言語
闞

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 軍師

闞沢(かんたく)

字 德潤

登場回
7
台詞の記録
31
人間関係
8
内面の独白
3

史載(Historical Record)

闞沢(かんたく)、字は徳潤、会稽(かいけい)山陰の人、農家の出身。彼は幼くして学を好み、家境は貧しかったが、なお人のために書を写して紙筆を稼ぎ、写した書もまた熟読して暗誦できた。彼は遍く名師を訪ね、群籍を深く究め、とりわけ暦数の学に精通したため、名声が高まった。彼は孝廉に挙げられ、相次いで銭唐長・郴令を務めた。孫権(そん けん)が驃騎将軍に封じられた時、闞沢を西曹掾に召し、孫権の称帝(そんけんのしょうてい)の後には、闞沢はまた尚書に任じられた。嘉禾年間、彼は中書令に昇進し、あわせて侍中を加えられた。赤烏五年、闞沢は太子太傅に任じられ、中書令の職を兼ねた。

闞沢は経伝の典籍は内容が繁多で尽くは用いがたいと考え、諸家の学説を斟酌し、煩を削って簡に就かせ、『礼』文および諸家の注釈を修訂し、これをもって太子の孫登(そん とう)および魯王の孫覇(そん は)を教導した。彼はまた二宮のために日常の行動規範と賓客接見の礼儀を制定し、『乾象暦注』を著して時日を校正した。朝廷で重大な議題があるたび、経典の疑難の点に遇うと、孫権はいつも彼に諮問した。その儒学の造詣が深厚で勤勉労苦であったため、闞沢は都郷侯に封じられた。彼の人となりは謙恭篤慎で、宮府の小吏ですら、召対され問われる際には、対等の礼節をもって接した。他人の短所や過失について、彼は決して軽々しく口にせず、表向きは木訥に見えたが、実際には洞察力がきわめて強かった。孫権はかつて彼に問うた、「書伝の篇賦の中で、何が最も美しいか」。闞沢はこれに託して諷喩し治乱の道を明らかにしようとし、賈誼の『過秦論』が最も優れていると答え、孫権は聞いてそれを取って読んだ。当初、呂壱の奸罪が発覚した際、有司は厳しく追及し、極刑に処すことを上奏し、その元悪を彰すために焚裂の刑を施すべきだと建議する者すらいた。孫権がこの事を闞沢に尋ねると、闞沢は答えた、「盛明の世には、再びかかる刑罰があるべきではありません」。孫権は彼の建議を採用した。さらに、各級の官吏が病にかかり、科防を重くして部下を束縛しようとするたびに、闞沢はそのたびに「礼・律に依って行うべきです」と諫めた。彼の温和にして原則あること、みなこの類の表れであった。赤烏六年冬、闞沢は世を去り、孫権はこれを痛惜し感悼して、数日のあいだ食が進まなかった。

演中(In the Novel)

『三国志演義』において、闞沢の像はより多くの智謀と胆識を賦与され、とりわけ赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において鍵となる役柄を演じている。彼の初登場は、孫権が広く賢士を納れる際、顧雍(こよう)・張紘らとともに引き合わされた江東の才俊の一人として描かれている。

演義における闞沢の造形の最も力を込めた所は、彼が黄蓋(こうがい)の苦肉計(くにくけい)の実施を助けたことである。黄蓋が刑を受けた後、諸将はみな見舞いに来たが、ただ闞沢だけがその中の機微を見抜き、黄蓋のこの挙が「苦肉計」であると率直に言った。黄蓋はその忠義と智謀に感じ入り、そこで曹操(そうそう)への偽降の計画を残らず打ち明け、闞沢に偽降の書を代わって献じてくれるよう請うた。闞沢は欣然と承諾し、「大丈夫世に処して、功を立て業を建てられぬなら、草木と同じく朽ちるに等しいではないか。公すでに躯を捐てて主に報いる、沢またなんぞ微生を惜しまんや!」と表明した。彼は夜を徹して漁翁に変装し、小舟を駆って曹営へ赴いた。曹操の質疑と怒罵に対し、闞沢は顔色も変えず、天を仰いで大笑し、その人並み外れた口才と胆識をもって、巧みに曹操の疑いを駁し、ついに曹操を深く信じ込ませた。彼は曹操を「無学の輩」と直言する勇すらあり、偽降の書が期日を約定しないことの合理性を説明し、曹操に顔色を改め席を下りて謝らせた。この後、闞沢はまた甘寧(かんねい)とともに、蔡中(さいちゅう)・蔡和の偽降を利用して、黄盖の投降に対する曹操の信任をさらに強固にした。

魯粛(ろしゅく)が関羽(かんう)を宴に招いて荊州(けいしゅう)を図ろうと謀った際、闞沢はかつて孫権に進言して諫め、関羽は「世の虎将であり、並々の者の及ぶところではない。事が成らねば、かえってその害を被るおそれがある」と指摘し、その是非を明弁し深謀遠慮する一面を示したが、孫権は従わなかった。夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の前、孫権が劉備(りゅうび)の大軍が境に迫ったことで挙措を失っていた際、闞沢は衆論を排し、陸遜(りくそん)を大都督に推薦することに極力努め、彼を「周郎に劣らず」と称し、一家の命をもって担保した。彼はさらに孫権に壇を築いて将を拝し、隆重さを示すことを建議し、もって陸遜の威望と号令を確保した。これらの筋立ては、いずれも演義における闞沢の像を大いに豊かにし、彼を智勇兼備で忠心耿耿たる謀士たらしめている。

関係(Key Relationships)

* 孫権集団(孫権集団(そんけんしゅうだん), serves):闞沢は生涯孫権に仕え、西曹掾・尚書から太子太傅に至るまで、孫権が頼りとした儒学の重臣にして知囊であった。史料では、孫権は朝廷の大議や経典の疑難の際、しばしば闞沢に諮問した。演義では、闞沢はさらに幾度も孫権のために策を巡らし、とりわけ赤壁の戦いと夷陵の戦いの前夜に、鍵となる補助の役柄を演じた。
* 孫登(mentor_of):史載では、闞沢はかつて太子の孫登および魯王の孫覇のために『礼』文を修訂し、行動規範と礼儀を制定し、二宮の師にして導師であった。
* 黄蓋(friend_of):演義において、闞沢は黄蓋と関係浅からず、黄蓋の苦肉計の唯一の知情者にして執行者であった。彼は死を冒して偽降の書を献じ、黄蓋の計策が成功する鍵となった。史実では二人にかかる深厚な交情があったとの明確な記載はない。
* 曹操(witnesses):演義において、闞沢はかつて単刀赴会(たんとうふかい)し、自ら曹営へ赴いて、曹操と一場の手に汗握る智謀の競い合いを繰り広げ、首尾よく曹操を欺いた。史実にこの筋立てはない。
* 陸遜(advocate_of):演義において、闞沢は陸遜の確固たる支持者にして推薦者である。夷陵の戦いの前、彼は衆論を排し、一家の命をもって陸遜の才能を担保し、陸遜が大都督に就くことを促した。史実にこの明確な記載はない。

象徴的場面(Iconic Scenes)

* 書を写して苦学し、ついに大儒となる:闞沢は家境が貧しかったが、学を好んで倦まず、しばしば人のために書を写して紙筆に充て、写した書はみな熟読して暗誦でき、ついに群籍に精通し暦数にも通じた大学問家となった。この場面は、彼の勤奮好学・堅忍不抜の品格を示し、その儒学的成就の礎である。
* 曹操を巧みに言い負かし、偽降の書を献じる(演義独自):赤壁の戦いの前、闞沢は漁翁に変装し、小舟を駆って曹営へ赴き、曹操の質疑と殺意に対し、人並み外れた胆識と口才をもって、偽降の書の「綻び」を巧みに説明し、首尾よく多疑な曹操を欺き、苦肉計の成功の礎を築いた。
* 陸遜を力説し、戦局を転じる(演義独自):夷陵の戦いの前、蜀漢(しょくかん)の大軍が境に迫り、東呉の群臣が陸遜の任命に逡巡していた際、闞沢は身を挺し、一家の命をもって陸遜の才能を担保し、孫権に壇を築いて将を拝することを建議し、ついに陸遜が大都督に就くことを促し、戦局を転じた。
* 謙恭篤慎、人の短を言わず:史載では、闞沢の人となりは謙恭篤慎で、宮府の小吏に対しても対等の礼をもって接し、決して軽々しく他人の短所を口にしなかった。これは彼の高尚な品徳と広い度量を体現している。
* 重刑を諫め止め、礼・律に依って治める(史実):呂壱の奸罪が発覚し、焚裂の刑を施すよう建議する者がいた際、闞沢は孫権に「盛明の世には、再びかかる刑があるべきではありません」と力諫し、ついに孫権は彼の建議を採用した。これは闞沢が仁政を堅持し、法度の尊厳を守る立場を示している。

人間関係

8 件の関係

名言

全 31 件の台詞 · 厳選 3 件

「然則公之受責,莫非苦肉計乎?」

演 第46回

この一句は周瑜(しゅうゆ)の苦肉計(くにくけい)を見抜くもので、闞沢(かんたく)の洞察力を示している。

「殺便殺,何必多問!」

演 第47回

曹操(そうそう)の脅しを前にしても、闞沢(かんたく)は少しも恐れず、その忠義と胆力を際立たせている。

「昔日東吳大事,全任周郎;後魯子敬代之;子敬亡後,決於呂子明;今子明雖喪.見有陸伯言在荊州。此人名雖儒生,實有雄才大略,以臣論之;不在周郎之下;前破關公,其謀皆出於伯言。主上若能用之,破蜀必矣。如或有失,臣願與同罪。」

演 第83回→ 孫権(そん けん)📍 建業(けんぎょう)

陸遜(りくそん)を強く推挙しており、闞沢(かんたく)が人を見抜き適材適所に用いる様を体現し、東呉の発展に深遠な影響を与えた。

登場回7 回 ▸
  • 史ch.53ch.59
  • 演ch.38ch.46ch.47ch.66ch.83
関係の年表8 条 ▸

史 ch.53

演 ch.46

演 ch.47

演 ch.66

演 ch.83

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 今、一生を振り返ると、幼い頃、家が貧しく、代々農業を営み、学問を修める資金もなかったため、人に雇われて書写をしていたことをよく思い出す。得られる報酬は、紙と筆を賄うのがやっとだった。一篇を書き終えるたびに、それを一度朗読した。また、師や友人
  • 帳中の灯影が揺れるなか、曹操(そうそう)は黄公覆(こうこうふ)の書簡を十数回も裏返して眺め、突然、机を叩いて左右の者に、私を引き出して斬れと命じた。私は取り囲まれて外へ連れ出された。生死を分ける一瞬が目前に迫っていると分かってはいたが、顔色
  • 昔、私がまだ若かった頃、家は会稽(かいけい)の山陰にあり、家柄は卑しく、日々の暮らしにも余裕がなかった。一冊の書物を求めるため、人に雇われて働いたこともある。書物を借り受けると、暇を見つけては読み、ひとたび読めば、しっかりと心に刻み込んだ。
生涯の大事2 ▸