教科書的な地位を占める。第一に、「流言による動員」が行き場を失った軍事集団をいかに大規模な叛乱に転化させるかの標本である。賈詡の一言が歴史の展開を変えた。この件が「毒士」という賈詡の烙印を確立した。第二に、「赦さず慰撫もせず」という路線が、失敗した政権の残余勢力を処理する際にいかに致命的な欠陥を持つかを示した。王允の強硬な立場は政治的には正当に見えるが、軍事的な実力の裏付けを欠く状態では逆に相手を死敵へと追い込んだ。この教訓は後世に繰り返し引用された。晋の呉平定後における呉・蜀の降臣の安置から、明初の元朝残余勢力の処理に至るまで、「寛を骨となし、厳を補佐とする」ことが基本原則とされている。第三に、李・郭の乱の内訌の一幕――四将が互いに誅殺し合い、傕・汜が天子と公卿を相互に人質にした――は、中国政治史において「権臣集団内部の解体」の最も典型的な事例の一つである。後世の権臣集団(董卓残党から司馬氏(しばし)まで、唐末の藩鎮に至るまで)に反面教師を提供した。権力集団内部に明確な中核的仲裁機制が欠ければ、必然的に自己崩壊へと向かうことを示している。大きな歴史的視点から見れば、李傕・郭汜の乱は董卓の乱(とうたくのらん)から三国(さんごく)鼎立への移行における重要な中継点である。漢室復興の最後の可能性を完全に打ち砕くとともに、曹操の勃興にとってかけがえのない政治的契機を創り出した。
