背景
孫権(そん けん)が建安十三年(208年)秋に直面したのは、「二つの戦争」の同時進行という状況だった。曹操(そうそう)が八月に南下して襄陽(じょうよう)に入り、九月に劉琮(りゅうそう)の水軍を接収することで荊州(けいしゅう)の水師と江夏(こうか)防衛線を一気に飲み込んだ。同時に孫権は春夏に江夏の黄祖(こうそ)を征伐したばかりで、江東の主力はなお江北で休整中だった。十月までに方針を定め、各都督を動かせる人物に指揮権を確立しなければ、江東は「降伏」か「自壊」かの二択を迫られることになる。周瑜(しゅうゆ)が鄱陽から柴桑(さいそう)に召還されたのは、まさにこの窓期の最後の決断の機であった。
主要人物
周瑜はこのとき三十四歳、孫策(そん さく)の時代から江東で最も威望のある中護軍であった。しかし彼は長年、皖城方面で軍を率いており、江東在地の文官集団(張昭(ちょうしょう)・秦松・陸績(りくせき))の政治ネットワークとはさほど近しくなかった。程普(ていふ)は孫堅(そん けん)の旧部で、孫氏の起家にかかわるほぼすべての戦役に参加した最古参であり、最も自負心も強かった。魯粛(ろしゅく)は孫権が臨淮から引き立てた「榻上策(とうじょうさく)」の立案者で、劉備(りゅうび)との同盟交渉という外交の主線を担っていた。孫権自身はこのとき二十七歳、即位からわずか七年であり、彼の核心的課題は、主降派が言論の上風を占める会議の場で、意思決定権を「合法的に」主戦派の手に渡すことにあった。都督の任命こそがその答えだった。
核心議題
この任命の真の議題は「誰が戦うか」ではなく、「どのような指揮構造で戦うか」であった。孫権は単一統帥制を退け、左右両都督に賛軍校尉を加える体制を選んだ。周瑜が左都督として謀略と水軍を主導し、程普が右都督として歩兵と江北宿将を主導し、魯粛が賛軍校尉として劉備との連合軍調整を担った。この三者の上に孫権本人が最終裁断者として置かれた。この構造は、程普の資歴が周瑜に直接圧制されないよう配慮しつつ、いかなる戦場決断も「主謀(周瑜)+副貳(程普)+外交(魯粛)」の三方同意を要する仕組みとし、一方による独断を防いだ。さらにこの体制は「主戦」という政治的判断を軍事建制によって担わせる形に変え、張昭ら降伏派が議論を続ける入り口を塞いだ。
政治的帰結
最も直接的な結果は、十月に赤壁(せきへき)で開戦し、十二月に烏林で曹軍を大破したことであり、江東はここで孫策旧来の領土から「江東独立政権」への最終的な飛躍を果たした。しかし長い目で見れば、「左都督周瑜・右都督程普」という二軌制は孫呉(そんご)軍事制度の母型となった。後の魯粛の陸口督・呂蒙(りょもう)の荊州奇襲・陸遜(りくそん)の夷陵(いりょう)での蜀軍迎撃、これらはいずれも「主謀都督+資深副貳+主公が後方で裁断」という構造を各方面で反復したものにほかならない。周瑜が二年後に巴丘(はきゅう)で病没した後も、彼が建安十三年秋に設えた指揮の三角形は継続した。魯粛が左都督の位置を引き継ぎ、程普が右を守り続けた。江東のその後整々二十年の対外軍事は、ほぼすべてこの軌道の上を走った。
反事実推演
もし孫権がその日に単一統帥制を採っていたなら、周瑜を拝しても程普を拝しても、他方の消極的な反発を招いていたであろう。前者は程普が代表する孫堅旧部に亀裂をもたらし、後者は水軍の実際の指揮権が水戦に不慣れな将領の手に渡ることになる。どちらの場合も、赤壁前夜の江東軍が一致した行動をとることは不可能だったはずだ。逆に、孫権が主降派の圧力に屈して「暫時静観」の折衷策を採り、例えば周瑜を夏口(かこう)防衛に留めるだけで江北への出兵を見送っていたなら、劉備の樊口での立場は急速に崩壊し、連合軍が成立する前に曹操の次の一手は赤壁ではなく呉郡への直接上陸となっていた可能性が高い。それゆえ建安十三年秋のこの、人事任命に見えた会議は、実のところ「江東主戦・連劉抗曹・双都督制」という三点を一度に制度化したものであり、赤壁の勝利はその第一の産物に過ぎなかった。
