
史載(Historical Record)
陸抗(りくこう)、字は幼節、孫策(そん さく)の外孫であり、その父は呉の名将陸遜(りくそん)である。陸遜が世を去ったとき、陸抗はわずか二十歳で、建武校尉に任じられ、父の旧部五千人を統領した。孫権(そん けん)はかつて楊竺が陸遜を告発した二十件の事について陸抗に問うたが、陸抗は条理よく一つ一つ答え、孫権を次第に納得させた。赤烏九年、陸抗は立節中郎将に昇進し、諸葛恪(しょかつかく)と柴桑(さいそう)の防備を交代した。陸抗は柴桑を離れる前に、城防・屋舎を細かく修繕し、桑果の林を保護したため、諸葛恪が引き継いだとき、柴桑の営地は一新されていた。一方、諸葛恪の旧屯は損壊が多く、彼に深い慚愧を覚えさせた。
太平二年、魏将諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で兵を挙げて呉に降ると、陸抗は柴桑督に任じられ、寿春へ赴いて支援し、魏軍の牙門将と偏将軍を破ることに成功し、後に征北将軍に昇進した。永安(えいあん)二年、陸抗は鎮軍将軍に任じられ、西陵(せいりょう)を都督し、防区は関羽(かんう)から白帝に及んだ。三年後、彼は節を仮された。孫皓(そん こう)が即位すると、陸抗は鎮軍大将軍に加封され、益州(えきしゅう)牧を領した。建衡二年、左大司馬施績が世を去った後、陸抗は信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の諸軍事を都督するよう任じられ、治所を楽郷に設けた。
鳳皇元年、西陵督歩闡(ほせん)が城に拠って呉に叛き晋に降った。陸抗はこれを聞くと、ただちに軍を調集し、将軍左奕・吾彦(ごげん)・蔡貢らを遣わしてまっすぐ西陵へ赴かせた。彼は部隊に命じて厳密な囲壁の修築を急がせ、赤谿から故市まで、内には歩闡を囲み、外には晋軍を防いだ。将士はこれに疲れを覚え、諸将は速やかに歩闡を攻めることを進言したが、陸抗は西陵の城池が堅固で糧草も充足しており速やかには攻略できず、また晋軍の援兵は必ず至るため、外囲の防御がなければ内外から挟撃される困境に陥ると考えた。彼は最終的に宜都太守雷譚の進言に従って一度攻城を行ったが成功せず、その後も引き続き囲困を完備した。
晋の車騎将軍羊祜(ようこ)が軍を率いて江陵(こうりょう)に迫ると、諸将は陸抗が江陵を放棄すべきではないと考えた。陸抗は、江陵は城が堅く兵も足り、憂える必要はないと考えた。彼は、たとえ江陵が陥落しても晋軍は固守し難く損失は小さいが、もし西陵の叛乱が続けば南山の夷族が動揺し、その後果は想像を絶すると判断した。そのため、彼は江陵を放棄してでも西陵を守ろうとした。陸抗はかつて江陵督張咸に命じて大堰を築かせ晋軍の水運を阻んだが、後に羊祜が堰を破ると言い触らすと、果断に張咸にこれを破壊するよう命じ、羊祜にやむなく水運を車運に改めさせ、莫大な費えを生じさせた。
晋の巴東監軍徐胤が水軍を率いて建平に侵犯し、荊州(けいしゅう)刺史楊肇は西陵に到達した。陸抗は張咸を配して城を固守させ、孫遵に南岸を巡視させて羊祜を防ぎ、留慮と朱琬には徐胤の水軍を防がせた。陸抗は自ら三軍を率い、囲壁に拠って楊肇に対抗した。朱喬・俞賛が楊肇に投降すると、陸抗は敵軍が夷兵の手薄なところを攻めると予判し、夜のうちに配置を入れ替えた。翌日、楊肇は果たして旧夷兵のいたところを攻めたが、陸抗はその機に乗じて反撃し、楊肇を大いに破った。楊肇は計尽きて夜に遁走したが、陸抗は歩闡がその機に乗じて反撃する可能性を慮り、全力では追撃せず、ただ鼓を鳴らして威を示すにとどめ、楊肇の部衆を驚いて潰散させた。陸抗はその後西陵城を攻め落とし、歩闡の一族およびその主要な将領を誅殺し、数万の降者を赦免した。戦後、陸抗は城防を修繕し、東のかた楽郷へ還り、その表情は謙虚で平素と変わらず、将士の敬愛を勝ち得た。
演中(In the Novel)
『三国演義』では、陸抗の姿はさらに深謀遠慮で忠心耿耿たる将領として造形されている。魏の景元五年(咸熙元年)、蜀漢の滅亡後、呉主孫休(そん きゅう)は中書承華覈の進言を採り、陸抗を鎮東大将軍に任じ、荊州牧を領して江口に鎮し、司馬昭(しばしょう)の呉伐に備えさせた。
小説では、陸抗と晋将羊祜の交流がとりわけ際立って描かれ、その謙虚で誇らぬ性格を示している。あるとき、羊祜と陸抗がそれぞれ狩りに出た際、羊祜は晋軍に境を越えてはならぬと命じ、陸抗はこれを見て晋軍の紀律の厳明さに感嘆した。羊祜は営に帰った後、呉人が先に射傷した獲物を送り返し、呉人は皆喜んだ。陸抗はこれを知ると、わざわざ自ら醸した斗酒を羊祜に贈って返礼とし、こう説明した。「彼すでに我に徳を施す、我あにこれに酬ゆるなきを得んや」 この徳をもって徳に報いる行いは、史伝にも陸抗と羊祜が「僑・札の好を推す」と記載があるが、演義では具体的な筋を通じて生き生きと示されている。
またあるとき、陸抗が病にかかると、羊祜は人を遣わして成薬を送ってきた。諸将は薬に偽りがないかと疑ったが、陸抗は羊祜が毒を盛らぬと確信し、薬を服して癒えた。彼はこれによって将士を教えた。「彼は専ら徳をもってし、我は専ら暴をもってす、これ彼まさに戦わずして我を服せしめんとするなり。いままさにおのおの疆界を保つのみ、細利を求むるなかれ」 この筋も、史伝に陸抗が羊祜の贈った薬を服した記載があり、孫皓の疑念を引き起こし、陸抗が「そもそも一邑一郷も、信義の人なかるべからず、いわんや大国においてをや」と応じた のだが、演義はこれをより劇的に処理し、陸抗により明確な道徳教化の意義を付与している。
小説はまた、陸抗の呉主孫皓への忠諫を描いている。孫皓が兵を発して襄陽(じょうよう)を攻めようとしたとき、陸抗は上疏して諫め、晋を伐つべきでないと指摘し、孫皓に徳を修め罰を慎み、内を安んずることを重んじるよう勧めた。しかし孫皓はこれに大いに怒り、陸抗が敵と通じていると考え、その兵権を罷免して司馬に降し、孫冀(そん き)に命じてその軍を代領させた。この筋は、史伝には陸抗がこのために兵権を罷免されたという明確な記載はないが、史伝では陸抗がかつて上疏して孫皓に薛瑩(せつえい)の釈放を諫めたことがあり、その忠直であえて言う一面を体現している。演義は孫皓の昏聵と陸抗の忠諫を対比させ、陸抗の正直と無力さをさらに際立たせている。
主要な関係
* 歩闡(enemy_of):陸抗は西陵の戦い(せいりょうのたたかい)において、歩闡の叛乱を平定することに成功し、その一族を誅滅した。
* 孫呉(serves):陸抗は生涯忠心をもって孫呉に尽くし、何度も重要な戦役で危機を救い、国家の辺境を守った。
* 陸遜(parent_of):陸抗は陸遜の子であり、父の軍事的才能と忠誠の品格を継承した。
* 孫策(kin_of):陸抗は孫策の外孫であり、孫呉の皇室と姻戚関係にある。
* 羊祜(friend/rival):陸抗は晋将羊祜と辺境で対峙したが、両者の間には互いに敬重する関係が築かれ、史に「僑・札の好を推す」と称された。演義では、両者が酒や薬を贈り合う筋がこの敵にして友という関係をいっそう際立たせている,。
* 孫皓(serves/criticizes):陸抗は孫呉後期の重要な将領として孫皓に尽くした。しかし彼は何度も孫皓を諫め、そのために兵権を罷免されたことすらある(演義独自)。
象徴的な場面
* 柴桑の善治:陸抗は諸葛恪と柴桑の防備を交代する際、営地を一新し、「俨然として新たなるがごとし」としたことで、その細やかで周到な管理の才を示した。
* 西陵の戦い:陸抗は歩闡の叛乱を平定し、晋軍の援兵を退けることに成功し、その卓越した軍事指揮の才と戦略眼を示した。彼はまず囲壁を築いて敵を困め、後に巧みに地形を利用し、果断に水堰の破壊を決し、最終的に晋軍を大破して西陵を回復した,。
* 羊祜との交わり:陸抗は晋将羊祜と戦場では対手であったが、私下では互いに敬重し、酒や薬を贈り合い、その謙虚で誇らず光明磊落な品格を示した。羊祜はかつて陸抗に薬を贈り、陸抗は疑わずに服し、これによって将士を教えた。「彼は専ら徳をもってし、我は専ら暴をもってす、これ彼まさに戦わずして我を服せしめんとするなり」。
* 孫皓を忠諫する:陸抗はかつて上疏して孫皓を諫め、晋を伐つべきでないと指摘し、徳を修め罰を慎むよう勧めた。孫皓は大いに怒ってその兵権を罷免したが(演義独自)、これは忠臣としての陸抗の担いと遠見を体現している。
* 誇らぬ徳:陸抗は西陵の戦いの大勝の後、東のかた楽郷へ還り、「貌に矜色なく、謙冲なること常のごとし」として、将士の歓心を勝ち得た。この細部は陸抗の謙遜な性格を描いている。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 陸抗(りくこう)は謀を深く遠くまで巡らせ、謙虚で驕らず、身を持して学問を好み、辺境の将たちと親しく睦み合った。
- 話し方
- 陸抗は《易》《伝》を引いて諫言し、その文気は端正で厳粛であった。
- 生涯
- 陸抗は陸遜(りくそん)の次子であり、孫策(そん さく)の外孫でもある。かつて西陵(せいりょう)に歩闡(ほせん)を包囲して攻め取り、鳳皇三年に没した。
- 逸話
- 陸抗は孫呉(そんご)の大将であり、鎮軍・大司馬・荊州牧(けいしゅうぼく)などの職を歴任した。陸凱(りくがい)は臨終の際、彼を賢臣として推薦した。
人間関係
11 件の関係
名言
全 10 件の台詞 · 厳選 3 件
「彼專以德,我專以暴,是彼將不戰而服我也。今宜各保疆界而已,無求細利。」
この一句は徳をもって人を服させる陸抗の戦略思想を体現し、その軍事的知恵を集中的に示している。
「江陵城固兵足,無所憂患。假令敵沒江陵,必不能守,所損者小。如使西陵槃結,則南山群夷皆當擾動,則所憂慮,難可而竟也。吾寧棄江陵而赴西陵,況江陵牢固乎?」
この一句は陸抗の高く遠くを見据えた戦略眼を示し、小を捨てて大を守る、その軍事的才能を体現している。
「豈有酖人羊叔子哉?汝眾人勿疑。」
この一句は陸抗の羊祜への信頼と敬意を表し、「羊陸の交わり」の典型的な描写である。
登場回5 回 ▸
- 史ch.48ch.58ch.61
- 演ch.119ch.120
関係の年表8 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 呉の陸抗(りくこう)、字は幼節。今、西陵(せいりょう)の戦いを振り返って最も忘れがたいのは、城下で飛び交った矢や石ではなく、用兵にあたっては、まず人心と虚実を見極めねばならないということだ。兪賛(Yu Zan)が寝返って去り、わが軍の内情を
- 西陵(せいりょう)の城下では、陣営が昼夜を問わず連なり、兵士たちは包囲陣の築造に疲れ果てていた。諸将の多くは、速攻こそ得策だと考えていた。皆が案じていることにも、もっともな理由があるのは分かっていた。歩闡(ほせん)は城に立てこもって反乱を起
- 私は幼節(You-Setsu)といい、陸氏(Lu-shi)の生まれである。父祖の名声や家門の旧事について、史書に記されたことは多くない。若い頃に自ら見聞きしたことを、憶測で語るつもりはないし、見てもいないことを飾り立てるつもりもない。昔を振
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