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濮陽の火攻め(ぼくようのひぜめ)

194年(興平元年) · 濮陽(ぼくよう)

『三国(さんごく)演義』第十二回の記述によれば、興平元年(194年)、曹操(そうそう)と呂布(りょふ)は兗州(えんしゅう)をめぐって激しく争い、濮陽(ぼくよう)の戦いは双方の交戦の中で最も危険なものであった。陳宮(ちんきゅう)が呂布のために策を巡らせ、濮陽の富豪・田氏(たし)に曹操への偽りの内応を演じさせた。城内を味方にしたと見せかけ、「義」の字を記した白旗を合図として曹軍を城内に引き込み、四門には伏兵と火攻めを予め仕掛けた。 曹操は罠に落ちて入城し、州衙に至って人影がないと気づいた時にはすでに重囲に陥っていた。四門から烈火が轟と立ち上がり、張遼(ちょうりょう)・臧覇(ぞうは)・郝萌(かくぼう)・曹性・高順(こうじゅん)・侯成(こうせい)らが各方向から挟撃してきた。曹操は北門・南門どちらからも遮られたが、典韋(てんい)が死闘で道を開いたおかげで脱出できた。東門を逃げる際には、城壁から崩れ落ちた燃える梁が戦馬を押しつぶし、手と腕・髭・髪を焼いた。 夏侯惇(かこうとん)が援軍を率いて呂布と黄昏まで死闘を繰り広げてようやく決着がつき、曹操は帰陣後に典韋を手厚く褒賞し、領軍都尉に昇任させた。この戦いは曹操の初期における最も危険な一戦の一つであり、典韋が曹操の核心的護衛となる地位を確立した出来事でもあった。


濮陽の火攻め(ぼくようのひぜめ)

シーン画像

濮阳火攻(194年(兴平元年)):兖州之战 之子事件;涉及 曹操、吕布、陈宫、典韦等;1 回/卷见于:演 ch.12。

登場人物: 曹操(そうそう)、呂布(りょふ)、陳宮(ちんきゅう)、典韋(てんい)、夏侯淵(かこう えん)、夏侯惇(かこう とん)


地理

人物

深掘り解説

AI 分析

戦略的背景

興平元年(194年)の濮陽の火攻め(ぼくようのひぜめ)は、曹操(そうそう)の初期においてもっとも危険な軍事行動であった。前年、曹操(そうそう)の父曹嵩(そうすう)が陶謙(とうけん)の部下に殺害され、曹操(そうそう)は報仇のために徐州(じょしゅう)に挙兵した。曹操(そうそう)の主力が徐州(じょしゅう)への遠征に出ている隙に、陳宮(ちんきゅう)が張邈(ちょうばく)兄弟を動かして呂布(りょふ)を迎え入れ、兗州(えんしゅう)の本拠地をほぼ全域で易旗させてしまった——鄄城(けんじょう)・東阿・范県の三つの孤城のみが、なお曹操(そうそう)の命令に従っていた。 曹操(そうそう)は急いで回師し、呂布(りょふ)と兗州(えんしゅう)で繰り返し一進一退の戦いを繰り広げた。濮陽(ぼくよう)は兗州(えんしゅう)の最も重要な城邑の一つであり、呂布(りょふ)に占拠された後は曹操(そうそう)が必ず奪い返さなければならない目標となった。しかし濮陽(ぼくよう)は城防が堅固であり、さらに陳宮(ちんきゅう)という一流の謀士が呂布(りょふ)を補佐していたため、強攻は代価が極めて大きかった。これが田氏の偽降計が成立する背景である——曹操(そうそう)には内応が必要であり、呂布(りょふ)の陣営もまた曹操(そうそう)の「城を急いで奪いたい」という心理を計算に入れていた。

双方の展開

呂布(りょふ)側では、呂布(りょふ)と陳宮(ちんきゅう)が謀りを合わせて罠を仕掛け、濮陽(ぼくよう)の土地豪族の田氏(でんし)に人を曹操(そうそう)の陣営へ送らせた。田氏(でんし)は自称して、濮陽(ぼくよう)では呂布(りょふ)の「残暴不仁」により民心が大いに憤っており、呂布(りょふ)は黎陽(れいよう)へ移兵しようとしていて城内には高順(こうじゅん)しか残らないため、曹操(そうそう)に速やかに内応として来るよう請うた。合図は西門の角に白い「義」の字の旗を挿すこととされた。同時に、呂布(りょふ)は張遼(ちょうりょう)・臧覇(ぞう は)・郝萌(かくぼう)・曹性(そうせい)・高順(こうじゅん)・侯成(こうせい)ら核心的な戦将を城内各方向に配置して包囲圏を形成し、四門への火攻めの物資も準備した。 曹操(そうそう)側では、劉曄(りゅうよう)が「陳宮(ちんきゅう)は多計であり、恐らくこの中に詐りがある」と警告し、「三軍を三隊に分けて、二隊は城外に伏して接応し、一隊が入城して初めてよい」と進言した。曹操(そうそう)はこの分兵案を採用した——夏侯惇(かこう とん)が軍を率いて左に、曹洪(そうこう)が軍を率いて右に、自らは夏侯淵(かこう えん)・李典(りてん)・楽進(がくしん)・典韋(てんい)の四将を率いて主力として入城した。事後から見れば曹操(そうそう)はリスクのヘッジを行ったが、自ら城中に入ることは致命的な誤りであった——李典(りてん)が「主公はしばらく城外にとどまり、某らに先に城へ入らせてください」と勧めたのに対し、曹操(そうそう)は「私が自ら行かなければ誰が前に進もうとするか」と一喝した——指導者が先頭に立つ姿勢がリスク管理を圧倒したのである。

決定的な判断ポイント

この戦役の重要な判断点は三つある。 第一は曹操(そうそう)が自ら入城を選んだことである。将の統御という観点から、主将が自ら険地に先んじることは士気を鼓舞する有効な手段である。しかしリスク管理の観点から見れば、軍事行動全体の成否を主将の個人的安全に賭けることになる。後から見れば、この判断はほぼ曹操(そうそう)の命取りとなるところであった。 第二は陳宮(ちんきゅう)の「門を開けて空を示す」誘敵戦術であった。城門が開くと侯成(こうせい)・高順(こうじゅん)が馬を出して「詐り敗れて走り」、典韋(てんい)が城門まで追いかけると高順(こうじゅん)も「防ぎ止められず」城内へ退いた——この一連の演技は「城内が空虚」という虚像を非常にリアルに演じ、曹操(そうそう)のような百戦の名将をも欺いた。 第三は初更に発動された総攻である。「初更頃、月光まだ上がらぬ」とき、西門で蝸牛の貝が吹かれて合図とされ、四門に猛火が天をつき、金鼓が一斉に鳴り、喚声は江が翻り海が沸くがごとくであった——呂布(りょふ)の伏兵が四方向から同時に州衙へ迫り、曹操(そうそう)はほぼ最初の瞬間に死地に陥った。これは冷兵器の時代に稀な多点同時奇襲であり、時間の精確さと連携の阿吽の呼吸を極めて高く要求するものであった。

結果と余響

曹操(そうそう)は四門の猛火の中で次々と脱出口を試みた。北門は郝萌(かくぼう)・曹性(そうせい)に遮られ、南門は高順(こうじゅん)・侯成(こうせい)に塞がれたが、典韋(てんい)の「目を怒らし歯を食いしばって突き進む」力によって高順(こうじゅん)・侯成(こうせい)を押しのけて城を出た。東門へ逃げたときにも典韋(てんい)の護衛があり、「馬を飛ばして煙を冒し火を突いて先に出た」。曹操(そうそう)はその後に続いたが、城門の道辺から崩れ落ちた火の梁が戦馬の後の胯に直撃し、馬が地に倒れ、曹操(そうそう)は手で梁を押しのけたが「手と腕と髭と眉毛がことごとく焼けただれた」。 その後、呂布(りょふ)が報を聞いて自ら追ってきた。曹操(そうそう)は「馬の頭を撥して東門の方へ走り」、典韋(てんい)の再度の掩護によって脱することができた。途中、夏侯惇(かこう とん)が援軍を率いて呂布(りょふ)の大軍を遮り激戦となり、黄昏時に大雨が激しく降り始めて双方は散り散りになった。曹操(そうそう)が大寨へ逃げ戻ってから、「典韋(てんい)を手厚く賞し、領軍都尉に加えた」——典韋(てんい)はここから曹操(そうそう)の核心護衛となり、その地位は夏侯・曹氏の宗族将軍の直下に位置した。 軍事的損失という観点から、濮陽の役で曹軍は半数を失ったわけではないが、曹操(そうそう)本人が九死に一生を得るほどの危機に瀕したことは、「敵の首領を狙う」式の至近距離からの脅威として曹操(そうそう)の心理に極めて大きな衝撃を与えた。以後の曹操(そうそう)は「内応」の情報に対してより慎重になり、自ら危険を冒して入城することは二度となかった。

反事実的推論

もし曹操(そうそう)が自ら入城せず、夏侯淵(かこう えん)や典韋(てんい)を先に入れていたとすれば、陳宮(ちんきゅう)の火攻めの計はもともと「曹操(そうそう)本人を生け捕りにする」ために設計されていた——四門の火攻め・四路の伏兵に城外の呂布(りょふ)の主力が加われば、数千の入城した曹軍を全滅させることはできた。しかし曹操(そうそう)が城外にいれば、夏侯惇(かこう とん)・曹洪(そうこう)の外応の両路を適時に動かして城内の包囲された部隊を救援するか、あるいは干脆にそれらの部隊を見捨てて大寨へ撤退して態勢を立て直すことができた。曹操(そうそう)の事に自ら当たる性格は個性でもあり、初期の軍閥の常態でもあった——典韋(てんい)に主将の危険を肩代わりさせるようになったのは、この救出の後のことであった。 もし陳宮(ちんきゅう)の計略に「門を開けての演技」がなければ、曹操(そうそう)は無謀に城内へ入ることはなかったかもしれない。偽降の書状だけでは百戦の将が警戒を解くには不十分であり、「侯成(こうせい)が出撃し、典韋(てんい)が斬り退け、城上に旗が挿される」という一連の動作の組み合わせがあってはじめて計略が成立する。陳宮(ちんきゅう)が呂布(りょふ)のそばで最も優れた謀士と称される所以は、こうした「多段階の欺瞞」を設計できる点にある——後の賈詡(かく)・郭嘉(かくか)と同等の知謀である。 逆に見れば、もし典韋(てんい)が曹操(そうそう)を救い出せなかったとすれば、三国(さんごく)の歴史全体が完全に書き変えられていたかもしれない。曹操(そうそう)が194年に死亡していれば、まだ四十歳であり、漢の献帝を迎えておらず、官渡の戦い(かんとのたたかい)もなく、北方統一もなかった。袁紹(えんしょう)・劉備(りゅうび)・孫策(そん さく)・呂布(りょふ)の格局は全く異なるものとなっていた。この意味において、典韋(てんい)が濮陽の役で主君を護った価値は曹魏(そうぎ)政権の存亡に関わるものであった。これはまた後の宛城の戦い(えんじょうのたたかい)(197年)で典韋(てんい)が戦死した際に、曹操(そうそう)が「典韋(てんい)を哭く」ことが長男の曹昂(そうこう)を哭くよりもはるかに深かった理由を説明する——典韋(てんい)なくして曹魏(そうぎ)なしということを、彼は明確に知っていたからである。