
史書の記載(Historical Record)
董昭(とうしょう)、字は公仁、済陰定陶(ていとう)の人である。彼は孝廉として推挙され、かつて癭陶長、柏人令を務めた。袁紹(えんしょう)はその才幹を重んじ、彼を参軍事に任じた。袁紹(えんしょう)が公孫瓚(こうそんさん)と界橋(かいきょう)で交戦した際、巨鹿太守の李邵(りしょう)および当地の士族は公孫瓚(こうそんさん)の兵が強いため、多くが帰附しようとした。袁紹(えんしょう)はこれを知り、董昭(とうしょう)を巨鹿へ派遣した。董昭(とうしょう)は到着後、袁紹(えんしょう)の檄文に仮託して、賊人が巨鹿を攻めようとしていると称し、郡中の右姓である孫伉らを内応者と指して、直ちに孫伉ら数十人を斬殺し、一郡を震慑し、最終的に吏民を安撫した c:6156。
その後、魏郡太守の栗攀が害に遭い、袁紹(えんしょう)はまた董昭(とうしょう)を魏郡太守に任じた。当時、魏郡の境内は大いに乱れ、賊寇は数万に上った。董昭(とうしょう)は往来する賊の使者を厚遇し、彼らを利用して情報を探り、虚に乗じて掩襲し、しばしば大勝を収めた c:6156。
董昭(とうしょう)の弟である董訪は張邈(ちょうばく)の軍中にいた。張邈(ちょうばく)は袁紹(えんしょう)と嫌隙があり、袁紹(えんしょう)は讒言を信じて董昭(とうしょう)に罪を加えようとした。董昭(とうしょう)は漢の献帝のもとへ投じようとし、河内を経た際に張楊(ちょうよう)に留められた。彼は張楊(ちょうよう)を説得して曹操(そうそう)と結交させ、曹操(そうそう)は弱いとはいえ実は天下の英雄であると考え、曹操(そうそう)のために書信をしたためて李傕(りかく)、郭汜(かくし)ら長安(ちょうあん)の将領と連絡させ、曹操(そうそう)と西方勢力の往来を促した c:3169。
建安元年、曹操(そうそう)が黄巾を平定した後、天子は洛陽(らくよう)へ還った。董昭(とうしょう)は天子に従って安邑に至り、詔を受けて議郎に拝された。曹操(そうそう)が洛陽(らくよう)で天子に朝見した際、董昭(とうしょう)は曹操(そうそう)に天子を許都(きょと)へ遷すよう建議し、この挙は「非常の事を行えば、すなわち非常の功あり」と考えた c:3170。彼はまた曹操(そうそう)のために謀を出し、楊奉(ようほう)を安撫し、最終的に曹操(そうそう)の遷都を成功させた。その後、董昭(とうしょう)は河南尹、冀州(きしゅう)牧、徐州(じょしゅう)牧、魏郡太守などの職を歴任した c:3170 c:13362。
関羽(かんう)が曹仁(そうじん)を樊城(はんじょう)に囲んだ際、孫権(そん けん)は使者を遣わして曹操(そうそう)に荊州(けいしゅう)を襲取することを告げ、曹操(そうそう)に秘密を保つよう請うた。群臣は皆秘すべきだと言ったが、董昭(とうしょう)は衆議を排して、曹操(そうそう)に孫権(そん けん)の書信を樊城(はんじょう)および関羽(かんう)の営中に射込み、曹仁(そうじん)の軍心を奮い立たせ、関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)を顧みて退兵するよう仕向けるよう建議した。曹操(そうそう)はその計を採用し、最終的に関羽(かんう)は敗走した c:3171。
曹丕(そうひ)が王を称した後、董昭(とうしょう)は将作大匠に任じられた。曹丕(そうひ)が即位した後、大鴻臚に遷り、右郷侯に進封された。後にまた邑百戸を分け、その弟の董訪に関内侯の爵を賜り、董昭(とうしょう)本人は侍中に遷った。曹休(そうきゅう)が江に臨んで渡江して作戦しようとした際、董昭(とうしょう)はその部下の臧覇(ぞう は)らが危険を冒すことを望まない心理を洞察し、曹休(そうきゅう)が詔令を受けてもなお躊躇して進まないだろうと予言した。まもなく、江水が暴漲し、敵船が風に吹かれて曹休(そうきゅう)の営下に至り、曹休(そうきゅう)は大いに勝利を収めた。曹丕(そうひ)は董昭(とうしょう)の先見の明に感嘆した c:13365。
魏の明帝が即位した後、董昭(とうしょう)は楽平侯に進爵し、邑千戸を賜り、衛尉に転じた。彼は最終的に八十一歳の高齢で亡くなり、諡号は定侯であった c:6158 c:3172。
演義の記述(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、董昭(とうしょう)の形象はさらに曹操(そうそう)の重要な謀士として造形されている。彼が初めて登場する時、眉目清秀で、精神充足の人として描かれ、当時東郡が大いに飢饉で、官僚軍民が飢えた顔色をしていたのと対比をなしている c:3173。曹操(そうそう)はその「淡食三十年」の養生の道に好奇心を抱いた。董昭(とうしょう)は自ら、かつて袁紹(えんしょう)、張楊(ちょうよう)の従事であったが、後に天子の還都によって朝覲に来て、正議郎に封じられたと述べた。彼は曹操(そうそう)と一見旧の如く、言談が投機した。
演義において、董昭(とうしょう)は曹操(そうそう)が漢の献帝を迎奉した後、曹操(そうそう)に許昌(きょしょう)への遷都を建議した。彼は「非常の事を行えば、すなわち非常の功あり」と強調し、曹操(そうそう)のために謀を出し、楊奉(ようほう)を安撫し、遷都を順調に進ませた c:3175。この筋立ては史実とおおむね一致するが、演義は董昭(とうしょう)の曹操(そうそう)初期の決定における鍵となる役割をより際立たせている。
曹操(そうそう)の権勢が日に盛んとなった時、演義において董昭(とうしょう)は曹操(そうそう)が魏公の位を受け、「九錫」を加えるべきだと最初に提起した人物である。彼は曹操(そうそう)が「風に櫛り雨に沐すること、三十余年、群凶を掃蕩し、百姓のために害を除き、漢室を復存せしめた、どうして諸臣宰と同列にできようか」と考えた c:3176。侍中の荀彧(じゅん いく)がこれに反対し、曹操(そうそう)は忠貞謙退の志を秉るべきだと考えたが、董昭(とうしょう)は己の見を堅持し、最終的に曹操(そうそう)が魏公に尊ばれることを促した。この筋立ては史書では董昭(とうしょう)が古に修い五等の封を建てることを建議した筋立てがあるが c:13363、演義はそれを九錫を加えることに具体化し、荀彧(じゅん いく)の反対と鮮明な対比をなして、董昭(とうしょう)が曹操(そうそう)の政治的野心の推進者としての形象を強めている。
さらに、関羽(かんう)が樊城(はんじょう)を囲んだ際、演義において董昭(とうしょう)も史実と同じ計策、すなわち孫権(そん けん)の書信を利用して関羽(かんう)と孫権(そん けん)を離間し、樊城(はんじょう)守軍の士気を瓦解させる計を提起した c:3177。演義はこれらの筋立てを通じて、董昭(とうしょう)を人心を洞察するに巧みで、事機に敏く、しかも曹操(そうそう)に忠心耿耿たる知囊として造り上げている。
重要な関係
* 曹魏(そうぎ)(仕える):董昭(とうしょう)は生涯を主に曹魏(そうぎ)政権に仕え、曹操(そうそう)の時期から、魏の明帝の時期に亡くなるまで仕えた。彼は曹操(そうそう)の重要な謀士であり、曹魏(そうぎ)政権の建立と固めに多大な貢献をした c:3170。
* 袁紹集団(えんしょうしゅうだん)(仕える):董昭(とうしょう)は早期にかつて袁紹(えんしょう)の参軍事であり、命を受けて巨鹿、魏郡の事務を処理し、卓越した政治的・軍事的才能を示した c:6156。
* 張楊(ちょうよう)(諫言する):董昭(とうしょう)は張楊(ちょうよう)に留められた期間、首尾よく張楊(ちょうよう)を説得して曹操(そうそう)と結交させ、曹操(そうそう)と西方勢力の連絡の道を切り開いた c:3169。
* 曹操(そうそう)(諫言する):董昭(とうしょう)は曹操(そうそう)の核心的な謀士の一人であり、たびたび曹操(そうそう)のために謀を出し、許昌(きょしょう)への遷都、関羽(かんう)の樊城(はんじょう)包囲への対処などの重大な事件を含む。曹操(そうそう)はその言を聴き従い、その謀略を称賛した c:3170 c:3171。
* 曹丕(そうひ)(諫言する):董昭(とうしょう)は曹丕(そうひ)の時期に引き続き重用され、その曹休(そうきゅう)の渡江戦事に対する精確な予判は、曹丕(そうひ)の賞賛を深く得た c:13365。
* 荀彧(じゅん いく)(対立):曹操(そうそう)に九錫を加える問題において、董昭(とうしょう)と荀彧(じゅん いく)は異なる政見を持ち、曹操(そうそう)集団内部の二つの異なる政治的立場を代表した(演義独自) c:13355。
象徴的な場面
* 巨鹿の民を安んじる:董昭(とうしょう)は初めてその政治的手腕を示し、檄文に仮託し、首悪を斬殺する方法で、迅速に巨鹿郡の混乱した局面を平定し、袁紹(えんしょう)の称賛を得た c:6156。
* 張楊(ちょうよう)を説いて曹と結ばせる:董昭(とうしょう)は張楊(ちょうよう)に留められた時、天下の大勢を鋭く洞察し、張楊(ちょうよう)を説得して当時まだ弱かった曹操(そうそう)と結交させ、曹操(そうそう)の後日の発展の基礎を築いた c:3169。
* 許昌(きょしょう)への遷都を力主する:曹操(そうそう)が漢の献帝を迎奉した後、董昭(とうしょう)は衆議を排して、許昌(きょしょう)への遷都の建議を提起し、曹操(そうそう)のために実施過程の難題を解決した。この挙は曹魏(そうぎ)政権の建立に極めて重要であった c:3170 c:3175。
* 樊城(はんじょう)の囲みを解く計を献ずる:関羽(かんう)が樊城(はんじょう)を囲んだ際、董昭(とうしょう)は孫権(そん けん)が荊州(けいしゅう)を襲おうとする書信を公にすることを提起し、関羽(かんう)の攻勢を瓦解させると同時に、曹仁(そうじん)の士気を奮い立たせ、最終的に関羽(かんう)を敗走させ、その高度な軍事謀略を示した c:3171 c:3177。
* 曹操(そうそう)に九錫を加えるよう建議する:董昭(とうしょう)は率先して曹操(そうそう)が魏公の位を受け、「九錫」を加えるべきだと提起し、曹操(そうそう)が漢に代わる進程を推進し、曹魏(そうぎ)政権への忠誠と政治的抱負を体現した(演義独自) c:3176。
* 曹休(そうきゅう)の渡江を予判する:董昭(とうしょう)は曹休(そうきゅう)の部下が危険を冒すことを望まない心理を精確に予判し、曹休(そうきゅう)が詔令を受けても軽々しく渡江しないだろうと予言し、その後の事態の発展が彼の判断を裏付け、人性に対する深い洞察を示した c:13365。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 董昭(とうしょう)は謀を練ることに長け、事の機微を敏く察した。彼は曹魏(そうぎ)の謀臣であり、かつて太祖を国公に進め九錫を賜るよう倡議した。
- 生涯
- 董昭(とうしょう)は字を公仁といい、済陰定陶(ていとう)の人である。彼は前後して袁紹(えんしょう)、張楊(ちょうよう)、曹操(そうそう)に仕え、曹操のために謀を献じ、許県への遷都を建議し、また五等爵の設立や魏公・魏王への進封を提議した。彼は冀州牧(きしゅう)、徐州牧(じょしゅう)、司徒などの職を歴任し、楽平侯・定侯に封じられた。
- 逸話
- 董昭(とうしょう)の弟の董訪は張邈(ちょうばく)の軍中にいた。彼はかつて洛陽令(らくよう)に封ぜられ、のちに衛尉・司徒にまで至り、青龍四年に世を去った。享年八十一、諡号は定侯である。彼はかつて曹操(そうそう)の主簿であり、関羽の軍心を乱す計を献じた。
人間関係
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名言
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「明公興義兵以除暴亂,入朝輔佐天子,此五伯之功也。但諸將人殊意異,未必服從。今留此,恐有不便。惟移駕幸許都為上策。然朝廷播越,新還京師,遠近仰望,以冀一朝之安;今復徙駕,不厭眾心。夫行非常之事,乃有非常之功:願將軍決計之。」
この言葉は曹操(そうそう)が天子を擁して諸侯に令する基礎を築くものであり、影響は極めて大きい。
「自古以來,人臣未有如丞相之功者。雖周公、呂望,莫可及也。櫛風沐雨,三十餘年,掃蕩群凶,與百姓除害,使漢室復存,豈可與諸臣宰同列乎?合受魏公之位,加『九錫』以彰功德。」
董昭(とうしょう)が曹操(そうそう)に魏公の位を受け九錫を加えるよう勧めたことは、曹魏(そうぎ)が漢に代わる重要な一歩である。
「將軍興義兵以誅暴亂,入朝天子,輔翼王室,此五伯之功也。此下諸將,人殊意異,未必服從,今留匡弼,事勢不便,惟有移駕幸許耳。然朝廷播越,新還舊京,遠近跂望,冀一朝獲安。今復徙駕,不厭眾心。夫行非常之事,乃有非常之功,原將軍算其多者。」
これは董昭(とうしょう)が曹操(そうそう)に許県への遷都を勧めた史実の記録であり、意義は大きい。
登場回6 回 ▸
- 史ch.3ch.14ch.16
- 演ch.14ch.61ch.76
関係の年表9 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は董昭(とうしょう)、字は公仁(こうじん)という。これまでの生涯を振り返れば、私の謀は時勢を見極め、実行できる策を求めることにほかならなかった。だが、謀というものは、ほんの一念の違いで軍の士気や勝敗、人命まで左右する。関羽(かんう)が樊城
- 私は董昭(とうしょう)、字は公仁、済陰の定陶(ていとう)の人である。若い頃、世の中が次第に乱れていくのを見て、郷里を治めるには、往々にして勢威ではなく、人情を見極め、時勢を見定められるかどうかが肝要だと知った。孝廉に推挙された後、私は瘿陶の
- 私は董昭(とうしょう)、字は公仁(こうじん)という。今振り返って、最も忘れがたいのは一通の書状ではない。洛陽(らくよう)が荒廃し、天子が都を離れて流浪した後、人々はそれぞれ異なる思惑を抱いていた。朝廷は旧都に戻ったものの、本当に安寧を得たと
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