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甘寧(かんねい)

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 副将

甘寧(かんねい)

字 興霸

登場回
18
台詞の記録
27
人間関係
27
内面の独白
3

史載(Historical Record)

甘寧(かんねい)は字を興霸といい、巴郡(はぐん)臨江の人で、その先祖はもと南陽(なんよう)の籍であった。彼は若いころから力が人並み外れ、遊侠を好み、一群の軽薄な少年を招き集めて、その首領となった。この一群は常に弓弩を佩び、腰に鈴を懸け、百姓は鈴の音を聞けば、甘寧が来たと知った。彼らの行いは派手で、応接を周到で隆重にする者とは交わりを結び、そうでなければその財物を奪い、さらには官吏の管轄区域内でも事を起こし、その犯行の痕跡は二十余年に及んだ。後に、甘寧は略奪をやめ、諸子百家を研読し始め、劉表(りゅう ひょう)のもとに身を寄せた。しかし、劉表は彼を重用できず、甘寧は転じて黄祖(こうそ)に身を投じた。

黄祖も同じく甘寧を善遇できず、ただ彼を普通の人として扱った。孫権(そん けん)が黄祖を討伐したとき、黄祖は敗れて逃げ、追兵がきわめて急であった。甘寧はその精妙な弓術によって、後方で校尉の凌操(りょうそう)を射殺し、黄祖を危地から脱せしめた。しかし黄祖は営に戻った後も、なお甘寧に対する態度を改めなかった。黄祖の都督蘇飛はたびたび黄祖に甘寧を推挙したが、いずれも採用されなかった。黄祖は甘寧の部下を誘惑しさえして、その客は次第に散っていった。甘寧はそのために去る意を抱いたが、また脱身できないことを心配した。蘇飛は甘寧の心中を知ると、宴を設けてもてなし、別の明主を尋ねるよう勧めた。甘寧は最終的に蘇飛の助けによって、邾長を務めることを名目に、黄祖から離れることができた。

甘寧が孫権に帰順すると、周瑜(しゅうゆ)と呂蒙(りょもう)はともに彼を力を尽くして推挙し、孫権も彼を別格に扱い、旧臣のように遇した。甘寧は孫権に策を献じ、曹操(そうそう)が終には簒位するであろうこと、また荊州(けいしゅう)の地が東呉が西へ発展するための戦略上の要地であることを指摘した。彼は劉表が眼光が短く、その子もまた能力が足りず、基業を継ぐのは難しいと考えた。したがって、孫権は早く荊州を図り、まず黄祖を攻め取るべきだと建議した。甘寧は黄祖が年老いて昏聩で、財を貪り利を好み、吏士が怨み、軍備が廃弛していると分析し、攻めれば必ず勝つとした。黄祖を攻め破った後は、西に楚関を拠り、進んで巴蜀を図り、覇業を成すことができるとした。孫権はこれを深くもっともだと思い、張昭(ちょうしょう)にいささかの懸念があったものの、孫権はなお甘寧の建議を採用し、自ら軍を率いて黄祖を征討し、最終的に黄祖を擒え、その部衆をことごとく得た。

この後、甘寧は周瑜に従って烏林で曹操を破り、また南郡(なんぐん)を攻めるときには、夷陵(いりょう)を攻め取ることを建議し、率先してこれを取った。彼は数百人に、新たに得た兵力を加えた、わずか千余人で夷陵を守り通した。曹仁(そうじん)が五、六千人を率いて囲み攻めたが、甘寧は数日堅守し、談笑自若としていた。周瑜は呂蒙の計を採用し、軍を率いて囲みを解いた。後に、甘寧は魯粛(ろしゅく)に従って益陽(えきよう)を鎮守し、関羽(かんう)に対抗した。関羽は三万人と号し、精鋭五千人を選んで夜に河を渡ろうとした。甘寧は当時わずか三百の兵しかなかったが、魯粛に五百の増兵を請い、関羽はその名を聞けば敢えて河を渡るまいと称した。魯粛はそこで千人を増し、甘寧は夜に赴いた。関羽はこれを聞くと果たして渡河をやめ、その場に営を張った。その地はそのために「関羽瀬」と名づけられた。孫権はこの功によって、甘寧を西陵(せいりょう)太守に拝し、陽新・下雉の両県を兼領させた。

曹操が濡須(じゅしゅ)に出兵したとき、甘寧は前部督を務め、命を受けて夜に敵営を襲った。孫権は特に米酒や肉食を賜り、甘寧は食物を手下の百余人に分け与えた。彼は自ら二碗の酒を飲み、また都督に酒を飲むよう勧めた。都督がためらって決めかねると、甘寧は白削刀を膝の上に置いて、呵して言った。「お前は至尊に器重されているのに、まさか甘寧よりも命を惜しむのか。甘寧でさえ死を惜しまぬのに、お前はなぜひとり死を惜しむのか」と。都督はこれを見て、ただちに身を起こして拝謝し、衆兵士とともに酒を飲んだ。二更の頃、甘寧は軍を率いて枚を銜んで出撃し、大いに敵営を破り、曹軍は驚き動いて退いた。甘寧はこれによっていっそう器重され、二千人を増兵された。

甘寧の厨下の僕人がかつて過失を犯し、呂蒙のもとへ逃げた。呂蒙は甘寧が彼を殺すことを心配し、すぐには返さなかった。後に甘寧は礼物を携えて呂蒙の母を訪ね、まさに堂に上ろうとしたとき、呂蒙はようやく僕人を返した。甘寧は呂蒙に僕人を殺さないと約束した。しかし、甘寧は船に戻ると、僕人を桑の木に縛りつけ、自ら弓矢で射殺した。呂蒙はこれを聞いて大いに怒り、鼓を撃って兵士を召集し、甘寧を攻めようとした。甘寧はこれを聞くと、かえってわざと臥して起きなかった。呂蒙の母は素足で出て来て諫めて言った。「至尊はお前を骨肉のように待し、大事をお前に託しておられる。どうして私怒のために甘寧を殺せようか。甘寧がもし死ねば、たとえ至尊が追究せずとも、お前は臣下として法度を犯したことになる」と。呂蒙は素より孝順であったので、母の言葉を聞くと、怒気はたちまち消え、自ら甘寧の船に行き、笑って呼びかけた。「興霸よ、老母がお前を待って食事をするのだ、早く上がってこい」と。甘寧は涕泣して言った。「お前に背いた」と。そして呂蒙とともに帰って呂蒙の母に拝謁し、終日歓宴した。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』における甘寧は、その人物像が史実を基礎として多くの文学的加工が施され、よりいっそう伝奇的な色彩を帯びている。小説において、甘寧は初登場で呂蒙によって孫権に引き合わされ、「やや書史に通じ、力があり、遊侠を好み、かつて亡命の徒を招き合わせて、江湖の中を縦横した。腰に銅鈴を懸け、人は鈴の音を聞けば、みなことごとくこれを避けた。また、かつて西川の錦をもって帆幔となし、時の人はみな『錦帆賊』と称した」 と称された。この「錦帆賊」の称号は、演義独自の浪漫化された描写であり、甘寧の早年における川上の豪侠としての人物像を強化している。

黄祖を攻める戦役において、演義は甘寧の勇猛を詳しく描いている。彼は孫権にまず黄祖を取ることを建議したが、その理由は史実とおおむね同じである。具体的な戦闘において、甘寧は士に先んじ、黄祖の部将陳就(ちんしゅう)・鄧龍が艨艟の戦船で沔口を阻截するのに対して、甘寧は小船百余隻を選び、各船に精兵五十人を乗せ、矢石を避けず、大索を断ち切って、艨艟を横に置き、東呉の大軍のために道を切り開いた。黄祖が敗走したとき、甘寧は彼が必ず荊州に走ると見て、東門の外に伏した。黄祖が現れると、甘寧はその昔日の軽慢の挙を叱責し、自ら黄祖を射殺し、その首級を梟して孫権に献じた。これは史実において甘寧が凌操を射殺したのとは異なっており、演義は黄祖の死を甘寧に帰して、いっそう彼の復讐と功勲を際立たせている。

演義はまた、甘寧と蘇飛・凌統(りょうとう)との間の恩怨情仇を重点的に描いている。蘇飛が擒えられた後、甘寧は孫権に求情し、「もし蘇飛を得られなければ、骨は溝壑を填めるのみ」 という深い言辞をもって、首尾よく蘇飛を救い、その情に重く義に厚い一面を示した。しかし、慶功の宴において、凌統は父凌操が甘寧に射殺されたことによって仇を報じようとし、剣を抜いて向かった。孫権が勧解しても効なく、最終的に甘寧に兵五千を率いて夏口(かこう)を鎮守させ、凌統を避けさせた。この筋立ては史実には明確な記載がなく、演義がドラマ的な衝突と人物の性格の深みを増すために創作したものである。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、周瑜は蔡和・蔡中(さいちゅう)の詐降を利用し、甘寧は闞沢(かんたく)と呼応して芝居を演じ、周瑜に不満なふりをして、蔡和・蔡中に彼らが曹に投ずる心があると信じ込ませ、それによって偽情報を曹操に伝えた。この計謀は史実には見られず、演義における周瑜の「苦肉計(くにくけい)」の延長であり、甘寧の智謀における呼応をさらに示している。

濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)において、甘寧の「百騎、曹営を劫す」という壮挙は、演義においていっそう手に汗握るものとして描かれている。彼はわずか百人の人馬を率い、白い鵝の羽を挿して合図とし、夜に曹営を襲い、左に衝き右に突き、曹軍を慌てふためかせ、敵兵の多寡を分からせず、最終的に無傷で退いた。この戦いの後、凌統と甘寧の恩怨もまた化解した。張遼(ちょうりょう)との交鋒において、凌統の馬が射倒され、楽進(がくしん)が刺殺しようとしたが、甘寧が一矢で楽進の面門を射当て、凌統を救った。凌統はそのために感激して涕を流し、甘寧と生死の交わりを結んだ。この筋立ても同じく演義の見事な創作であり、二人の猛将の間の関係を仇恨から友誼へと向かわせ、より人情味に富んだものにしている。

しかし、演義における甘寧の結末は史実と大いに異なっている。史実では甘寧の死因は詳らかでないが、演義では、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)のとき、甘寧はすでに痢疾を患い、病をおして従軍した。彼は蛮王の沙摩柯(しゃまか)に遭遇し、病で体が弱っていたために、沙摩柯に一矢で頭を射当てられ、最終的に富池口の大樹の下で死に、群鴉がその屍を取り囲んだ。この悲壮な結末は、甘寧の英雄の一生に終止符を打ち、また人物の悲劇的な色彩を添えている。

主要な関係

* 劉表集団(りゅうひょうしゅうだん)(serves):甘寧は早年かつて劉表に身を寄せたが、重用されず、劉表が「慮すること既に遠からず、児子もまた劣り、能く業を承け基を伝うる者に非ず」 と考えた。最終的に離れることを選んだ。
* 黄祖(こうそ)(serves):甘寧は転じて黄祖に身を投じたが、黄祖は「凡人をもってこれを畜う」 で、礼遇できなかった。甘寧は黄祖の危難のときにかつて凌操を射殺してその命を救ったが、黄祖はなお依然として彼を重用しなかった。最終的に甘寧は蘇飛の助けによって離れ、孫権に黄祖を攻め取る策を献じた。
* 蘇飛(friend_of):黄祖の都督蘇飛はたびたび黄祖に甘寧を推挙し、甘寧が黄祖を離れようとしたとき、宴を設けて勧め、彼の脱身を助けた。甘寧は後に孫権の前で蘇飛を力をもって守り、彼を死から免れさせたことからも、二人の情誼の深さが見て取れる。
* 孫呉(そんご)(defected_to):甘寧は最終的に孫権に身を投じ、周瑜・呂蒙の推挙と孫権の器重を得た。彼は東呉のために赫々たる戦功を立て、孫権麾下の重要な将となった。孫権はかつて「孟徳には張遼あり、孤には興霸あり、足って相敵すべし」 と言った(演義独自)。
* 周瑜(しゅうゆ)(colleague):周瑜は甘寧の東呉における重要な上級であり戦友である。赤壁の戦いと南郡を攻める戦役において、二人は多く呼応した。周瑜もまたかつて孫権に甘寧を推挙した。
* 呂蒙(りょもう)(colleague, friend_of):呂蒙は甘寧と同じく東呉の将であり、かつて孫権に甘寧を推挙した。史実において、呂蒙はかつて甘寧が厨下の僕人を殺害したことによって大いに怒ったが、母の勧めによって衝突を化解し、甘寧と和解した。演義においては、呂蒙は凌統が父の仇を報じようとしたとき、間に立って調停した。
* 凌統(りょうとう)(rival_turned_friend):史実において、甘寧はかつて凌統の父凌操を射殺した。演義においては、凌統はそのために甘寧に恨みを抱き、たびたび父の仇を報じようとした。しかし濡須口の戦いにおいて、甘寧が凌統の命を救い、二人は最終的に恩怨を化解して、生死の交わりを結んだ(演義独自)。

象徴的な場面

* 錦帆賊の時期:甘寧は早年に軽薄な少年を招き集め、弓弩を佩び、腰に鈴を懸け、百姓は鈴の音を聞けば甘寧と知った。彼は出入りに排場をなし、軽侠にして人を殺め、亡命の徒を匿い、その名は郡中に震えた。演義においてはさらに彼を「錦帆賊」と称し、西川の錦をもって帆幔となし、江湖を縦横した、きわめて豪侠の色彩に富む。
* 黄祖を攻める策を献ず:甘寧は孫権に身を投じた後、黄祖を攻め取り、進んで荊州を図る戦略を献じ、孫権の賞賛を深く得た。彼は黄祖が「今年老い、昏耄已甚だしく、財穀並び乏しく、左右欺き弄び、貨利に務め、吏士を侵求し、吏士心怨み、舟船戦具頓に廃して脩めず、耕農に怠り、軍に法伍なし」 と指摘し、分析が透徹で、東呉の戦略的拡張の基礎を築いた。
* 黄祖を攻め破り、蘇飛を救う:黄祖を攻める戦役において、甘寧は士に先んじ、艨艟の大索を断ち切って、東呉の軍のために局面を切り開いた(演義独自)。彼はさらに自ら黄祖を射殺し、その首級を擒えた(演義独自)。戦後、甘寧は個人の得失を顧みず、孫権に求情し、「飛もし言わずとも、吾あに忘れんや」 の情義をもって、かつて彼に恩のあった蘇飛を救った。
* 夷陵での堅守:南郡を攻めるとき、甘寧は率先して夷陵を攻め取り堅守した。曹仁の五、六千人の囲み攻めに直面して、彼はわずか千余人の部隊を率い、談笑自若として、数日堅守し、最終的に周瑜の囲みを解くのを待ち得た。
* 益陽で関羽を拒む:甘寧は三百の兵力をもって、魯粛に千人の増兵を請い、三万人と号する関羽に対抗するために夜に赴くことを敢えてした。関羽はその名を聞いて、果たして渡河をやめ、その場に営を張った。その地はそのために「関羽瀬」と名づけられた。これは甘寧の威名と胆略を示している。
* 百騎、曹営を劫す:曹操が濡須に出兵したとき、甘寧は前部督を務め、百余の精鋭騎兵を率いて、夜に曹営を襲った。彼はまず刀をもって都督に酒を飲ませて士気を激励し、それから枚を銜んで出撃し、大いに敵営を破り、曹軍を驚駭させた。孫権はそのために感嘆した。「孟徳には張遼あり、孤には興霸あり、足って相敵すべし」と。演義におけるこの戦いの描写はいっそう詳細で、甘寧は営内で縦横に突き進み、曹軍を自相に乱れさせ、最終的に無傷で退いた。
* 凌統との恩怨を化解す:濡須口の戦いにおいて、凌統が張遼と交鋒し、馬が射倒され、甘寧が一矢で楽進を射当て、凌統の命を救った。凌統はそのために感激して涕を流し、甘寧と父の仇を化解して、生死の交わりを結んだ(演義独自)。
* 夷陵の戦いで矢に当たって死す:演義においては、甘寧は夷陵の戦いのときすでに痢疾を患い、病をおして出征した。彼は蛮王の沙摩柯に遭遇し、一矢で頭を射当てられ、最終的に富池口の大樹の下で死んだ(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
甘寧(かんねい)は粗暴で殺を好んだが、闊達で計略があり、財を軽んじて士を敬い、健児を手厚く養うことができた。恩讐の別が明らかで、事を論じては筋道が通り、慷慨で果断、「虎将」と号された。
話し方
甘寧(かんねい)はみずから臣子の一例と陳べ、力を尽くし命を捧げて主君に報いると述べた。孫権(そん けん)のために黄祖(こうそ)を攻める策を陳べるときには、利鈍を明快に分析し、言葉づかいは剣を抜いて短く叱り、喜ぶふりをして誘うといった風であった。
生涯
甘寧(かんねい)は巴郡(はぐん)臨江の人で、若いころは遊侠となり、のちに劉表(りゅう ひょう)・黄祖(こうそ)に身を寄せ、ついに東呉に帰順した。かつて「錦帆の賊」であったが、前非を悔いて行いを改めて善に従い、劉表(りゅう ひょう)のもとへ身を投じ、のちに黄祖(こうそ)に夏口(かこう)で留め置かれた。
武器
甘寧(かんねい)は弓弩や弓矢を用い、かつて銀の椀に酒を酌んで兵に誓った。
逸話
孫権(そん けん)はかつて「孟徳には張遼(ちょうりょう)あり、孤には興霸あり、十分に匹敵する」と言い、また「その人は粗豪ではあるが、人の意に添わぬことがあっても、おおむね大丈夫である」と称した。甘寧(かんねい)はかつて病を押して従軍し、死後、呉王は哀しみ痛んで手厚く葬り、廟を立てた。

人間関係

27 件の関係

名言

全 27 件の台詞 · 厳選 3 件

「今漢祚日微,曹操彌憍,終爲篡盜。南荊之地。山陵形便,江川流通,誠是國之西勢也。寧已觀劉表,慮旣不遠,兒子又劣,非能承業傳基者也。至尊當早規之,不可後操圖之。圖之之計,宜先取黃祖。祖今年老,昏耄已甚,財穀並乏,左右欺弄,務於貨利,侵求吏士,吏士心怨,舟船戰具頓廢不脩,怠於耕農,軍無法伍。至尊今往,其破可必。一破祖軍,鼓行而西,西據楚關,大勢彌廣,即可漸規巴蜀。」

史 第55回→ 孫権(そん けん)

これは甘寧(かんねい)が孫権(そん けん)に、荊州(けいしゅう)を取り巴蜀(はしょく)を図る戦略構想を献じたもので、その卓越した軍事的先見を示している。

「寧今夜只帶一百人馬去劫曹營;若折了一人一騎,也不算功。」

演 第68回→ 孫権(そん けん)

この一句は、甘寧(かんねい)の豪放な気概と自らの能力への自信を示し、『百騎による魏営襲撃(ひゃっきによるぎえいしゅうげき)』の故事の核心である。

「可復以五百人益吾,吾往對之,保羽聞吾欬唾,不敢涉水,涉水即是吾禽。」

史 第55回→ 魯粛(ろしゅく)

この一句は、甘寧(かんねい)の勇猛さと関羽(かんう)への侮りを示し、その性格を鮮やかに映し出している。

登場回18 回 ▸
  • 史ch.51ch.55
  • 演ch.38ch.39ch.44ch.45ch.46ch.47ch.49ch.50ch.51ch.53ch.56ch.66ch.67ch.68ch.82ch.83
関係の年表14 条 ▸

史 ch.55

演 ch.39

演 ch.49

演 ch.50

演 ch.51

演 ch.56

演 ch.66

演 ch.68

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は甘寧(かんねい)、字は興覇(こうは)。今や身には矢傷を負い、気力も次第に尽きていく。江風が富池口(ふちこう)を吹き渡るなか、目の前には今なお濡須(じゅしゅ)の陣営の篝火が浮かぶようだ。昔、曹公(そうこう)が濡須に来たとき、私は前部督を命
  • 我、甘寧(かんねい)、字は興覇(こうは)。かつて呉に帰順した折を思い返す。周瑜(しゅうゆ)と呂蒙(りょもう)がそろって私を推挙し、至尊は私を厚く遇し、古参の臣と同じように扱ってくださった。そのとき私はこう申し上げた。漢の命運は日ごとに衰え、
  • 私は甘寧(かんねい)、字は興覇(こうは)、巴郡(はぐん)臨江(りんこう)の人である。若い頃は人並み外れた腕力があり、軽侠の少年たちと親しく交わるのを好み、皆から頭目に推された。私たちは弓や弩を携えて連れ立って歩き、身には鈴をつけていた。郷里
生涯の大事11 ▸