言語
程普(ていふ)

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 将軍

程普(ていふ)

字 德謀

登場回
17
台詞の記録
13
人間関係
18
内面の独白
3

史載(Historical Record)

程普(ていふ)、字は徳謀、右北平土垠の人。彼は早くに州郡に任官し、その優れた容貌・計謀・応対の能力で知られた。彼は孫堅(そん けん)に従って征戦し、宛・鄧の地域で黄巾軍(こうきんぐん)を討伐し、陽人で董卓(とう たく)を撃破し、攻城野戦において幾度も負傷した。孫堅が世を去った後、程普は引き続き孫策(そん さく)を補佐し、これに従って淮南で廬江(ろこう)を攻め落とし、ともに長江を東渡した。横江・当利・秣陵・湖熟・句容・曲阿などの地を攻め取る戦いにおいて、程普は屢々戦功を立て、そのため兵力が拡充され、兵二千、騎兵五十匹を増やされた。続いて、彼はまた烏程・石木・波門・陵伝・余杭などの地を攻め取る戦役において卓越した貢献をした。

孫策が会稽(かいけい)に入った後、程普を呉郡都尉に任じ、銭唐に駐守させた。後にまた丹楊都尉に転じ、石城に駐屯した。この間、彼は宣城(せんじょう)・泾・安呉・陵陽・春谷などの地の叛乱を平定した。孫策はかつて一度祖郎(そろう)に囲まれたが、程普は一騎兵とともに孫策を掩護し、疾駆して呼号し、長矛をもって敵陣に突入し、敵軍を潰散させ、孫策は危地を脱することができた。この後、程普は蕩寇中郎将に任じられ、零陵(れいりょう)太守を兼ねた。彼は軍に従って尋陽の劉勲(りゅうくん)を討伐し、沙羡の黄祖(こうそ)を攻め、戦後石城に帰って駐守した。

孫策が世を去った後、程普は張昭(ちょうしょう)らとともに孫権(そん けん)を補佐し、三郡内の服従しない勢力を平定した。彼は江夏(こうか)を征討する戦役に参加し、回師の途中で豫章郡(よしょうぐん)を経て、別に楽安を平定した。楽安が平定された後、彼は太史慈(たいし じ)に代わって海昏に駐守した。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において、彼は周瑜(しゅうゆ)とともに左右の督を担い、烏林で曹操(そうそう)の軍隊を大破した。戦後、彼らはまた南郡(なんぐん)を攻め、曹仁(そうじん)を撃退した。程普はこれによって裨将軍に任じられ、江夏太守を兼ね、沙羡に駐屯し、四県の地を食邑とした。

孫権麾下の諸将の中で、程普は年齢が最も上であり、当時の人々は皆彼を「程公」と称した。彼は性情が慷慨で施しを好み、士大夫と交わることを好んだ。周瑜が世を去った後、程普は彼に代わって南郡太守となった。後に孫権が荊州(けいしゅう)を劉備(りゅうび)に分け与えると、程普はまた江夏に帰って任に就き、蕩寇将軍に昇り、ほどなくして世を去った。孫権が帝を称した後、程普の功績を追論し、その子の程咨(ていし)を亭侯に追封した。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、程普の形象はさらに造形され、とりわけその早年に孫堅と孫策に従った経歴において、彼はしばしば孫氏集団の元老級の将領として登場する。董卓を討伐する連合軍において、程普は孫堅麾下の四将の一人として、鉄脊蛇矛を手に、初めて登場する。孫堅が思いがけず伝国の玉璽を手に入れた際、程普は孫堅に速やかに江東に帰り、別に大業を図るよう説き、玉璽の来歴を詳しく紹介し、その深謀遠慮の一面を示した。しかし、この情節は史書には明確な記載がない。

赤壁の戦いの前、曹操の大軍が境に迫り、東呉の諸将が戦降の問題で論争して止まなかった際、程普は黄蓋(こうがい)らの将領とともに断固として主戦を唱え、死すとも降らぬ決心を表明したが、これは史書における彼が孫権の重要な将領であるという形象と符合する。周瑜が大都督に任じられ、程普が副都督となった際、小説では程普が周瑜より年長であるため、初めは心中不快で、病と称して出仕しなかったと描く。しかし彼は周瑜の兵を調え将を遣わすことが巧みであると知ると、自ら営帳に赴いて謝罪し、周瑜を「真の将才」と称え、その誤りを改め賢能を敬う性格を示した。この情節は史書には記載がないが、『三国志(さんごくし)』には程普と周瑜が「睦まじからず」、後に「自ら敬服して親重す」と述べられており、小説はこれに芸術的加工を施したものである。

南郡を攻める際、周瑜が矢に当たって負傷し、程普はかつて諸将と退兵を協議したが、周瑜は偽病の計を用いて曹仁に営を劫かそうとさせ、程普はこの計を大いに賞賛した。孫権が楽進(がくしん)に追撃された危急の時、程普は間に合って駆けつけ、楽進を截殺し、孫権の一命を救い、再びその忠勇にして主を護る形象を際立たせた。

関鍵關係

* 孫堅集団:程普は孫堅の早期の追随者であり核心的な将領の一人で、黄巾の討伐から董卓の撃破まで、百戦を経て、屢々奇功を立てた、孫堅の左膀右臂であった。
* 孫策集団:孫堅が世を去った後、程普は引き続き孫策を補佐し、孫策が江東の基業を開く過程で重要な役割を果たし、とりわけ攻城略地や孫策を危地から救い出すなどの肝心な時に活躍した。
* 孫権集団(そんけんしゅうだん)/孫呉(そんご):孫策が世を去った後、程普は張昭ら元老とともに孫権を補佐し、孫呉政権の重要な礎を築いた一人である。彼は長く要職を務め、一方を鎮守し、孫権が信任する股肱の臣であった。
* 周瑜:史書には程普と周瑜が初めは睦まじくなかったが、周瑜が「節を折りて容れ下し、終に校せず」、程普が後に「自ら敬服して親重す」とあり、「周公瑾と交わるは、醇醪を飲むがごとく、覚えず自ら酔う」と称えたと記される。演義では、程普が周瑜の年少にして己の上に居ることに不満を生じ、後に周瑜の才幹に折服する情節を具体的に描いている(演義独自)。
* 曹操:程普は赤壁の戦いにおいて東呉の主将の一人として、周瑜とともに曹操の軍隊を大破し、曹操の重要な対手であった。
* 劉備:赤壁の戦いの後、程普は周瑜とともに曹仁を撃退し、劉備が荊州で発展する条件を作った。演義では、程普はかつて孫権に劉備を追殺することを諫止し、劉備には郡主(孫尚香)の助けがあるため、成功しがたいと考えた(演義独自)。

標誌性場景

* 陽人にて董卓を破る:程普は孫堅に従い、陽人で董卓の軍隊を撃破し、傷を負って、その勇武と忠誠を示した。
* 孫策を救って危地を脱せしむ:孫策が祖郎を攻める際に囲まれたが、程普は一騎兵とともに奮力して囲みを突破し、孫策を危難から救い、その危に臨んで乱れぬ応変の能力と主公への忠心を示した。
* 赤壁の戦い:程普は周瑜とともに左右の督を担い、水軍を率いて烏林で曹操を大破し、孫呉政権の基業を定めた、これは彼の軍事生涯の頂点である。
* 周瑜と矛盾を解く:史書には程普が初め年長であるため周瑜を軽んじたが、周瑜が徳をもって人を服させ、最終的に程普が周瑜に敬服し、「周公瑾と交わるは、醇醪を飲むがごとく、覚えず自ら酔う」との感嘆を発したと記される。演義では、程普が周瑜の兵を調えることが巧みであるために心服し、自ら周瑜に謝罪する情節を具体的に描いている(演義独自)。
* 合肥にて孫権を救う:合肥の戦い(ごうひのたたかい)において、孫権が楽進に追撃された危急の時、程普は間に合って駆けつけ、楽進を截殺し、孫権の一命を救い、再び肝心な時における主を護る功を際立たせた(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
程普(ていふ)は堂々たる容貌をそなえていた。
性格
程普(ていふ)は計略があり、応対に長け、性は施しを好み、士大夫を愛した。みずから孫将軍に従って基業を開き創めたと自負し、大小数百戦を経て、曹に降ることを恥とした。はじめは爵位が周瑜(しゅうゆ)より低いことを喜ばなかったが、のちに周瑜(しゅうゆ)の用兵に法があるのを見て、みずから陣営を訪れて謝罪した。
話し方
程普(ていふ)の言葉づかいは老将の口ぶりで、率直で慷慨していた。
生涯
程普(ていふ)は右北平土垠の人で、はじめ州郡の吏となった。孫堅(そん けん)に従って黄巾を征討し、董卓(とう たく)を破り、孫堅(そん けん)・孫策(そん さく)・孫権(そん けん)の三代に歴事した。陣前ではかつて華雄(かゆう)の副将胡軫(こ しん)を刺し殺した。
武器
程普(ていふ)は鉄脊蛇矛を用いた。
逸話
程普(ていふ)は諸将の中で年が最も長く、当時の人は皆彼を程公と称した。かつて周瑜(しゅうゆ)とともに左右の督となり、それぞれ一万を率いて赤壁(せきへき)で劉備(りゅうび)と会し、のちに南郡(なんぐん)太守を領した。

人間関係

18 件の関係

名言

全 13 件の台詞 · 厳選 2 件

「吾等自隨孫將軍開基創業,大小數百戰,方纔戰得六郡城池。今主公聽謀士之言,欲降曹操,此真可恥可惜之事。吾等寧死不辱。望都督勸主公決計興兵。吾等願效死戰。」

演 第44回→ 周瑜(しゅうゆ)

この一句は江東の元老としての程普(ていふ)の忠誠と気骨を示すもので、その人物像を代表するものである。

「吾素欺周郎懦弱,不足為將;今能如此,真將才也!我如何不服?」

演 第44回→ 程咨(ていし)

この一句は「程普、周瑜に服さず」という故事の転換点であり、程普(ていふ)の度量と才を見抜く目を体現している。

登場回17 回 ▸
  • 史ch.32ch.35ch.47ch.54ch.55
  • 演ch.5ch.6ch.7ch.15ch.29ch.44ch.45ch.51ch.52ch.53ch.55ch.56
関係の年表20 条 ▸

史 ch.32

史 ch.54

史 ch.55

演 ch.5

演 ch.6

演 ch.7

演 ch.29

演 ch.44

演 ch.51

演 ch.53

演 ch.55

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 今や私は年老い、諸将の多くは私より年下である。当時の人々は私を「程公」と呼んだ。これまでの生涯を振り返れば、まず孫堅(そん けん)に従い、孫堅の死後は伯符(Hakufu)に従って淮南で廬江(ろこう)を攻めた。東へ渡った後の横江、当利、秣陵、
  • 私は程普(ていふ)、字は徳謀(とくぼう)、右北平の土垠(どぎん)の人である。初め州郡の役人となり、容貌や計略によって才を示し、談話や応対の場でも巧みに立ち回った。孫堅(そんけん)に従って征討に出ると、宛(えん)・鄧(とう)で黄巾を討ち、陽人
  • 私の名は程普(ていふ)、字は徳謀という。若き日に孫堅(そん けん)に従って出征したことを思えば、見聞の多くは戦場でのことだった。史書には、私が黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、祖茂(そも)らと堅に従って関所まで進んだとあるだけで、初めて従
生涯の大事13 ▸