背景
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の実際の戦果は、江陵(こうりょう)―公安―夏口(かこう)の一線に孫劉連合軍が形成され、曹操(そうそう)の江陵守備軍を包囲する状況をもたらした。しかし同盟は最初からふたつの矛盾を内包していた。一つは荊州(けいしゅう)南郡(なんぐん)の帰属が未定であること、もう一つは「次の一手」という戦略方向が定まっていないことだった。魯粛(ろしゅく)は同盟締結の当初から劉備(りゅうび)と共に曹操に対抗することを主張し続けた。周瑜(しゅうゆ)はといえば、劉備を「梟雄の器」と見なし、まず抑え込んでから使うべきだと主張し続けた。建安十五年春、曹操は関中でいまだ決着をつけられず、孫呉(そんご)自身は南郡を消化したばかりであった。これが周瑜が「西取巴蜀」の時機と判断した背景である。
主要人物
周瑜はこのとき孫呉軍の最高意思決定者であり、偏将軍・南郡太守を兼ね、江陵を手中に収め、長江上流の航路を統括していた。彼の提案はしたがって、構想から直接実行へと移行できる現実的条件を備えていた。孫権(そん けん)は「主公―決断の枢軸」という役割にあり、周瑜の二分論と魯粛の連劉論のどちらかを選ばなければならなかった。劉備はこのとき公安に屯しており、名目上は「孫権から南郡を借りている」という立場だったが、実際にはずっと江東の戦略方向が明確になるのを待っていた。さらに益州(えきしゅう)の劉璋(りゅう しょう)・漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)・関西の馬超(ばちょう)という四つの変数が加わり、西線全体は同時に沸き立つ鍋のような状態だった。
核心議題
周瑜の方案は四段階に分解できる。第一段階は長江を遡って巴蜀を奪う(まず江州(こうしゅう)を攻め、次いで成都(せいと)へ)。第二段階は蜀の地を根拠として漢中を飲み込み関中を圧迫する。第三段階は西涼の馬超と連携を組み、曹操への二面挟撃態勢を築く。第四段階は師を還して襄陽(じょうよう)に向かい、中原との決戦を行う。この方案の優位点は荊州争奪の死結を避けられることにあった。江東が巴蜀を手にすれば、荊州は江東にとって副次的な利益となり、劉備と共有する余地が生まれる。劣位点も明白だった。孫呉に補給が極めて困難な長江上流での遠征を求め、劉備を「迂回される側」に置く構造となっており、劉備の反応は極めて予測しにくい。
政治的帰結
周瑜は江陵を発った後、巴丘(はきゅう)に至って急病で卒した。方案全体はそこで途絶えた。孫権は魯粛の「南郡を劉備に貸す」という対応策を採ることになった。これは本質的に、西取巴蜀の力が及ばないという前提のもとで、荊州と引き換えに劉備に抗曹の西線圧力を担わせるものだった。その後、益州は劉備が手にし、漢中も劉備が奪い、孫呉はかえって長江に沿って劉備と荊州を争う羽目になった。あらゆる帰趨が周瑜の原方案の想定と正反対だった。制度的観点から見れば、この方向転換はさらに孫呉の軍政を「前線宿将が主導する」体制から「中枢謀臣が主導する」体制へと変えた。魯粛―呂蒙(りょもう)―陸遜(りくそん)という継承の形が、ここで成型された。
反事実推演
もし周瑜が死なず、計画通り蜀に向かっていたなら、孫呉は建安十六年・十七年の間に劉璋と戦っていた可能性が高い。江陵での輸送力と甘寧(かんねい)ら蜀の地形に通じた将領との連携によって、少なくとも江州・夔門は奪取できたであろうが、一挙に成都を平定し、さらに漢中を迅速に消化できたかどうかは、関中の変局にかかっていた。もし同年に馬超が実際の歴史より早く挙兵して曹操に抵抗したなら、曹操は南に目を向ける余裕がなく、孫呉はひょっとしたら史上初の真の「二分天下」を実現していたかもしれない。しかし一年遅れていれば、劉備はすでに蜀に入っており、孫呉の西進は「劉璋への攻撃」ではなく「劉備への攻撃」となり、孫劉連合は実際の歴史より十数年早く崩壊していただろう。周瑜の死は個人の病没というよりも、三国(さんごく)格局全体にとっての一度の構造的な「分岐」だったといえる。
