
史実(Historical Record)
王允(おういん)は、字は子師、太原祁の人である。彼は少年のころからすでに非凡な節操を見せ、かつて郭泰に賞識され、「王佐の才」と称えられた。彼は豫州(よしゅう)刺史を歴任し、かつて荀爽(じゅん そう)・孔融(こうゆう)を辟召して従事とし、後に河南尹・尚書令に遷った。董卓(とう たく)の専権の時期、王允(おういん)は司徒に昇り、その忠正をもって漢室を扶け、朝野に深く頼られ、董卓(とう たく)もかつて信を推して朝政を委ねた c:2714。しかし、王允(おういん)の内心は董卓(とう たく)の暴行を深く憎んでいた。漢の献帝(けんてい)が初めて快癒した後、王允(おういん)は尚書僕射の士孫瑞、董卓(とう たく)の部将呂布(りょふ)と密かに董卓(とう たく)誅殺を謀った。彼らは董卓(とう たく)が入朝する機会を利用し、呂布(りょふ)が親兵を率いて掖門に伏を設けた。董卓(とう たく)が宮に入った後、呂布(りょふ)は詔書を懐にし、李肅らに董卓(とう たく)を格殺するよう指示し、その三族を夷した c:2713。董卓(とう たく)の死後、王允(おういん)は呂布(りょふ)と共に朝政を執り、呂布(りょふ)は奮武将軍に任じられ、温侯に封じられた c:12638。しかし、呂布(りょふ)は涼州(りょうしゅう)人の報復を畏れ、加えて涼州(りょうしゅう)人が董卓(とう たく)の死に怨みを抱いたため、李傕(りかく)・郭汜(かくし)ら董卓(とう たく)の旧部が兵力を集結させて長安(ちょうあん)を攻めるに至った。王允(おういん)は城が破れた後、漢の献帝(けんてい)を扶けて宣平城門に上って兵を避けたが、最終的に李傕(りかく)・郭汜(かくし)に擒えられた。李傕(りかく)らは董卓(とう たく)の仇を報いるとの名目で、王允(おういん)およびその妻子宗族十余人を誅殺し、長安(ちょうあん)城中の百姓は涙を流さぬ者はなかった c:2714。王允(おういん)の甥の王淩(おうりょう)と兄の王晨は長安(ちょうあん)の城が破れたとき幼く、城を越えて逃れ、命からがら郷里へ帰ることができた c:5877。
演義(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、王允(おういん)の姿はさらに肉付けされ劇的にされている。彼の初登場は、漢の献帝(けんてい)と陳留(ちんりゅう)王が北邙山から洛陽(らくよう)へ戻る際で、太尉の楊彪(ようひょう)ら百官と共に車駕を迎え、痛哭流涕した c:2715。董卓(とう たく)の入京後、王允(おういん)は董卓(とう たく)の跋扈な行いを深く憂え、かつて盧植(ろ しょく)・曹操(そうそう)らと酒席で廃立の事を議し、董卓(とう たく)の傲岸な気勢に不満を表した c:2716。
演義において、王允(おういん)は「連環の計」の鍵となる策画者である。彼は貂蟬(ちょうせん)の美貌を利用し、まず彼女を呂布(りょふ)に許嫁し、後にまた董卓(とう たく)に献じて、董卓(とう たく)父子を離間しようとした c:2718。彼は貂蟬(ちょうせん)に跪拝し、身をもって国に報い、漢室を救うよう懇願し、貂蟬(ちょうせん)も慷慨して応じた。呂布(りょふ)が貂蟬(ちょうせん)の事で董卓(とう たく)と隔たりを生じた後、王允(おういん)は呂布(りょふ)の董卓(とう たく)への不満を巧みに利用し、呂布(りょふ)が董卓(とう たく)を殺す決意をいっそう煽った。彼は呂布(りょふ)に董卓(とう たく)の「吾が娘を淫し、将軍の妻を奪う」禽獣の所業を指摘し、「将軍は自ら呂を姓とし、太師は自ら董を姓とす」をもって呂布(りょふ)の父子の情誼を瓦解させた c:12617。最終的に、呂布(りょふ)は王允(おういん)の説得の下、董卓(とう たく)を誅殺すると誓った。王允(おういん)は続いて士孫瑞・黄琬(こうえん)らと相談し、漢の献帝(けんてい)が新たに快癒した機を利用して、董卓(とう たく)を入朝させ、呂布(りょふ)に伏を設けてこれを誅殺させることを決めた c:2721。
董卓(とう たく)の死後、王允(おういん)はかつて蔡邕(さいよう)が董卓(とう たく)のために哭いたためにこれを処死し、この挙は演義において馬日磾らの不満と憂慮を引き起こし、王允(おういん)が「紀を滅し典を廃す、あに久しかるべけんや」 c:2723 と考えさせた。これは史実における蔡邕(さいよう)が殺された細部とは異なり、演義は王允(おういん)の剛愎自用を重点的に彩っている。李傕(りかく)・郭汜(かくし)ら董卓(とう たく)の旧部が長安(ちょうあん)に攻め入ったとき、王允(おういん)は呂布(りょふ)の共に関を出て難を避けよとの勧めを拒み、「難に臨んで苟くも免れんは、吾なさざるなり」と堅持し、最終的に宣平門楼から跳び下りて、慷慨として死に赴き c:12633、その忠貞不屈の姿を示した。
主要な関係
* 呂布(りょふ)(friend_of/ally):史実において、王允(おういん)は呂布(りょふ)と謀って董卓(とう たく)を誅殺し、共に朝政を執った c:2712。演義では、呂布(りょふ)はさらに王允(おういん)の「連環の計」の鍵となる実行者であり、二人は貂蟬(ちょうせん)によって結盟し、最終的に共に董卓(とう たく)を除いた c:12617。
* 李傕(りかく)(enemy_of):李傕(りかく)は董卓(とう たく)の旧部であり、董卓(とう たく)の死後、仇を報いるために長安(ちょうあん)に攻め入り、最終的に王允(おういん)およびその家族を殺害した c:2714。
* 曹魏(そうぎ)(serves):この関係は史実においても演義においても成立しない。王允(おういん)は董卓(とう たく)が誅されてほどなく李傕(りかく)・郭汜(かくし)に殺され、曹魏(そうぎ)政権に仕えることはできなかった。
* 少帝弁(りゅう べん)(serves):史実において、王允(おういん)は漢の献帝(けんてい)(劉協=献帝(けんてい))の時期に司徒を務め、忠心をもって朝廷を輔佐した c:2714。演義では、王允(おういん)は献帝(けんてい)(劉協)の即位初期にはすでに朝中の重臣であり、献帝(けんてい)を京へ迎える行動に参加した c:2715。少帝弁(りゅう べん)は漢の少帝で、董卓(とう たく)の入京前にすでに廃黜され毒殺されており、王允(おういん)は直接彼に仕えてはいない。
* 董卓(とう たく)(enemy_of):王允(おういん)は董卓(とう たく)誅殺の主謀の一人で、史実であれ演義であれ、彼は董卓(とう たく)を国賊とみなし、これを除くことを誓った c:2713。
* 貂蟬(ちょうせん)(ally)(演義独自):演義において、貂蟬(ちょうせん)は王允(おういん)の「連環の計」の核心人物で、美色をもって董卓(とう たく)と呂布(りょふ)を離間し、王允(おういん)が董卓(とう たく)を誅殺する条件を作り出した c:2718。
* 蔡邕(さいよう)(victim)(演義独自):演義において、王允(おういん)は蔡邕(さいよう)が董卓(とう たく)のために哭いたためにこれを処死し、この挙は論争を引き起こした c:2723。史実における蔡邕(さいよう)が殺された記載には、王允(おういん)の関与はあるものの、細部は演義とは異なる。
象徴的な場面
* 董卓(とう たく)誅殺を密謀する:王允(おういん)は呂布(りょふ)・士孫瑞らと密謀し、最終的に首尾よく未央殿で董卓(とう たく)を誅殺し、董卓(とう たく)の専権統治を終わらせた。これは王允(おういん)の一生で最も決定的な行動であり、史実であれ演義であれ、これについて詳しい記載がある c:2713。
* 「連環の計」で貂蟬(ちょうせん)を献じる(演義独自):演義において、王允(おういん)は董卓(とう たく)と呂布(りょふ)を離間するため、「連環の計」を案じ、義女の貂蟬(ちょうせん)をまず呂布(りょふ)に許し後に董卓(とう たく)に献じ、最終的に董卓(とう たく)が殺されるに至らせた。この筋立ては王允(おういん)の姿を大いに豊かにし、その知謀と国のために犠牲となる精神を示している c:2718。
* 呂布(りょふ)の退避の勧めを拒み、慷慨して死に赴く:長安(ちょうあん)の城が破れたとき、呂布(りょふ)は王允(おういん)に共に関を出て難を避けるよう勧めたが、王允(おういん)は断固として拒み、「難に臨んで苟くも免れんは、吾なさざるなり」と表し、最終的に李傕(りかく)・郭汜(かくし)に殺された。この場面は史実においても演義においても記載があり、王允(おういん)の忠貞不屈の品格を際立たせている c:2714c:12633。
* 酒宴で董卓(とう たく)を哭く(演義独自):演義において、王允(おういん)はかつて宴を設けて諸官をもてなし、席間に面を掩って大いに哭き、董卓(とう たく)が主を欺き権を弄び、社稷が危殆にあることを痛切に陳べ、これをもって諸官の義憤を奮い立たせ、曹操(そうそう)が計を献じて董卓(とう たく)を刺そうとする筋立てを引き出した c:2717。
* 怒って蔡邕(さいよう)を殺す(演義独自):演義において、王允(おういん)は蔡邕(さいよう)が董卓(とう たく)のために哭いたためにこれを処死し、士大夫の助命嘆願があったものの、王允(おういん)はなお動じず、「佞臣をして幼主の左右で筆を執らしむ」べきでないと考えた。この筋立ては王允(おういん)の剛烈で偏執的とさえいえる一面を示している c:2723。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 王允(おういん)の性格は慎重で思慮深く、機を借りて鋒を隠すことに長けていた [c:3]。彼は老練で深謀を巡らし、国を憂えて身を顧みず、歌妓を道具として、父子の間で幾度も話術を巧みに操った [c:4]。敗勢の中でもなお沈着に機略を定め、呂布(りょふ)の逃亡の勧めを拒み、自ら宣平門楼から身を躍らせて死についた [c:5]。
- 話し方
- 王允(おういん)の言葉づかいは、長い句では忠義を陳べ、短い句では臨機応変の駆け引きをなした [c:15]。呂布(りょふ)に対しては「将軍の才を敬う」「わが子よ」といった呼びかけで関係を近づけ、董卓(とう たく)に対しては「伊尹・周公」「舜・禹」になぞらえて高帽子をかぶせた [c:15]。
- 生涯
- 王允(おういん)、字は子師、太原祁の人で、若くして大節があり、郭泰に「王佐の才」と許された [c:6]。彼は豫州(よしゅう)刺史、河南尹、尚書令、司徒を歴任した [c:6]。初平三年、王允(おういん)は尚書僕射の士孫瑞、董卓(とう たく)の将である呂布(りょふ)と謀って董卓(とう たく)を誅殺し、事は成った [c:6]。後に李傕(りかく)、郭汜(かくし)が長安(ちょうあん)に攻め入り、王允(おういん)と妻子・宗族十余人が殺された [c:6]。
- 逸話
- 王允(おういん)は司徒であり、楊彪(ようひょう)らとともに帝を迎えて宮に還り、温明園の中で盧植(ろ しょく)の危難を解いた [c:1]。彼は董卓(とう たく)誅殺の主謀者であり [c:8]、連環の計を設けて董卓(とう たく)と呂布(りょふ)の父子を離間させた [c:12]。
人間関係
19 件の関係
名言
全 35 件の台詞 · 厳選 3 件
「今日並非賤降,因欲與眾位一敘,恐董卓見疑,故託言耳。董卓欺主弄權,社稷旦夕難保。想高皇誅秦滅楚,奄有天下;誰想傳至今日,乃喪於董卓之手:此吾所以哭也。」
この言葉は王允(おういん)が宴を設けた真の目的を明らかにし、国と民を憂える忠臣の姿を示している。
「將軍自姓呂,太師自姓董。擲戟之時,豈有父子情耶?」
この一句は王允(おういん)が董卓(とう たく)と呂布(りょふ)の父子関係を離間させる典型的な言葉であり、極めて策略に富んでいる。
「逆賊何必多言!我王允今日有死而已!」
この言葉は王允(おういん)が死に臨んでも凛とした正気を示すもので、その忠義の精神を集中的に体現している。
登場回8 回 ▸
- 史ch.1ch.6ch.7ch.28
- 演ch.3ch.4ch.8ch.9
関係の年表13 条 ▸
史 ch.1
- 呂布(りょふ)§17
friend_of
共杀董卓
史 ch.6
演 ch.3
- 少帝弁(りゅう べん)§12
serves
与楊彪等接驾还宫
- 董卓(とう たく)§15
advises_in
解和——"廢立之事,不可酒後相商,另日再議"
演 ch.4
- 董卓(とう たく)§30
enemy_of
设宴托言贱降以聚百官,密谋诛卓
演 ch.8
enemy_of
表面以「太师盛德巍巍」奉承,暗设连环计欲间其父子;本回称卓为「贼臣」
- 呂布(りょふ)§5
friend_of
先以金冠致谢,後许貂蝉为妾,意在用其手以杀董卓
kin_of
以亲女待之;本回叩头便拜,托以「百姓倒悬之危、君臣累卵之急」之大义
演 ch.9
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は王允(おういん)、字は子師(しし)。ここに至ってようやく、大事を成し遂げても、禍福はすぐには定まらないと知った。董卓(とう たく)が誅殺されると、長安(ちょうあん)の士人も庶民も祝い合い、その一党に取り入っていた者たちは獄に下された。天
- 私は王允(おういん)、字は子師である。今この時に至り、思うのは我が身の生死ではなく、漢王朝の社稷をなおどこに託せるかということだ。かつて董卓(とう たく)が朝廷を支配し、都を乱した折、私は士孫瑞と密かに謀って董卓を誅殺しようとした。呂布(り
- 私は王允(おういん)、字は子師(しし)という。若い頃に見聞きしたことの多くは、朝廷と州郡の間で起きたことだった。いま若き日を振り返って胸に思うのは、個人の栄辱ではなく、漢王朝の綱紀が安定を保てるかどうかである。だが、いまの私はすでに司徒の位
生涯の大事3 ▸
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