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王朗(おうろう)

曹魏(そうぎ) · 御史大夫

王朗(おうろう)

字 景興

登場回
15
台詞の記録
19
人間関係
18
内面の独白
3

史載(Historical Record)

王朗(おうろう)、字は景興、東海(とうかい)郡の人である。彼は経学に通暁していたことから郎中に拝され、後に菑丘長を務めた。太尉の楊賜に師事し、楊賜が逝去すると、王朗(おうろう)は官を捨てて喪に服した。彼はかつて孝廉に挙げられ、公府に辟召されたが、いずれも応じなかった。徐州(じょしゅう)刺史の陶謙(とうけん)が王朗(おうろう)を茂才に察挙した。当時、漢の献帝は長安(ちょうあん)におり、関東で兵が起こると、王朗(おうろう)は陶謙(とうけん)の治中となり、別駕の趙昱(ちょういく)らとともに陶謙(とうけん)に勤王を勧めた。陶謙(とうけん)は趙昱(ちょういく)を遣わして奏章を長安(ちょうあん)に奉り、天子はその意を嘉して陶謙(とうけん)を安東将軍に拝し、趙昱(ちょういく)を広陵(こうりょう)太守、王朗(おうろう)を会稽(かいけい)太守とした c:2776。

王朗(おうろう)は会稽(かいけい)郡に四年在任し、民に恵みを施し、深く民心を得た。孫策(そん さく)が江を渡って地を略したとき、王朗(おうろう)は自らを漢吏として城邑を守るべきだと考え、兵を挙げて孫策(そん さく)と交戦したが、敗れた。彼は海を渡って東冶へ逃れたが、後に孫策(そん さく)に追撃されて大いに破られ、最終的に孫策(そん さく)に帰順した。孫策(そん さく)は王朗(おうろう)が儒雅であったため、詰責はしたものの危害を加えなかった c:2776。流離して窮困し、朝に夕べを謀れぬありさまでありながら、王朗(おうろう)はなお親旧を収恤し、多きを分けて少なきを割き、その義行は甚だ顕著であった。

建安三年(198年)、曹操(そうそう)が表を奉って王朗(おうろう)を徴召すると、孫策(そん さく)はこれを遣わした。曹操(そうそう)が孫策(そん さく)がいかにしてここに至ったかを問うと、王朗(おうろう)は答えて言った。「策の勇は一世に冠たり、儁才大志あり。張子布は民の望なり、北面してこれを相たり。周公瑾は江淮の傑なり、臂を攘げてその将たり。謀って成る有り、規するところ細ならず、終に天下の大賊と為らん、ただ狗盗のみにあらざるなり」 c:5923。王朗(おうろう)は諫議大夫に拝され、司空軍事に参じた。魏国が初めて建てられたとき、彼は軍祭酒として魏郡太守を領し、後に少府・奉常・大理に遷った。王朗(おうろう)の獄を治めるは寛恕を務め、罪の疑わしきは軽きに従い、明察にして法に当たる鍾繇(しょうよう)とともに獄を治めることで名を称えられた c:5923。

文帝曹丕(そうひ)が王位に即くと、王朗(おうろう)は御史大夫に遷り、安陵亭侯に封ぜられた。彼はかつて上疏して文帝に民を育み刑を省くよう諫め、「兵起こりて以来三十余年、四海蕩覆し、万国殄瘁す」と指摘し、法獄を慎むことの重要性を強調した c:5925。文帝が践阼すると、王朗(おうろう)はまた司空に改任され、楽平郷侯に進封された c:12713。彼はかつて肉刑復議の一事について鍾繇(しょうよう)と異なる意見を持ち、「繇は大辟の条を軽減し、もって刖刑の数を増益せんと欲す、これすなわち偃を起こして竪と為し、尸を化して人と為すなり」と考え、「死を減ずるの髠・刖」あるいは「その居作の歳数を倍す」をもって代えることを提案し、最終的に文帝は彼の建議を採用して、肉刑の復議はしばらく見送られた c:12710。

黄初年間、孫権(そん けん)はかつて使者を遣わして藩を称し、劉備(りゅうび)と交戦した。朝廷では、師を興して呉とともに蜀を取るべきかが議論された。王朗(おうろう)は議して言った。「天子の軍は華・岱より重し、誠に宜しく坐して天威を曜らし、動かざること山の如くすべし」。彼は孫権(そん けん)の軍が動く前に先に征すべきではなく、かつ雨水まさに盛んで、軍を行い衆を動かす時ではないと考えた。文帝は彼の計を採用した c:2780。

明帝曹叡(そうえい)が即位すると、王朗(おうろう)は蘭陵侯に進封され、五百戸を増邑され、前後あわせて千二百戸となった。彼はかつて鄴に至って文昭皇后の陵を省視し、百姓に不足ある者を見たが、当時はちょうど宮室を営修していた。王朗(おうろう)は上疏して曹叡(そうえい)に農耕に勤め、戎備を習うことを務めとし、大いに土木を興すべきではないと諫めた c:5926。彼はまた皇子が少ないことについて上疏し、曹叡(そうえい)に広く嗣を求めるよう諫めた c:2781。王朗(おうろう)は『易』『春秋』『孝経』『周官伝』および『奏議論記』を著し、いずれも世に伝わっている。太和二年(228年)、王朗(おうろう)は逝去し、成侯と諡された。その子の王粛(おうしゅく)が位を嗣いだ。王朗(おうろう)は人となり高才博雅、性は厳整慷慨で、威儀多く、恭倹節約し、婚姻における中表の礼贄を受け取らなかった。彼は常に、施しの名を好みながら窮賤を恤まない世俗を譏り、ゆえに財を用いるに急を周うことを先とした c:2781。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、王朗(おうろう)の形象は史載とやや異なり、とりわけ孫策(そん さく)や諸葛亮(しょかつりょう)との交戦においては、その文学的色彩がより濃厚である。

小説では、王朗(おうろう)は会稽(かいけい)太守の身分で登場し、兵を率いて白虎を救おうとする。郡吏の虞翻(ぐはん)はそれを不可とし、孫策(そん さく)は仁義の師、白虎は暴虐の衆であるから、白虎を擒えて孫策(そん さく)に献ずるべきだと諫めた。王朗(おうろう)は虞翻(ぐはん)を怒鳴りつけ、白虎と兵を合わせ、山陰の野で孫策(そん さく)と対陣した。孫策(そん さく)が王朗(おうろう)になぜ賊を助けるのかと詰問すると、王朗(おうろう)は孫策(そん さく)を貪心飽くなく、その界を強いて併せる者と罵り、厳氏のために仇を報いると称した c:2785。続く戦いの中で、王朗(おうろう)は孫策(そん さく)の計にかかり、その部将の周昕(しゅうきん)は孫策(そん さく)に刺殺され、厳白虎(げんはくこ)は敗走し、王朗(おうろう)も最終的に孫策(そん さく)の攻勢を阻むことができなかった c:12701。

曹魏(そうぎ)政権の樹立過程において、王朗(おうろう)は文官として、鍾繇(しょうよう)・王粲(おうさん)・陳琳(ちんりん)らとともに曹操(そうそう)に詩章を献じ、その功徳を称え、天命を受けるべきことを暗示した。曹操(そうそう)はこれに謙遜を示したが、言葉の中には自らの功績への自負も漏れていた c:5927。曹丕(そうひ)が王位に即くと、王朗(おうろう)は御史大夫に封ぜられ c:5928、後にまた司空に昇進した c:5929。曹丕(そうひ)が禅を受けて帝を称する儀式において、王朗(おうろう)は華歆(かきん)らとともに漢の献帝に禅位を力勧し、王朗(おうろう)はさらに「漢室相伝わること四百余年、陛下に延びて、気数すでに尽きたり、宜しく早く退避すべし、遅疑すべからず。遅ければすなわち変を生ぜん」と直言した c:2786。

曹叡(そうえい)が即位すると、王朗(おうろう)は司徒に封ぜられた c:5930。諸葛亮(しょかつりょう)の北伐の際、王朗(おうろう)は軍師として大都督の曹真(そうしん)に従って出征した。祁山(きざん)の戦いにおいて、王朗(おうろう)は自らの弁舌を恃み、一席の言で諸葛亮(しょかつりょう)を退けようとした。彼は諸葛亮(しょかつりょう)に天命が曹魏(そうぎ)に帰すことを陳べ、「戈を倒し甲を卸し、礼を以て来降せば、封侯の位を失わじ」と勧めた c:2787。しかし、諸葛亮(しょかつりょう)は慷慨激昂たる言辞で王朗(おうろう)を駁し、悪に手を貸す所業を痛烈に責め、最終的に王朗(おうろう)は諸葛亮(しょかつりょう)に罵られて馬から墜ちて死んだ c:2787。この筋立ては史書には記載がなく、諸葛亮(しょかつりょう)の智謀と弁舌を造形するために演義が虚構したものである。

関鍵関係

* 楊賜(Student of):王朗(おうろう)はかつて太尉の楊賜に師事し、楊賜が逝去すると官を捨てて喪に服しており、その師長への敬重がうかがえる c:2776。
* 陶謙(とうけん)(Serves):王朗(おうろう)は陶謙(とうけん)の麾下で治中を務め、陶謙(とうけん)に勤王を勧め、後に陶謙(とうけん)によって会稽(かいけい)太守に推挙された c:2776。
* 曹魏(そうぎ)(Serves):王朗(おうろう)は曹操(そうそう)の時代に徴召され、後に曹魏(そうぎ)政権で諫議大夫・御史大夫・司空・司徒などの要職を歴任した、曹魏(そうぎ)の重要な文臣である c:5923, c:5928, c:5929, c:5930。
* 孫策(そん さく)(Adversary/Captor):王朗(おうろう)はかつて孫策(そん さく)と交戦し、敗れて孫策(そん さく)に帰順したが、孫策(そん さく)はその儒雅さゆえに危害を加えなかった c:2776。
* 鍾繇(しょうよう)(Colleague):王朗(おうろう)と鍾繇(しょうよう)は獄を治めることにおいてそれぞれ重点を異にしたが、いずれも獄を治めることで名を称えられた。肉刑復議の一事においては両者の観点が異なり、王朗(おうろう)の建議が最終的に採用された c:5923, c:12710。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(Adversary):『三国演義』では、王朗(おうろう)は諸葛亮(しょかつりょう)と祁山(きざん)の戦いで有名な弁論を交わし、最終的に王朗(おうろう)は諸葛亮(しょかつりょう)に罵り殺された(演義独自) c:2787。
* 曹真(そうしん)(Colleague):『三国演義』では、王朗(おうろう)はかつて軍師として大都督の曹真(そうしん)に従って北伐に出征した(演義独自) c:5931。

象徴的な場面

* 会稽太守任上で民に恵みを施す:王朗(おうろう)は会稽(かいけい)郡に四年在任し、「恵愛民に在り」、かつて秦の始皇帝への祭祀を廃し、無徳の君は祀りを受けるべきではないと考えた c:2776。
* 陶謙に勤王を勧める:王朗(おうろう)は趙昱(ちょういく)らとともに陶謙(とうけん)に王命を奉承するよう勧め、使者を長安(ちょうあん)に遣わし、陶謙(とうけん)が安東将軍に拝されることを促した c:2776。
* 孫策と交戦して帰順する:王朗(おうろう)はかつて兵を率いて孫策(そん さく)と交戦し、敗れたがその儒雅さゆえに害されず、漢吏としての忠誠と孫策(そん さく)の寛宏を示した c:2776。
* 肉刑復議の争い:王朗(おうろう)は曹魏(そうぎ)の時代、鍾繇(しょうよう)と肉刑復議の一事について弁論を繰り広げ、最終的に彼の寛恕の主張が採用され、獄を治めるに寛恕を務めるその理念を示した c:12710。
* 曹丕に刑を省き民を育むよう諫める:王朗(おうろう)は文帝に上疏し、法獄を慎むことを強調し、民を育み刑を省く一連の措置を提出し、民生と国家の長治久安への関心を示した c:5925。
* 曹叡に節倹し宮室の修築を諫める:王朗(おうろう)は明帝の時代、曹叡(そうえい)が大いに土木を興した挙に対して上疏し、農耕に勤め戎備を習うことを務めとし、宮室を営修すべきではないと諫め、その恭倹節約の品格を示した c:5926。
* 諸葛亮と舌戦する:『三国演義』では、王朗(おうろう)は祁山(きざん)の戦いで諸葛亮(しょかつりょう)と有名な舌戦を繰り広げ、最終的に諸葛亮(しょかつりょう)に罵り殺され、小説における古典的な一場面となった(演義独自) c:2787。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
王朗(おうろう)は時に年七十六歳、中央に立つ白髯の老者であった。
性格
王朗(おうろう)は獄を治めるに寛恕を旨とし、罪の疑わしきは軽きに従い、厳正で慷慨、恭謙で倹約に努め、婚姻において中表の礼贄を一切受けなかった。持論に長け、言葉づかいは慎重であったが、また自負も強く、天命を口にすることを好んだ。
話し方
王朗(おうろう)は「天に順う者は栄え、天に逆らう者は亡ぶ」といった古訓を引くことに巧みで、「大魏は甲を帯びること百万、良将千員」の勢いを縷々と述べた。かつて「興れば必ず廃あり、盛んなれば必ず衰えあり」と立論して、帝に早く身を避けるよう勧めた。
生涯
王朗(おうろう)は字を景興といい、東海(とうかい)郡の人で、太尉楊賜に師事し、経に通じて郎中に任ぜられた。かつて会稽(かいけい)太守を務め、のちに曹魏(そうぎ)に帰し、諫議大夫・少府・奉常・大理などの職を歴任した。文帝が王位に即くと御史大夫となり、のちに司空に昇り、明帝が即位すると司徒に転じ、太和二年に薨じ、成侯と諡された。
逸話
王朗(おうろう)は本名を「厳」といい、のちに「朗」と改めた。許靖(きょせい)と旧交があり、曹魏(そうぎ)初年に公輔の大臣の位に至ってもなお書を送って旧誼を叙した。かつて陶謙(とうけん)に長安(ちょうあん)に上奏文を奉るよう勧め、また孫策(そん さく)に書を送って劉繇(りゅう よう)の身後の礼を議した。

人間関係

18 件の関係

名言

全 19 件の台詞 · 厳選 3 件

「天數有變,神器更易,而歸有德之人,此自然之理也。曩自桓、靈以來,黃巾倡亂,天下爭橫。降至初平、建安之歲,董卓造逆,傕、汜繼虐;袁術僭號於壽春,袁紹稱雄於鄴上;劉表占據荊州,呂布虎吞徐郡:盜賊蜂起,奸雄鷹揚,社稷有累卵之危,生靈有倒懸之急。我太祖武皇帝,掃清六合,席捲八荒;萬姓傾心,四方仰德:非以權勢取之,實天命所歸也。世祖文帝,神聖文武,以膺大統,應天合人,法堯禪舜,處中國以治萬邦,豈非天心人意乎?今公蘊大才,報大器,欲自比於管樂,何乃強欲逆天理,背人情而行事耶?豈不聞古人云:『順天者昌,逆天者亡。』今我大魏帶甲百萬,良將千員。諒腐草之螢光,怎及天心之皓月?公可倒戈卸甲,以禮來降,不失封侯之位。國安民樂,豈不美哉!」

演 第93回

この一段の慷慨たる弁舌は、王朗(おうろう)が『三国(さんごく)演義』において最もよく知られる形象であり、その「罵り殺される」という文学的故事を確立した。

「自古以來,有興必有廢,有盛必有衰。豈有不亡之國、不敗之家乎?漢室相傳四百餘年,延至陛下,氣數已盡,宜早退避,不可遲疑;遲則生變矣。」

演 第80回→ 献帝(けんてい)📍 許昌(きょしょう)

この言葉は漢室の衰微と曹魏(そうぎ)が漢に代わる必然性を説くもので、曹魏(そうぎ)の重臣としての王朗(おうろう)の政治的立場を体現している。

「來日可嚴整隊伍,大展旌旗。老夫自出,只用一席話,管教諸葛亮拱手而降,蜀兵不戰自退。」

演 第93回

この一句は王朗(おうろう)の自負と敵を侮る性格を示すもので、後の諸葛亮(しょかつりょう)との舌戦への伏線となっている。

登場回15 回 ▸
  • 史ch.2ch.3ch.13ch.17ch.27ch.38ch.49ch.52ch.57
  • 演ch.15ch.56ch.79ch.80ch.91ch.93
関係の年表12 条 ▸

史 ch.13

史 ch.17

史 ch.27

史 ch.49

演 ch.15

演 ch.80

演 ch.93

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は王朗(おうろう)、字は景興(けいこう)という。若い頃から経学を修めて身を律し、魏に仕えて司徒に至った。公卿の頂に身を置いても、憂えるのは一時の名声や地位ではなく、朝廷の施策が民を安んじ、国運を長く保てるかどうかであった。明帝(めいてい)
  • 今日に至るまで、私は常に、自分一人の進退だけでなく、一身に国の行く末が懸かっていると感じてきた。かつて召し出された折、曲阿や江海の間を転々とし、長年を経てようやくたどり着いた。孫策(そん さく)はかつて威勢をもって私に迫ったが、私は屈服しな
  • 私、王朗(おうろう)は字を景興(けいこう)といい、東海(とうかい)郡の出身である。若い頃、経書に通じて郎中に任じられ、その後、菑丘(しきゅう)の長となったことを思い起こす。経書に記された先王の道を思えば、政を行うにあたり、目先の都合だけを求
生涯の大事8 ▸