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濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)

217年(建安二十二年) · 濡須口(じゅしゅこう)

『三国演義』第六十一回・第六十七回・第六十八回の記述によれば、建安二十一年から二十二年(216〜217年)にかけて、曹操(そうそう)は自ら大軍を率いて南下し、合肥(がっぴ/ごうひ)方面から孫権(そんけん)の守る濡須口(じゅしゅこう)要塞を再度攻撃した。 この戦役は幾度もの対峙と互いの一勝一敗を繰り返したことを特徴とする。甘寧(かんねい)は百騎の夜襲で曹営を奇襲し、凌統(りょうとう)と張遼(ちょうりょう)は陣前で五十合を打ち合って勝負がつかず、楽進(がくしん)と曹休(そうきゅう)の冷矢に傷つきかけたところを、甘寧が楽進の顔面に一矢を命中させて救い出した。陳武(ちんぶ)は龐徳(ほうとく)と激戦の末、木の根に袖を引っ掛けて動きを封じられ斬られた。曹操が自ら江辺に出て射撃を指揮したところ、韓当(かんとう)・周泰(しゅうたい)・陳武・潘璋(はんしょう)の四将が三千の弓弩をもって反撃し、危うく捕縛されかけたが、許褚(きょちょ)に救出された。双方は一ヶ月余りにわたって対峙を続け、孫権は張昭(ちょうしょう)・顧雍(こよう)の進言を容れ、歩騭(ほしつ)を遣わして和を求め歳貢を約した。曹操もまた江南を攻略し難いと判断してこれを受諾し、孫権が先に撤兵すると曹操も班師した。これは孫権・曹操の濡須口における第二次の正面対決であり、「曹軍は容易に渡河できず、呉軍もまた反攻しがたい」という長期的な膠着の構図を確立した戦いであった。


濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)

シーン画像

第二次濡须口之战(216–217年(建安二十一至二十二年)):合肥之战 之子事件;涉及 曹操、孙权、张辽、凌统等;3 回/卷见于:演 ch.61、67、68。

登場人物: 曹操(そうそう)、孫権(そん けん)、張遼(ちょうりょう)、凌統(りょうとう)、周泰(しゅうたい)、甘寧(かんねい)


地理

人物

深掘り解説

AI 分析

戦略的背景

現代の戦史アナリストとして、濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)の第二次戦役は、曹操(そうそう)と孫呉(そんご)の長期的な覇権争いの地図の上に位置づけなければならない。建安十七年、孫権(そんけん)は呂蒙(りょもう)の建言を採り入れて濡須口(じゅしゅこう)に要塞を築き、巢湖(そうこ)と長江(ちょうこう)をつなぐ通路を完全に封鎖した。建安十八年、曹操が初めて南下したが攻略できなかった。三年後の二一六〜一七年、曹操は魏王に昇格し、漢中(かんちゅう)戦線以外でも突破口を開き、孫呉の「江淮(こうわい)防衛線」を押し返す必要に迫られていた。今回の南下は政治的宣示でもあった——魏王として新たに立ったからには軍事的成果を示さなければならない——と同時に地政学的な修正でもあった。合肥(がっぴ/ごうひ)・濡須・建業(けんぎょう)の縦深問題を解決しない限り、魏国は東南方向に「呉軍が北上して淮(わい)を叩く」という活きた脅威を抱え続けることになる。演義では張遼(ちょうりょう)が曹操に「孫権は濡須にあり、兵を挙げて攻め来ようとしており、合肥(がっぴ/ごうひ)の兵が少なく対抗しがたい」と報告し、曹操が漢中前線でその知らせを受けて東線への回援の要否を議論する場面が描かれている。

双方の配置

曹軍は曹操みずから親征し、張遼・李典(りてん)・楽進(がくしん)・許褚(きょちょ)・龐徳(ほうとく)・曹休(そうきゅう)ら中核の戦将を率いて合肥から南下し、号して数十万と称した。呉軍は孫権が前線に親臨し、主将としては呂蒙が大本営を統率し、凌統(りょうとう)が張遼の正面に当たり、甘寧(かんねい)が夜襲の機変を専担した。陳武(ちんぶ)・潘璋(はんしょう)・周泰(しゅうたい)・韓当(かんとう)が江岸の縦深防御を担い、徐盛(じょせい)・董襲(とうしゅう)が策応(さくおう)にあたり、陸遜(りくそん)は孫策(そんさく)の女婿として十万の兵を率いて対岸から増援に上陸した。地形上、濡須口は巢湖の江口を扼しており、曹軍が進軍するには水路が縦横に走る地帯に陸軍を集結させてから、拒馬(こば)と鉄鎖で構築した水寨(すいさい)を攻略しなければならなかった。このことが戦場を呉軍が最も得意とする「水陸両用+小部隊夜襲」の様相に引き込んだ。

重要な決断点

甘寧の夜襲は今次戦役の象徴的な出来事である。甘寧みずからわずか百騎を率いて夜間に曹営へ突入することを志願し、出陣前に百人を列座させて酒を酌み交わして決死の覚悟を示し、「命を捨てて力を尽くす」とした上で兵を繰り出した。この場面の描写は劇的ではあるが、戦術的合理性は極めて高い。双方の主力が沈黙対峙している段階において、少規模の奇襲で敵の士気を打ち砕くことは、呉軍が江淮戦場で繰り返し用いた「夜をもって昼に挑む」方式であった。第二の重要な決断は、凌統と張遼が正面から五十合戦って決着がつかない状況で、曹休が「暗に冷矢を放ち」凌統の馬を射倒し、甘寧が一矢を放って楽進の顔面を射て凌統を救出したくだりである。この一局は楽進に重傷を負わせただけでなく、凌統と甘寧の長年にわたる血讐(けっきゅう)を解き、「命懸けの友」として結び合わせた。東呉の主将たちの人間関係の修復は、その後数年にわたる江淮防衛線の安定に大きな意義を持つ。

第三の決断は戦略的な収束点にあった。一ヶ月余りの膠着の後、張昭(ちょうしょう)・顧雍(こよう)が講和を主張し、孫権はこれを採り入れて歩騭(ほしつ)を曹営に派遣して和議を結び、「年々歳貢を納める」と許した。曹操は「江南の急、今は攻め落とせぬ」と見て坡(さか)を降りるように矛を収めた。この「膠着に達したら速やかに収束する」という双方の相互抑制は、濡須口三次の戦役に共通する政治的節律(せつりつ)であった。

結果と余波

戦役は「形式上は呉が自発的に講和を申し入れ、実質上は曹軍が長江を渡れなかった」という形で終結した。陳武の戦死は呉軍で最も目立つ損失であったが、陸遜が十万の兵を率いて増援し、一撃で曹軍を岸辺に押し返した ため、全体の戦損は呉軍にとって許容範囲内であった。曹軍は楽進・董襲ら諸部が相当な損傷を受け、最も肝要なことは濡須口の防衛線を突破できず、長江の天険が依然として孫呉の支配下に留まったことである。この戦の長期的な余波は三点ある。第一に、呉軍は「濡須塁(じゅしゅるい)・江岸縦深・水陸機動」の三層防衛体系を確立し、その後222年に至るまで大規模な北方攻勢に晒されることはなかった。第二に、曹操が江南に三度親征して果たせなかったことで、南方への戦略を「圧迫するが落とさない」へと転換し、より多くの兵力を漢中と西線に振り向けた。第三に、凌統と甘寧の和解と陳武の犠牲が呉軍の中核戦将団の結束を高め、後に呂蒙が荊州(けいしゅう)を奇襲する際の人事的条件を整えた。

反実仮想

もし曹操が凌統と張遼の対陣で冷矢を放たず、あるいは楽進が甘寧に射倒されることなく再戦できたならば、曹軍がその局において勝利する確率は明らかに上がり、呉軍前線の士気は打撃を受けたであろう。しかしそれでも曹軍が実際に長江を渡るためには、二つの構造的障壁を克服しなければならなかった——濡須塁の工事と、長江上下流における水軍力の格差である。したがってより合理的な反実仮想は、もし曹操が二一六〜一七年にこの南征を発動せず、その兵力を漢中(かんちゅう)へ集中していたならば、劉備(りゅうび)の漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)は一〜二年遅れ、あるいは219年に完成することさえできなかった可能性がある。この観点からすれば、濡須口の第二次戦役の真の意義は呉軍がどれだけ勝ったかではなく、呉軍が曹魏(そうぎ)の精力を東線に確実に引き留め、間接的に蜀漢(しょくかん)が漢中を奪取する戦略的空白を作り出したことにある。江南を落とせず、漢中を失う——曹操晩年の二大軍事の遺憾は、実は同一枚の硬貨の表と裏であった。