言語
董

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 将軍

董襲(とうしゅう)

登場回
7
台詞の記録
6
人間関係
4
内面の独白
3

史載(Historical Record)

董襲(とうしゅう)は、字を元代といい、会稽(かいけい)余姚の人である。身の丈八尺、武力は人並み外れていた。謝承『後漢書』の記載によれば、董襲(とうしゅう)は志節が慷慨で、武毅にして猛烈であった。孫策(そん さく)が会稽(かいけい)郡に入ったとき、董襲(とうしゅう)は高遷亭で出迎えた。孫策(そん さく)は彼を見て非凡であると認め、門下賊曹に任じた。当時、山陰の宿賊である黄龍羅・周勃が数千人を集めており、孫策(そん さく)が自ら兵を出して征討したが、董襲(とうしゅう)は自らの手で黄龍羅と周勃の首級を斬り取った。この功により、董襲(とうしゅう)は別部司馬に拝され、兵数千人を授けられ、後に扬武都尉に昇進した。彼は孫策(そん さく)に従って皖城を攻め、また尋陽で劉勲(りゅうくん)を討ち、軍に従って江夏(こうか)で黄祖(こうそ)を伐った。

孫策(そん さく)が没すると、孫権(そん けん)は年少で、初めて事を統べた。太妃はこれを憂い、張昭(ちょうしょう)および董襲(とうしゅう)らを召して、江東を保つことができるかを尋ねた。董襲(とうしゅう)はこれに慷慨として答え、こう言った。「江東の地勢には山川の固めがあり、討逆明府(孫策(そん さく))の恩徳は民に行き渡っております。討虜(孫権(そん けん))が基業を承継され、大小の将士はみな命を捧げることを願っております。張昭(ちょうしょう)が衆事を取り仕切り、我ら将は爪牙となる。これこそ地の利と人の和の時であり、何も憂うることはありません。」この言葉は、その場の人々を奮い立たせた。

後に曹操(そうそう)が濡須口(じゅしゅこう)に兵を出すと、董襲(とうしゅう)は孫権(そん けん)に従って迎え撃った。孫権(そん けん)は董襲(とうしゅう)に命じて五艘の楼船を督率させ、濡須口(じゅしゅこう)を守らせた。ある夜、突如として暴風に遭い、五艘の楼船が転覆した。左右の士卒は次々と小舟に乗って逃げ散り、董襲(とうしゅう)にも一緒に退避するよう請うた。董襲(とうしゅう)はこれに激怒し、こう言った。「私は将軍より重任を受け、ここで賊を防いでいるのだ。どうして勝手に立ち去ることができようか。さらにこのようなことを言う者は斬る。」こうして、誰もあえて彼を説得しようとはしなくなった。その夜、船はついに完全に転覆し、董襲(とうしゅう)はこのため殉職した。孫権(そん けん)はこれを知ると、自ら喪服に改めて弔問に赴き、手厚い撫恤を与えた。

演義(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては、董襲(とうしゅう)の形象は史実を基礎としつつ、さらに文学的な脚色と補足が加えられている。彼が初めて登場するのは、孫策(そん さく)の江東平定(そんさくのこうとうへいてい)の過程においてである。孫策(そん さく)が王朗(おうろう)を破った後、董襲(とうしゅう)は厳白虎(げんはくこ)の首級を提げて投じてきた。孫策(そん さく)は彼が身の丈八尺、四角い顔に大きな口であるのを見て、別部司馬に任じた。この筋立ては、史実において董襲(とうしゅう)が高遷亭で孫策(そん さく)を迎え、黄龍羅・周勃の首を斬った後に別部司馬に任じられたのとは異なり、演義では斬る対象を厳白虎(げんはくこ)に置き換え、その初登場の功績としている。

演義はまた、董襲(とうしゅう)に虞翻(ぐはん)・華佗(かだ)に関わる細部を付け加えている。孫策(そん さく)が負傷した後、董襲(とうしゅう)は、かつて自分が海賊と相対し、身に数槍を受け、後に会稽(かいけい)の賢吏である虞翻(ぐはん)が推薦した医者によって癒されたことに言及する。孫策(そん さく)はこのことから虞翻(ぐはん)の賢名を知り、張昭(ちょうしょう)と董襲(とうしゅう)をともに遣わして虞翻(ぐはん)を招聘させた。虞翻(ぐはん)は到着すると、さらに名医の華佗(かだ)を推薦した。これらの筋立ては史書には記載がなく、演義が人物関係と筋立ての展開を豊かにするために行った創作である。

董襲(とうしゅう)は赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜、周瑜(しゅうゆ)によって第五隊の将に任じられ、陸遜(りくそん)とともに水陸並進の軍事行動を担当した。合肥の戦い(ごうひのたたかい)において、太史慈(たいし じ)が矢に当たって負傷すると、陸遜(りくそん)と董襲(とうしゅう)がすかさず斬り出て太史慈(たいし じ)を救い戻し、曹兵を撤退させた。これらはいずれも演義における董襲(とうしゅう)の軍事的参与の具体的な描写である。皖城を攻める際、董襲(とうしゅう)はかつて土山を築いて攻城することを提案したが、呂蒙(りょもう)はより迅速な強攻案を提示した。

董襲(とうしゅう)の結末については、演義と史実は大体において一致するが、細部は異なる。濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)において、董襲(とうしゅう)は徐盛(じょせい)とともに船上にあり、曹操(そうそう)の五路の大軍の来襲に直面した。江上に突如として狂風が起こり、船が転覆しようとしたとき、董襲(とうしゅう)は剣を手に逃げようとする士卒を怒鳴りつけ、十余人を斬殺した。最終的に、彼は船とともに江口の水中に沈んだ。演義は、その危急の時における忠勇と堅守を強調しており、史実の「その夜、船敗れ、襲死す」という記載と符合するが、逃亡兵を斬殺する細部を加えることで、その「志節慷慨」たる性格をさらに際立たせている。

主要な関係

* 孫策(そん さく)(serves):董襲(とうしゅう)は孫策(そん さく)の初期における重要な将であり、高遷亭で孫策(そん さく)を迎え、賊首を斬ったことにより孫策(そん さく)の信任と引き立てを受け、その門下賊曹・別部司馬・扬武都尉となった。
* 孫権集団(そんけんしゅうだん)(serves):孫策(そん さく)が没した後、董襲(とうしゅう)は引き続き孫権(そん けん)に忠誠を尽くし、孫権(そん けん)が初めて大権を握った時の確固たる支持者の一人であった。彼は太妃と諸臣に対して、孫権(そん けん)が江東を統治することへの自信を表明し、自らを孫権(そん けん)の「爪牙」と称した。
* 孫呉(そんご)(dies_in):董襲(とうしゅう)は最終的に濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)において、楼船が暴風に遭って転覆したことにより殉職し、孫呉(そんご)政権のために命を捧げた。
* 太史慈(たいし じ)(friend_of):演義において、董襲(とうしゅう)は太史慈(たいし じ)と合肥の戦い(ごうひのたたかい)で肩を並べて戦った経験がある。太史慈(たいし じ)が矢に当たって負傷したとき、董襲(とうしゅう)は陸遜(りくそん)とともに斬り出て太史慈(たいし じ)を救い戻した(演義独自)。

象徴的な場面

* 賊を斬って功を立て、初めて孫策(そん さく)に投じる:董襲(とうしゅう)は孫策(そん さく)の江東平定(そんさくのこうとうへいてい)の時期に、山陰の宿賊である黄龍羅・周勃の首級を自らの手で斬り、これにより孫策(そん さく)に別部司馬として拝され、兵権を得て、孫策(そん さく)麾下の重要な将となった。演義においては、この功績が厳白虎(げんはくこ)の首級を斬って孫策(そん さく)に投じたことに書き換えられている(演義独自)。
* 孫権(そん けん)を力強く支え、人心を安定させる:孫策(そん さく)が没し、孫権(そん けん)が年少で位を継ぐと、江東の人心は不安定であった。董襲(とうしゅう)は太妃の召見において慷慨として陳述し、江東が孫権(そん けん)の指導の下で保たれうると確信して、軍心と士気を大いに安定させ、その忠誠と先見を示した。
* 濡須(じゅしゅ)に殉職し、忠義に死して職を守る:曹操(そうそう)が濡須口(じゅしゅこう)を攻めたとき、董襲(とうしゅう)は命を受けて楼船を督率した。夜に暴風に遭い、船が転覆した。左右の士卒の逃亡の請いに対して、董襲(とうしゅう)は断固として拒み、逃亡兵を怒鳴りつけて制止し、最終的に船とともに沈み、壮烈に殉職した。孫権(そん けん)は知らせを聞くと自ら弔問し、その忠勇への認知が見て取れる。演義においては、彼はさらに逃げようとする十余名の士卒を斬殺し、その忠勇の形象をさらに強めている(演義独自)。
* 太史慈(たいし じ)を救助する:演義の合肥の戦い(ごうひのたたかい)において、太史慈(たいし じ)が矢に当たって負傷し、危地に陥った。董襲(とうしゅう)は陸遜(りくそん)とともにすかさず軍を率いて斬り出て、見事に太史慈(たいし じ)を救い戻し、より大きな損失を避けた(演義独自)。

人間関係

4 件の関係

名言

全 6 件の台詞 · 厳選 2 件

「江東地勢有山川之固,而討逆明府恩德在民。討虜承基,大小用命,張昭秉衆事,襲等爲爪牙,此地利人和之時也,萬無所憂。」

史 第55回

董襲の江東の情勢に対する深い洞察を示し、地の利と人の和の重要性を強調している。

「受將軍任,在此備賊,何等委去也,敢復言此者斬!」

史 第55回

董襲のこの言葉は、その忠勇と剛毅、死を誓って職責を守る武将としての本領を際立たせている。

登場回7 回 ▸
  • 史ch.55
  • 演ch.15ch.44ch.49ch.53ch.67ch.68
関係の年表3 条 ▸

史 ch.55

演 ch.15

演 ch.53

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 長江の風はすでに強まり、波頭が次々と船べりに打ちつけていた。目の前では松明が揺れ、船々が暗夜の中で傾いている。小船へ走る者もいれば、振り返って私を見る者もいた。この時、自分の身だけを気にかければ、主君から託された任務を捨て、濡須口(じゅしゅ
  • 我が名は董襲(とうしゅう)、字は——。今、主君の孫策(そん さく)が亡くなったばかりで、仲謀(ちゅうぼう)は若く、初めて政務を執ることになったことを思えば、太妃が江東の安泰を保てるかと案じ、張昭(ちょうしょう)と我らを召し出したのも無理はな
  • 我は董襲(とうしゅう)、字は元代、会稽(かいけい)余姚の人である。生まれつき八尺の体躯を持ち、かねてより武力で知られていた。私の長身で広い顔を見て、勇力は筋骨にあるだけだと思う者もいた。しかし私は常々、頑健な体は使役に供するにすぎず、志節と
生涯の大事2 ▸