臨終の状況
伝記的視点から見れば、周瑜(しゅうゆ)の最晩年は「未完の戦略を道半ばにして病に倒れた」という極めて典型的な事例だ。 建安十五年(210年)、彼は孫権(そん けん)の前で完全な西線戦略を直接陳述したばかりだった。 「曹操(そうそう)は今しがた敗北し、腹心の憂いに気を取られており、将軍と互いに兵を連ねて事を起こせる状態にはない。願わくば奮威と共に進んで蜀を取り、蜀を得て張魯(ちょうろ)を併せた後、奮威に留まって固守させ、馬超(ばちょう)とよく連携を結ぶ。瑜は還って将軍と共に襄陽(じょうよう)に拠り操を圧迫せば、北方は図るべし」。 これは「取蜀―馬超との連携―曹操の圧迫」という完全な西北戦略の青写真であり、孫呉(そんご)の軍政体系で初めて現れた全局的・多段階の戦略計画だった。 孫権が批准した後、周瑜は江陵(こうりょう)に戻って出陣の準備を整えていたが、 途中、赤壁(せきへき)戦後の駐屯地であった巴丘(はきゅう)に至って急病で卒した。時に三十六歳。 臨終の状況から見れば、彼は戦場で倒れたのではなく、次の出征の準備中に倒れた。 「行装の途上で死す」というこのありようが、彼の生を「未完」という二字で断ち切った。
遺言・遺命
演義の叙述では、周瑜の最後の行動は遺書を書いて魯粛(ろしゅく)を後継に推薦することだった。 「諸将が残された書状を封じ、人を飛ばして孫権に急報した……魯粛を自代として推挙したのである」。 この推挙が政治史上もつ意義は、文学的意義をはるかに超えている。 孫呉政権で「前任主帥が後継者を指名する」という正式な引き継ぎが初めて行われたことを意味し、 また孫呉の軍政体制の中に「将と主との間は移譲できない」という慣例に初めて風穴を開けたことを意味する。 孫権の反応は「放声大哭」し、ただちに推挙を受け入れることだった。 このほぼ躊躇のない受諾は、孫権の心の中での周瑜の特別な位置を示している。 彼の臨終の言葉は最高優先とされることが默認されていた。 それと比べると、正史において周瑜の臨終の上奏文(「疾困して呉主権に与ふる箋」)にも同様の推挙の核心が含まれているが、孫権個人への諫言をより強調している。 このような政治的な地位継承の形式は、漢末の軍閥体系においてさほど一般的ではなかった。
身後
孫権の周瑜への遺体の処遇は格式がきわめて高かった。 「権は素服して哀を挙げた。周囲の者を感動させた。 喪が呉に戻るにあたり、又蕪湖まで迎えに出て、もろもろの費用は一切公が供給した」。 君主が素服を着て自ら霊柩を迎え、葬儀費用を公帑から全額賄うこの待遇は、三国(さんごく)時代においても稀なものだった。 孫権はさらに「故将軍周瑜・程普(ていふ)、その客人は、みな問うを得ず」と特別に命じた。 すなわち周瑜の門客・客将はその行方を誰も追及できないとされ、実質的に周瑜の私的幕僚を政治的資産として保護した。 演義の叙述では、諸葛亮(しょかつりょう)が荊州(けいしゅう)から巴丘まで自ら弔祭に赴いた。 周瑜の部将たちが「みな孔明を殺そうとした」にもかかわらず、 孔明は重々しい祭文で周瑜への敬意を表し、この機に乗じて龐統(ほうとう)を連れ帰った。 この一節は文学的な加工ではあるが、周瑜の死が孫劉連合に与えた影響を的確に捉えている。 双方とも、時代的な統帥が去ったことで生じた空白を意識していたのだ。
歴史的評価
戦略的影響の観点から見れば、周瑜の逝去が孫呉に与えた代償は甚大だった。 第一に、西取益州(えきしゅう)の戦略はただちに棚上げとなり、 魯粛が後を継ぐと「劉備(りゅうび)と協同して曹操に対抗する」守勢路線へと転じ、 孫呉が主体的に攻める西線の機会は永久に閉じられた。 第二に、孫呉の軍政体系が「周瑜型」 (文武兼ね備え、独当一面にあたり、君主に直諫できる)から 「魯粛―呂蒙(りょもう)型」 (守勢を主とし情報を補とする)へと変わり、 この変化は十年後に呂蒙の白衣渡江(りょもうのはくいとこう)として短い攻勢を爆発させたものの、 周瑜に比肩できる全局的戦略家は二度と現れなかった。 第三に、孫権個人にとって、周瑜は戦略を直接議論できる数少ない盟友であり、 彼の逝去は以後の孫権の決断を文官集団の「議論」手続きにますます頼らせることとなり、 孫呉の意思決定効率はここで構造的に低下した。 より広い歴史的評価から見れば、周瑜は孫呉の軍事的伝統のひとつの頂点を体現している。 水戦にも城攻めにも長け、盟友と協力できる一方でその危険性も見抜き、 上疏して直諫することも臨終に自ら地位を譲ることもできた。 彼の早逝は孫呉の歴史上最大の非戦闘的損失の一つであり、 また三国初期の格局が安定化へと向かう一つの隠れた理由でもあった。
