史載(Historical Record)
任峻(じんしゅん)、字は伯達、河南中牟の人。漢末、天下が大いに乱れ、関東地方は普く震動した。当時、中牟県令の楊原はこれを深く憂い、官を棄てて逃げようとした。任峻は楊原に進言して言った。「董卓(とう たく)が乱を作し、天下の人で側目せざる者はおりませぬ。されど、いまだ率先して事を起こす者がないのは、その心がないからではなく、時機が至らず、軽々しく動くを敢えてしないからにすぎませぬ。もし君が率先して倡導なされば、必ずや呼応する者が現れましょう。」楊原は問うた。「ではどうすればよいか。」任峻は答えた。「今、関東には十余県があり、よく戦う士兵は一万を下りませぬ。もし君が暫く河南尹の職権を行い、彼らを統合して用いれば、成らぬことはありませぬ。」楊原はその進言を採用し、任峻を主簿に任じた。任峻はそこで楊原に代わって上表し、暫く河南尹の事を行い、諸県に堅守を命じて、続いて発兵した。 c:4508
ちょうど曹操(そうそう)が関東で挙兵し、中牟県界に入った時、人々はどうすべきか分からなかったが、ただ任峻のみが同郡の張奮と相談し、最終的に全郡を率いて曹操に帰附した。任峻はまた別に宗族および賓客の家兵数百人を召集し、楊原とともに曹操のもとへ身を投じた。曹操はこれを非常に喜び、上表して任峻を騎都尉に任じ、自らの妹を彼に嫁がせ、彼を非常に親しみ信任した。曹操が出征するたびに、任峻はつねに後方に留守して、軍需の供給を担った。当時はちょうど飢饉と旱災に当たり、軍の糧食の供給が足りず、羽林監である潁川(えいせん)の人の棗祗が屯田制度の施行を建議した。曹操はそこで任峻を典農中郎将に任じ、民を募って許下で屯田させ、最終的に百万斛の糧食を得た。この後、諸郡国もまた次々と田官を設け、数年のうちに、各地に蓄えられた糧食は山のように積まれ、倉廩はみな満たされた。 c:4508
演中(In the Novel)
『三国演義』において、任峻の形象はおもに曹操勢力の崛起とその軍事行動の兵站保障の面に現れる。第十四回において、曹操が自ら大将軍武平侯を称した後、麾下の文武に一連の封賞を行った。その中で、毛玠(もうかい)と任峻はともに典農中郎将に任じられ、銭糧の催督を担った。これは史実において任峻が典農中郎将を務め、屯田によって軍糧の問題を解決したという記載とおおむね符合するが、演義はこれを毛玠と並べ、その「銭糧を催督する」職能を強調して、その兵站管理における重要性を際立たせている。 c:4509
しかし、第十七回において、演義の任峻に対する描写には、史実といささか逸脱した、かつきわめて劇的な筋書きが現れる。曹操が十七万の大軍を率いて李豐らと一月余り対峙し、軍糧の消耗が大きく、諸郡もまた荒旱のために補給が間に合わなかった。糧を管る官である任峻およびその部下の倉官王垕(おうこう)が曹操に軍糧不足の状況を報告した。曹操は「小斛をもってこれを散じ、しばらく一時の急を救うべし」との計を提出し、小斛によって糧食を分配して、一時的に危機を緩和しようとした。王垕が士兵がこれによって不満を抱くことを懸念すると、曹操は「吾自ら策あり」と述べた。この筋書きにおいて、任峻は「糧を管る官」として現れ、軍糧分配の決断の過程に直接参与し、間接的に曹操の「頭を借りて軍心を安んずる」という著名な一節をも成立させた(演義独自)。史実において任峻がこのような具体的な軍糧分配の戦略に直接参与したという記載はなく、いわんや王垕なる人物も存在せず、これは演義が曹操の形象を造形するために行った文学的創作である。 c:4510
主要な関係
任峻の主要な関係は、おもにその曹魏集団との緊密な結びつき、および特定の歴史事件における協力者に体現されている。彼はまず曹魏の忠実な奉仕者(serves)であり、曹操の挙兵の当初に郡を挙げて帰附し、曹操の重用と信任を得て、曹操に妹を嫁がせられさえし、その地位の特殊さがうかがえる。 c:4508
早期において、任峻はかつて中牟県令の楊原(advises_in)に進言し、楊原に暫く河南尹の事を行わせて挙兵させ、その卓越した見識と謀略を示した。 c:4508
任峻は同郡の張奮(friend_of)と関係が密で、二人はかつてともに相談し、最終的に中牟の全郡を率いて曹操に帰附することを決め、これは彼らの間に深い友誼と共通の政治的立場があったことを示している。 c:4508
さらに、任峻と棗祗(friend_of)は屯田制度の施行においても重要な協力があった。棗祗が屯田の建議を提出し、任峻は曹操により典農中郎将に任じられて、具体的に屯田の事務を担い、二人はともに曹魏の軍糧供給のために多大な貢献をなした。 c:4508
演義において、任峻はさらに毛玠とともに典農中郎将に任じられ、銭糧の催督を担い、これはある程度まで彼らの間の同僚関係をも構築している(演義独自)。 c:4509
象徴的な場面
任峻の象徴的な場面は二つあり、一つはその史実における曹魏政権の建立と発展への貢献であり、もう一つは演義において与えられた劇的な筋書きである。
その一、楊原を説いて挙兵させ、郡を挙げて曹に帰す。漢末の大乱の際、中牟県令の楊原が官を棄てて逃げようとすると、任峻は進み出て、その遠見卓識をもって楊原に暫く河南尹の事を行うよう説き、諸県に挙兵を号召した。続いて、曹操が中牟界に入った時、任峻はまた独り慧眼をもって、張奮と相談した後、毅然として全郡を率いて曹操に帰附した。この挙は曹操に貴重な兵力と地盤をもたらしたばかりでなく、任峻の曹操陣営における重要な地位をも定め、曹操はこれによって「大いに喜び」、「従妹を妻とせしめ」、その任峻への器重ぶりがうかがえる。この場面は、任峻の「寛厚にして度あり、事理を見る」という性格的特徴、および乱世において時局を把握する非凡な能力を十分に示している。 c:4508
その二、典農中郎将として、屯田制度を施行す。曹操の征伐の期間、軍糧の不足が一大難題となった。任峻は典農中郎将に任じられ、許下で屯田を施行する任を担った。彼は民を募って屯田し、百万斛の糧食を得ることに成功して、軍糧の危機を大いに緩和し、曹魏政権の長期的発展のために堅実な物質的基礎を築いた。この措置は任峻の卓越した行政管理能力を体現するばかりでなく、その兵站保障における肝心な役割をも顕示している。まさに任峻らの努力によって、曹魏は「数年中、在る所に粟を積み、倉廩みな満つ」となり、曹操が北方を統一するための堅実な後ろ盾を提供した。 c:4508
その三、「糧を管る官」と「小斛もてこれを散ず」(演義独自)。『三国演義』第十七回において、任峻は「糧を管る官」の身分で現れ、曹操に軍糧不足を報告した。曹操は「小斛」によって糧食を分配する計を提出し、最終的に王垕の頭を借りて軍心を安んじた。この筋書きは史実には記載がなく、かつ王垕は虚構の人物であるが、この場面は演義において、任峻の軍糧管理における職責を大いに際立たせ、間接的に曹操が軍糧危機を解決するというこの議論を呼ぶ決断の過程に参与させて、読者に深い印象を残した。 c:4510
人間関係
1 件の関係
親族1
台詞
- 史 ch.16 §3
“董卓首乱,天下莫不侧目,然而未有先发者,非无其心也,势未敢耳。明府若能唱之,必有和者。”
- 史 ch.16 §3
“今关东有十餘县,能胜兵者不减万人,若权行河南尹事,总而用之,无不济矣。”
登場回3 回 ▸
- 史ch.16
- 演ch.14ch.17
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は任峻(じんしゅん)、字は伯達、河南の中牟の人である。董卓(とう たく)が乱を起こした当初、関東が揺れ動き、県令の楊原(Yang Yuan)は憂え恐れ、官を捨てて去ろうとしていたことを思い起こす。私は彼に、天下の人々が注視しているなか、先