言語
朱

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 将軍

朱治(しゅち)

字 君理

登場回
3
台詞の記録
2
人間関係
11
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

朱治(しゅち)、字は君理、丹楊故鄣の人である。早年に県吏を務め、後に孝廉に挙げられ、州府から従事に辟召されて、孫堅(そん けん)に従って四方を征伐した。中平五年(188年)、朱治(しゅち)は司馬に任じられ、孫堅(そん けん)に従って長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)三郡の賊寇周朝・蘇馬らを討伐し、戦功が顕著であったため、孫堅(そん けん)が朝廷に上表して、朱治(しゅち)を行都尉に任じた。その後、朱治(しゅち)はまた孫堅(そん けん)に従って陽人で董卓(とう たく)を撃破し、洛陽(らくよう)に入った。孫堅(そん けん)は再び上表して、朱治(しゅち)を行督軍校尉に任じ、歩騎兵を率いて東のかた徐州(じょしゅう)牧陶謙(とうけん)を援けて黄巾軍(こうきんぐん)を討伐させた。

孫堅(そん けん)が不幸にも世を去ると、朱治(しゅち)は孫策(そん さく)を扶けて、袁術(えんじゅつ)に身を寄せた。しかし、朱治(しゅち)が袁術(えんじゅつ)の政徳が立たないことを察すると、孫策(そん さく)に江東へ戻って発展するよう勧めた。当時、太傅馬日磾が寿春(じゅしゅん)におり、朱治(しゅち)を掾属に辟召し、後にまた呉郡都尉に遷した。ちょうど吳景がすでに丹楊におり、孫策(そん さく)は袁術(えんじゅつ)のために廬江(ろこう)を攻めていたが、劉繇(りゅう よう)は袁術(えんじゅつ)と孫策(そん さく)に併呑されることを恐れ、孫策(そん さく)と嫌隙を構えた。この時、孫策(そん さく)の家族は皆州内にいたので、朱治(しゅち)は人を遣わして曲阿へ赴き、孫太妃および孫権(そん けん)兄弟を迎え、彼らを心を尽くして供奉・輔佐し、その恩情は深かった。朱治(しゅち)が銭唐から呉郡へ進軍しようとした時、呉郡太守許貢(きょこう)が由拳で迎え撃ったが、朱治(しゅち)は許貢(きょこう)と交戦してこれを大破した。許貢(きょこう)は南へ逃れて山賊厳白虎(げんはくこ)に身を寄せ、朱治(しゅち)はかくして呉郡に入り、太守の事務を代行した。孫策(そん さく)が劉繇(りゅう よう)を破った後、会稽(かいけい)を平定した。孫権(そん けん)が十五歳の時、朱治(しゅち)は彼を孝廉に挙げた。孫策(そん さく)が世を去ると、朱治(しゅち)は張昭(ちょうしょう)らと共に孫権(そん けん)を擁立した。

建安七年(202年)、孫権(そん けん)が上表して朱治(しゅち)を呉郡太守に任じ、行扶義将軍を兼ねさせ、娄・由拳・無錫・毗陵の四県を割いてその封邑とし、長吏を置いた。朱治(しゅち)は在任中、夷越を征討し、孫権(そん けん)を助けて東南を平定し、黄巾の余党陳敗・万秉らを擒えた。黄武元年(222年)、朱治(しゅち)は毗陵侯に封じられ、依然として呉郡太守の職を兼領した。

朱治(しゅち)の性格は倹約であり、高位に身を置いても、車馬や服飾は日常に足るだけのものであった。孫権(そん けん)は彼を非常に優遇し、特に督軍御史として属城の文書を典らせ、朱治(しゅち)はわずかに四県の租税を領するのみであった。しかし、公族の子弟および呉郡の四大家族が多く郡中に任じられ、郡吏はしばしば数千人にのぼったので、朱治(しゅち)は数年ごとに数百人を選んで王府に送って任官させ、毎年の歳時には進貢し、孫権(そん けん)は皆手厚く報いた。当時、丹楊の深山地域には奸叛が多く、朱治(しゅち)は年老いて故郷の風土を思い、上表して故鄣に屯兵し、山越を鎮撫することを請うた。当地の父老郷里の者で訪れない者はなく、朱治(しゅち)は皆引見し、宴を設けてもてなしたので、郷里はこれを栄誉とした。故鄣に一年余りいた後、朱治(しゅち)は呉郡に戻った。黄武三年(224年)、朱治(しゅち)は世を去り、享年六十九歳、呉郡に任じて在ること三十一年に及んだ。

演義の中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、朱治(しゅち)の人物像は主に孫氏父子への忠誠と輔佐を中心に展開される。彼は第十五回に初めて登場し、孫策(そん さく)が袁術(えんじゅつ)の傲慢無礼に心中鬱々として、夜中に独り中庭を歩み声を上げて泣いた。この時、朱治(しゅち)が現れ、大いに笑って孫策(そん さく)に言った。「伯符よ、何ゆえこのように。尊父がご存命の時、多くわしを用いられた。君に決し難きことあらば、なぜわしに問わず、自ら泣くのか。」 朱治(しゅち)はそこで孫策(そん さく)に、袁術(えんじゅつ)から兵を借り、吳景を救援するという名目を借りて、実は江東の大業を図るよう勧めた。これは史実における朱治(しゅち)が孫策(そん さく)に江東へ戻って平定するよう勧めた記載と呼応するが、具体的な状況や対話の内容は演義の創作である。

演義における朱治(しゅち)のもう一つの重要な出番は、孫策(そん さく)の江東平定(そんさくのこうとうへいてい)の後である。孫策(そん さく)が王朗(おうろう)を破り、城を回復して民を安んじた後、朱治(しゅち)は呉郡太守に任じられた。これは史実における朱治(しゅち)が孫策(そん さく)の許貢(きょこう)撃破後に呉郡太守を代行し、後に孫権(そん けん)から正式に呉郡太守に任じられた経歴とほぼ一致するが、演義は朱治(しゅち)と許貢(きょこう)の交戦の細部を省略し、直接その任官を描いている。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜、第四十四回において、朱治(しゅち)は周瑜(しゅうゆ)によって「四方巡警使」の一人に任じられ、六隊の官軍を催督し、水陸並進して期日通りに集結させる責を負った。この任命は史書には明確な記載がなく、演義が人物像と筋立てを豊かにするために行った文学的創作に属し、孫権集団(そんけんしゅうだん)における朱治(しゅち)の地位と役割を際立たせている。もっとも、その具体的な軍事的職責は、史実ではむしろ行政や兵站の面に多く現れていたかもしれない。

主要な関係

* 孫堅(そん けん)(仕える):朱治(しゅち)は早年から孫堅(そん けん)に従って征伐し、司馬・行都尉・行督軍校尉などの職を務め、孫堅(そん けん)の旧部にして腹心であった。
* 孫策(そん さく)(補佐する):孫堅(そん けん)の死後、朱治(しゅち)は孫策(そん さく)を扶け、袁術(えんじゅつ)から離れて江東へ戻り大業を発展させるよう勧めた。演義では、朱治(しゅち)はさらに直接孫策(そん さく)を諭し、兵を借りて江東を図らせている。
* 孫権(そん けん)(仕える):孫策(そん さく)の死後、朱治(しゅち)は張昭(ちょうしょう)らと共に孫権(そん けん)を擁立した。孫権(そん けん)が十五歳の時、朱治(しゅち)は彼を孝廉に挙げた。孫権(そん けん)は朱治(しゅち)を極めて信任し優遇し、彼を呉郡太守・扶義将軍に任じ、封邑を賜った。
* 袁術(えんじゅつ)(仕える):孫堅(そん けん)の死後、朱治(しゅち)は一時袁術(えんじゅつ)に身を寄せたが、すぐにその政徳が立たないことを察し、転じて孫策(そん さく)に離脱を勧めた。
* 陶謙(とうけん)(共に戦う):朱治(しゅち)はかつて孫堅(そん けん)の命を受け、軍を率いて東のかた徐州(じょしゅう)牧陶謙(とうけん)を援けて黄巾軍(こうきんぐん)を討伐した。
* 孫翊(そん よく)(補佐する):朱治(しゅち)はしばしば孫権(そん けん)の弟孫翊(そん よく)の気性の激しさを責め、道義をもってこれを諭した。
* 孫賁(補佐する):孫権(そん けん)の従兄孫賁はかつて曹操(そうそう)が南土に威を震わせたため子を入質させようとしたが、朱治(しゅち)が赴いて利害を陳べて説き、ついに孫賁にその考えを断念させた。
* 周瑜(しゅうゆ)(同僚):演義では、朱治(しゅち)はかつて周瑜(しゅうゆ)によって赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の「四方巡警使」の一人に任じられた(演義独自)。

象徴的な場面

* 孫策(そん さく)を扶けて江東平定を勧める:孫堅(そん けん)の死後、朱治(しゅち)は孫策(そん さく)を心を尽くして輔佐し、袁術(えんじゅつ)の頼みにならぬことを鋭く察して、時宜を得て孫策(そん さく)に袁術(えんじゅつ)から離れ、江東へ戻って基業を開くよう勧めた。この行動は孫呉(そんご)政権の樹立にとって極めて重要であった。演義では、この場面は朱治(しゅち)が孫策(そん さく)の泣く時に現れ、直接孫策(そん さく)に兵を借りて江東を図るよう諭す形で具象化されている。
* 孫太妃および孫権(そん けん)兄弟を迎える:孫策(そん さく)が廬江(ろこう)を攻め、劉繇(りゅう よう)が嫌隙を構えた危急の時、朱治(しゅち)は人を曲阿へ遣わし、孫策(そん さく)の家族、孫太妃と幼い孫権(そん けん)兄弟を含めて、安全に身辺へ迎え入れ、心を尽くして供奉・輔佐し、その忠誠と孫氏一族への深い情誼を示した。
* 許貢(きょこう)を破り呉郡に入る:朱治(しゅち)は呉郡へ進軍する際、太守許貢(きょこう)の迎撃に遭ったが、軍を率いて許貢(きょこう)を大破し、首尾よく呉郡に入って太守の事務を代行し、孫策(そん さく)の江東平定の基礎を築いた。
* 孫賁に子を入質させぬよう勧める:孫権(そん けん)の従兄孫賁が曹操(そうそう)を恐れて子を入質させようとした時、朱治(しゅち)は自ら赴いて、大義と利害をもって陳べて説き、首尾よく孫賁の行動を阻止し、孫呉(そんご)宗室の安定を保った。
* 故鄣を鎮守し山越を安撫する:朱治(しゅち)は晩年、故郷を思って上表し、故鄣に屯兵して山越を鎮撫することを請うた。彼は故鄣にいる間、当地の父老郷里の者と宴飲し、郷党はこれを栄誉とし、その民を子のように慈しむ姿と地方における影響力を示した。
* 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)で巡警使を務める:『三国(さんごく)演義』では、朱治(しゅち)は赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜に周瑜(しゅうゆ)によって「四方巡警使」に任じられ、各部の軍隊を督促する責を負い、軍事行動における補佐的役割を示した(演義独自)。

人間関係

11 件の関係

台詞

  • 演 ch.15 §7

    「伯符何故如此?尊父在日,多曾用我。君若有不決之事,何不問我,乃自哭耶?」

  • 演 ch.15 §7

    「君何不告袁公路,借兵往江東,假名救吳璟,實圖大業,而乃久困於人之下乎?」

登場回3 回 ▸
  • 史ch.56
  • 演ch.15ch.44
関係の年表10 条 ▸

史 ch.56

演 ch.15

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は朱治(しゅち)、字(あざな)は君理(くんり)、丹陽(たんよう)の故鄣(こしょう)の出身である。今や年老いようとしている。これまでの人生を振り返って思うのは、己の功名ではない。孫氏(そんし)に従って兵乱をくぐり抜け、危機を支えて事業を確立