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張昭(ちょうしょう)

孫呉(そんご) · 辅吴将军

張昭(ちょうしょう)

字 子布

登場回
34
台詞の記録
50
人間関係
22
内面の独白
3

史載(Historical Record)

張昭(ちょうしょう)、字は子布、彭城の人である。彼は少年の頃から学を好み、隷書に長け、かつて白侯子安に従って『左氏春秋』を学び、群書を博覧した。彼は琅邪(ろうや)の趙昱(ちょういく)、東海の王朗(おうろう)と交わり、これによって名声を遠くまで馳せた c:1664。弱冠の年、彼は孝廉に察挙されたが、就職しなかった。漢末の大乱で、徐州(じょしゅう)の士民の多くは揚州へ避難し、張昭もまた南へ長江を渡った c:1664。

孫策(そん さく)が創業した際、張昭を長史、撫軍中郎将に任命し、彼を極めて器重し、「堂に升りて母を拝すること、肩を比ぶる旧のごとく、文武の事は、一に昭に委ねた」 c:1664。孫策は臨終の際、弟の孫権(そん けん)を張昭に託し、張昭は群僚を率いて孫権を輔佐した c:1667。当時、孫権は悲しみが過度で、政務を見ることができなかったが、張昭は彼を諫め慰めた、「およそ人の後となる者は、よく先軌を負荷し、堂構を克く昌んにし、もって勲業を成すを貴ぶ。まさに今、天下は鼎沸し、群盗は山に満つ。孝廉、いかんぞ哀戚に寝伏し、匹夫の情を肆にするを得んや」 c:1667。その後、張昭は自ら孫権を扶けて馬に乗せ、兵を陳ねて出で、衆心に帰するところあらしめた。この後、張昭は引き続き孫権の長史を務め、重用された。孫権は出征のたびに、張昭を留めて鎮守させ、幕府の事務を処理させた c:1667。

孫権が劉備(りゅうび)に行車騎将軍と表された後、張昭は軍師に任命された c:1667。孫権はかつて一度、武昌(ぶしょう)の釣台で酒を飲んで大いに酔い、人に水を群臣にかけさせ、言った、「今日は酣飲し、ただ酔って台中に堕ちて、はじめて止めるべきだ」。張昭は正色して言わず、外へ出て車中に坐した。孫権は彼を呼び戻し、なぜ怒っているのかと問うと、張昭は答えた、「昔、紂は糟丘酒池の長夜の飲をなし、当時もまた楽しみとして、悪とは思わなかったのです」。孫権は聞いて黙然とし、深く慚愧を覚え、そこで酒を罷めた c:1667。

魏の黄初二年(221年)、魏文帝の曹丕(そうひ)が使者の邢貞を遣わして孫権を呉王に拝した。邢貞は門に入っても車を下りず、張昭は彼を質問した、「それ礼に敬せざるはなく、ゆえに法に行わざるはなし。しかるに君があえて自ら尊大にするは、あに江南が寡弱で、方寸の刃なきゆえをもってか」。邢貞はすぐに車を下りた c:1667。孫権が帝を称した後、張昭は年老いて病多きため、官位および統べる事務を返上することを上書して請うた c:5296。孫権は彼を改めて輔呉将軍に拝し、班次を三司の下とし、改めて婁侯に封じ、食邑万戸とした。彼は家に閑居していた間、『春秋左氏伝解』および『論語注』を著した c:5296。

張昭の弟の張承(ちょうしょう)、字は仲嗣も、才学で知られ、諸葛瑾(しょかつきん)、歩騭(ほしつ)、厳畯(げんしゅん)と交わった c:1668。張昭の子の張休(ちょうきゅう)、字は叔嗣は、諸葛恪(しょかつかく)、顧譚(こたん)らとともに太子の孫登(そん とう)の僚友であった c:1669。

張昭は黄龍元年(229年)春に世を去った c:5292。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、張昭の人物像はさらに江東の智囊にして重臣として造形されているが、時には保守に過ぎる面も見せる。彼の初登場は孫策が創業した初期で、周瑜(しゅうゆ)が孫策に「二張」――張昭と張紘――を推薦した c:1671。孫策は自ら赴いて聘し、二人はようやく出仕することを承諾し、張昭は長史兼撫軍中郎将に拝された c:1671。

演義では、張昭はしばしば肝心な時に孫策や孫権のために策を出した。たとえば、孫策が劉繇(りゅう よう)を攻めた際、張昭は夜に劉繇の営寨を劫することを建議し、成功を収めた c:10428。孫策が傷を負った後、張昭はかつて彼に一時の忿りによって軽挙妄動しないよう勧めた c:1672。孫策の臨終の際、張昭もまた局勢を安定させる役割を演じ、孫権を諫め慰めた、「これは将軍の哭する時にあらず。よろしく一面に喪事を治め、一面に軍国の大事を理むべし」 c:10432。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夕、張昭は曹(そう)に降ることを力説し、曹操(そうそう)は「百万の衆を擁し、天子の名を借りて、四方を征す。これを拒むは不順なり」と考えた c:10436。彼は諸葛亮(しょかつりょう)との弁論において、諸葛亮が劉備を輔佐した後、劉備がかえって屡々戦って屡々敗れた局面を質問することすらした c:10440。孫権が抗曹を決した際、張昭はなおこれが諸葛亮の計に中ったものだと考え、孫権に「薪を負って火を救う」ことのないよう勧めた c:1674。これらの筋はみな、演義における張昭の慎重で保守的な一面を際立たせ、周瑜、魯粛(ろしゅく)ら主戦派と対比をなしている。

孫劉同盟が破裂した後、張昭はしばしば計を献じ、劉備の手から荊州(けいしゅう)を奪い返そうとした。たとえば、彼は孫権に孫尚香を利用して劉備を東呉に誘い戻し、阿斗を人質として荊州と引き換えるよう建議した c:1680。後にまた諸葛瑾の家眷を拘留し、諸葛瑾を入川させて諸葛亮に荊州の返還を説かせるよう建議した c:1682。これらの計は完全には成功しなかったものの、演義における張昭が東呉の利益のために力を惜しまない人物像を示している。

主要な関係

* 孫権集団(serves):張昭は孫策と孫権の二代の君主の重臣であり、深く信任と倚重を受けた。孫策は臨終の際に孫権を張昭に託し、孫権もまた張昭を師傅の礼をもって待った c:5291。
* 孫呉(serves):張昭は生涯孫呉政権に尽力し、孫呉の建立と安定に巨大な貢献をした。彼は孫権を輔佐し、後方を鎮守し、また数々の重要な決策の制定に参与した c:1667。
* 趙昱(friend_of):張昭は琅邪の趙昱と少年時の好友であり、ともに発跡した c:1664。
* 王朗(friend_of):張昭は東海の王朗とも少年時の好友であり、ともに発跡した c:1664。
* 周瑜(colleague):演義では、周瑜と張昭は曹操に対する問題で異なる意見を持ち、周瑜は主戦、張昭は主降であった c:10445。
* 諸葛亮(opponent):演義では、張昭と諸葛亮は赤壁の戦いの前に有名な弁論を交わし、張昭は江東の群儒を代表して諸葛亮を質問したが、諸葛亮に論破された c:1673。
* 魯粛(colleague):演義では、魯粛と張昭は劉備と曹操に対する問題でも分岐があり、魯粛は連劉抗曹に傾き、張昭はむしろ降曹あるいは劉備を利用することに傾いた c:10436。
* 孫策(lord):孫策は張昭を極めて信任し器重し、文武の事を一切彼に委任した c:1664。
* 孫尚香(related_to):演義では、張昭はかつて孫尚香を利用して劉備を東呉に誘い戻し、阿斗を人質として荊州と引き換える計を献じた c:1680(演義独自)。
* 諸葛瑾(colleague):演義では、張昭はかつて諸葛瑾の家眷を拘留し、諸葛瑾を入川させて諸葛亮に荊州の返還を説かせる計を献じた c:1682(演義独自)。

象徴的な場面

* 孫策の託孤:孫策は臨終の際、幼い孫権を張昭に託し、彼に言った、「もし仲謀が事に任えざれば、君よろしく自ら取るべし。まさに克捷せざるも、緩歩して西に帰らば、また慮るところなからん」 c:1667。これは孫策の張昭への極めて大きな信任を体現している。
* 孫権を諫め慰める:孫策が世を去った後、孫権は悲痛のあまり止まず、張昭は彼を「これは将軍の哭する時にあらず」と諫め慰め、彼を扶けて馬に乗せて軍営を巡視させ、軍心を安定させた c:1667。
* 邢貞を怒り叱る:魏使の邢貞が孫権を呉王に拝した際、門に入っても車を下りず、張昭は正色してその無礼を叱責し、邢貞に車を下りさせた c:1667。この場面は張昭の剛直不阿の性格を示している。
* 孫権の射虎を諫め止める:孫権は馬に乗って虎を射ることを好み、張昭はかつて彼に君主たる者はかくも冒険すべきでなく、天下に恥笑されぬようにと諫めた。孫権は口頭では承諾したものの、なおその楽しみを改めなかった c:1667。これは張昭の孫権への忠心と直言不諱を反映している。
* 赤壁の戦いの前に主降する:赤壁の戦いの前、張昭は曹に降ることを力説し、江東は曹操の大軍に抵抗できないと考え、諸葛亮と激しい弁論を展開した c:10436。これは演義における張昭の最も代表的な場面の一つであり、彼の保守で務実な一面を際立たせている。
* 荊州を奪う計を献ずる:演義では、張昭はしばしば計を献じ、孫尚香や諸葛瑾を利用して荊州を奪うことを含めて、成功はしなかったものの、彼が東呉の利益のために策を出す智謀を示した c:1680、c:1682(演義独自)。
* 孫権に罷兵を勧める:太史慈(たいし じ)が傷を負った後、張昭は孫権に罷兵を勧め、孫権はこれに従い、兵を収めて江東に帰った c:1676(演義独自)。
* 孫権に連魏抗蜀を勧める:関羽(かんう)が殺された後、張昭は孫権に関羽の首級を曹操に送って魏に嫁禍し、劉備の報復を避け、坐して魏蜀の相争うを観るよう建議した c:1684(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
張昭(ちょうしょう)は容貌が謹厳で、威風があった。
性格
張昭(ちょうしょう)は忠誠にして正直、性情は剛烈で、言葉が採用されない時にはしばしば怨みを抱いた。彼は厳格さで知られ、それゆえに疎んじられもした。学識は広博で、現実的に曹操(そうそう)に降ることを主張したが、時に諸葛亮(しょかつりょう)の弁舌に容易く説き伏せられることもあった。
話し方
張昭(ちょうしょう)は事を議する時に古典を引用し、言辞は壮んで激しく、義憤が顔色に表れた。彼は現実的に条理立てて陳べたが、時に旧来の維持に拘泥した。
生涯
張昭(ちょうしょう)は彭城(ほうじょう)の人で、少年の頃から学問を好み、隷書に巧みで、また白侯子安(はくこうしあん)のもとで『左氏春秋』を学んだ。彼は弱冠の年に孝廉に察挙されたが就任せず、陶謙(とうけん)が彼を茂才に推挙したがこれにも応じず、後に拘禁された。漢末に南へ長江(ちょうこう)を渡り、孫策(そん さく)が彼を長史・撫軍中郎将に任じた。孫策は臨終の際に孫権(そん けん)を彼に託した。後に張昭は孫権の長史・軍師を務め、魏の黄初二年に綏遠将軍を拝命し、由拳侯に封ぜられた。孫権の称帝(そんけんのしょうてい)の後、彼は輔呉将軍を拝命し、婁侯に改封され、食邑は万戸であった。嘉禾五年(236年)に世を去り、享年八十一、諡は文侯であった。
逸話
張昭(ちょうしょう)は孫策(そん さく)と孫権(そん けん)の二代にわたる重要な謀臣であり、孫策の重病・臨終および葬儀の期間に中枢で采配を振るった。彼はかつて孫権に喪服を改めて馬に乗るよう勧め、また師傅の礼をもって遇された。彼はかつて周瑜(しゅうゆ)とともに諸事を掌管し、また孫権に厳畯(げんしゅん)と呂蒙(りょもう)を推薦した。

人間関係

22 件の関係

名言

全 50 件の台詞 · 厳選 3 件

若此,是先生言行相違也。先生自比管、樂。管仲相桓公,霸諸侯,一匡天下;樂毅扶持微弱之燕,下齊七十餘城;此二人者,真濟世之才也。先生在草廬之中,但笑傲風月,抱膝危坐;今既從事劉豫州,當為生靈興利除害,剿滅亂賊。且劉豫州未得先生之時,尚且縱橫寰宇,割據城池;今得先生,人皆仰望;雖三尺童蒙,亦謂彪虎生翼,將見漢室復興,曹氏即滅矣;朝廷舊臣,山林隱士,無不拭目而待:以為拂高天之雲翳,仰日月之光輝,拯斯民於水火之中,措天下於衽席之上,在此時也。何先生自歸豫州,曹兵一出,棄甲拋戈,望風而竄;上不能報劉表以安庶民,下不能輔孤子而據疆土;乃棄新野,走樊城,敗當陽,奔夏口,無容身之地?是豫州既得先生之後,反不如其初也。管仲、樂毅,果如是乎?愚直之言,幸勿見怪!

演 第43回→ 諸葛亮(しょかつりょう)🗓 伏皇后の廃殺(ふくこうごうのはいさつ)

舌戦群儒(ぜっせんぐんじゅ)の名場面であり、張昭(ちょうしょう)の雄弁と諸葛亮(しょかつりょう)への疑義を示している。

「孝廉,此寧哭時邪?且周公立法而伯禽不師,非欲違父,時不得行也。況今奸宄競逐,豺狼滿道,乃欲哀親戚,顧禮制,是猶開門而揖盜,未可以爲仁也。」

史 第47回→ 孫権(そん けん)

この言葉は孫権(そん けん)に大局を重んじるよう勧めるもので、張昭(ちょうしょう)の実務的で大局を顧みる政治的知恵を体現している。

曹操擁百萬之眾,借天子之名,以征四方,拒之不順。且主公大勢可以拒操者,長江也。今操既得荊州,長江之險,已與我共之矣,勢不可敵。以愚之計,不如納降為萬安之策。

演 第43回→ 孫権(そん けん)

曹操への降伏を主張するもので、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)を前にした張昭(ちょうしょう)の重要な立場であり、その保守的な人物像を形づくっている。

登場回34 回 ▸
  • 史ch.11ch.46ch.47ch.52ch.53ch.55ch.57ch.59ch.62ch.64
  • 演ch.15ch.17ch.29ch.38ch.39ch.43ch.44ch.53ch.55ch.56ch.58ch.61ch.62ch.65ch.66ch.67ch.68ch.73ch.75ch.77ch.82ch.83ch.86ch.98
関係の年表25 条 ▸

史 ch.46

史 ch.52

史 ch.53

演 ch.15

演 ch.29

演 ch.43

演 ch.44

演 ch.53

演 ch.55

  • advises_in

    閱周瑜書曰「公瑾之謀正合愚意」,勸主公火速行之;玄德逃後又勸急追

演 ch.56

演 ch.58

演 ch.61

  • advises_in

    献密书赚孙夫人携阿斗回吴换荆州之计;末又云使劉備不能再還荊州之计

演 ch.65

演 ch.66

演 ch.75

演 ch.77

演 ch.82

  • rival_of

    疑其"假以请使为辞,欲背吴入蜀";孙权释之,张昭"满面羞惭而退"

  • rival_of

    厉声斥其入门不下车之傲:"禮無不敬,法無不肅"

演 ch.83

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は張昭(ちょうしょう)、字は子布(しふ)である。晩年に至り、江東を振り返って思うのは、一時の勝ち負けではない。民を戦火からいかに守り、国の命脈を何に託すかである。かつて孫権(そん けん)が江東を初めて治めた頃、しばしば私に策を尋ねた。私は
  • 江東に風雨がにわかに襲いかかった時、私が思ったのは、個人の去就ではなく、人々の心をどこに託すべきかということだった。伯符(Hakufu)は臨終に際し、仲謀(Chūbō)を私に託した。私は群臣を率いて立ち、仲謀を補佐した。仲謀が悲しみに暮れて
  • 私は張昭(ちょうしょう)、字は子布である。若い頃を思えば、世の中は次第に乱れていった。名声や官位、召し出しを受けることは、私にとって重きを置くものではなかった。私が願ったのは、ただ経典を守り道理を明らかにし、静かに時勢の変化を見守ることだっ
生涯の大事15 ▸
  1. 0199-01-01 · 曲阿
    孫策の江東平定戦(そんさくのこうとうへいていせん)· 軍師
  2. 0200-01-01 · 呉県(ごけん)
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  4. 0203-01-01 · 呉県(ごけん)
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  7. 0208-01-01 · 武漢(ぶかん)
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  8. 舌戦群儒(ぜっせんぐんじゅ)· 軍師
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