背景
現代政治史アナリストとして199年の孫策(そん さく)の廬江(ろこう)行動を当時の構図の中に置き直すと、この行動は単純な「拡張」ではなく、孫策(そん さく)が「江東の割拠者」から「北方において発言権を持つ諸侯」へと転換するための決定的な一歩であったことが見えてくる。当時、袁術(えんじゅつ)はちょうど僭号の失敗から北逃の途中に病死し、淮南の勢力は崩壊した。劉勲(りゅうくん)は袁術(えんじゅつ)の旧部として廬江(ろこう)を接収したばかりで、基盤はまだ固まっていなかった。曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)は官渡(かんと)で対決しようとしており、南方に手が回らなかった。長江の両岸に一時的な「政治的真空」が生じており、この窓口期間に最も速く動ける者が淮南から江北の戦略的要地を分取ることができた [c:16768]。
主要人物
この行動の主役はもちろん孫策(そん さく)と周瑜(しゅうゆ)であった。孫策(そん さく)はすでに江東の統一を完成させ、精兵に糧食も充実していた。周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)が最も信頼する統帥かつ戦略顧問として、廬江(ろこう)奇襲の実質的な立案者の一人であった(『三国志(さんごくし)・周瑜伝』によれば周瑜(しゅうゆ)はこの戦役で先鋒を務めた)。劉勲(りゅうくん)は攻撃を受ける側で、袁術(えんじゅつ)陣営から独立したばかりで安定した基盤を持たなかった。豫章郡(よしょうぐん)太守・華歆(かきん)は孫策(そん さく)の威勢がすでに確立していることを見て江東と敵対することを望まず、風に靡いて帰順することを選んだ [c:16768]。この行動の敵対者の中で真に手ごわかったのは劉勲(りゅうくん)ではなく、遠く許昌(きょしょう)にいた曹操(そうそう)であった。孫策(そん さく)の勢いを聞いた曹操(そうそう)は、曹仁(そうじん)の娘を孫策(そん さく)の末弟・孫匡(そん きょう)に配することで、孫策(そん さく)を「友好な隣人」の位置に縛り付けようとした。
核心議題
廬江(ろこう)奪取は三つの深層的な議題を含んでいた。第一は地政学的戦略である。廬江郡(ろこう)は長江北岸・淮河以南に位置し、江東と中原をつなぐ水陸の要衝であった。廬江(ろこう)の制圧は、江東勢力が初めて北方の合肥(がっぴ/ごうひ)・寿春(じゅしゅん)への攻撃の足がかりを持つことを意味し、孫策(そん さく)が袁術(えんじゅつ)・劉表(りゅう ひょう)勢力の崩壊と再編に介入できることをも意味した。第二は孫策(そん さく)と曹操(そうそう)の関係の位置づけである。199年以前、両者の間には名目上の同盟関係があり、孫策(そん さく)は朝廷の封号を受けていた。廬江(ろこう)奪取の後、孫策(そん さく)が「大司馬を求める」のを曹操(そうそう)が拒否したことは、孫策(そん さく)が帝国体制内の上級諸侯として格上げされることを望んだのに対し、曹操(そうそう)がそれを拒絶して線引きをしたことを意味した [c:16768]。第三は政権としての身分の転換である。廬江(ろこう)の一戦を通じて、孫策(そん さく)は朝廷の目に「揚州の地方勢力」から「独立して行動できる北上挑戦者」として正式に映るようになった。この身分の変化は機会をもたらすと同時にリスクをも伴った。
政治的後果
廬江(ろこう)の一戦の直接的な後果は複層的であった。第一に、東呉が北方に対する戦略的拠点を初めて構築した。その後の周瑜(しゅうゆ)・呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)数代の将領はいずれも廬江(ろこう)から合肥(がっぴ/ごうひ)にかけての前線を主要な戦場とすることになる。第二に、曹操(そうそう)の孫策(そん さく)に対する態度が「遠方の盟友」から「防備すべき強敵」へと変わり、「この獅子の子とは争えぬ」と嘆き通婚によって緩和を図ったことは、この心境の最良の証左である [c:16768]。第三に、孫策(そん さく)が「大司馬を求めて認められなかった」という挫折感が心中に積み重なり始め、「許都(きょと)を奇襲したい」という思いが彼の生命最後の段階における執念となった。まさにこの執念ゆえに呉郡太守・許貢(きょこう)が曹操(そうそう)に密書で孫策(そん さく)の脅威を報告することになり、許貢(きょこう)の死とその家客による復仇が引き起こされた。ある意味において、廬江(ろこう)の一戦が孫策(そん さく)暗殺(そんさくのあんさつ)の悲劇の序幕を開いたとも言えよう。
反事実の推演
仮に孫策(そん さく)が199年に江東六郡の統一だけで満足し、北方の廬江(ろこう)を奇襲しなかったとすれば、曹操(そうそう)との緊張はずっと少なかったはずであり、許貢(きょこう)も「曹操(そうそう)に密書を送る」動機を持たなかったかもしれない。そうなれば丹徒(たんと)西山での伏撃もあの年には起こらなかっただろう。さらに仮に孫策(そん さく)が廬江(ろこう)奇襲の後すぐに大司馬を求めず、低く出て新たに得た土地を消化して合肥(がっぴ/ごうひ)防衛線を固めることに専念していたとすれば、その能力と班底をもってすれば200年前後に曹操(そうそう)・袁紹(えんしょう)と並立する第三極を形成することが十分に可能であり、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の脚本は書き換えられていただろう。しかし歴史の実際の選択は、孫策(そん さく)が袁術(えんじゅつ)崩壊の窓口期間を捉えて江北への初期浸透を完成させたが、この行動がもたらした政治的衝撃をコントロールすることができなかったというものであった。この観点から見れば、孫策の廬江攻略(そんさくのろこうこうりゃく)は江東拡張の頂点であると同時に孫策(そん さく)個人の悲劇の出発点でもあり、両者の時間的重なりはほぼ一致している。この「頂点と没落の同時到来」という劇的性こそ、孫策(そん さく)の一生を研究する際に正面から向き合わなければならない決定的な節点である。
