言語
孫

孫河(そん か)

字 伯海

登場回
3
台詞の記録
0
人間関係
6
内面の独白
1

史載(Historical Record)

孫河(そん か)、字は伯海、本姓は兪氏、呉郡の人である。彼は孫策(そん さく)に喜愛されたため、孫姓を賜り、孫氏の族譜の中に列せられた c:1364。『呉書』によれば、孫河は孫堅(そん けん)の族子であり、孫堅の姑母である兪氏の一族の出で、後に孫姓を回復した。彼は人となりが忠直で、弁舌は得意でないが行動は敏捷で、気魄と幹練を具え、勤勉に仕えることができた。早くから孫堅に従って征戦し、しばしば前鋒を務めた。後に、孫堅の左右の親兵を統べ、内務を掌管し、孫堅に心腹の重任とみなされた c:1364。

孫策が呉郡と会稽(かいけい)郡を平定した際、孫河もこれに随って参与した。孫権(そん けん)が李術を討伐した際、孫河もその中におり、李術が撃破された後、孫河は功により威寇中郎将に任じられ、廬江(ろこう)太守を兼任した c:1364。この後、孫河は将軍に昇進し、京城を鎮守した c:1364。

孫河には子が四人あった。長子の孫助と次子の孫誼はいずれもかつて県長を務めたが、ともに早逝した。三子の孫桓(そん かん)、字は叔武は、容貌端正、器宇聡朗、博学強記、議論応対に長じ、孫権はしばしば彼を宗室中の顔淵と称賛し、武衛都尉に抜擢した c:1357。孫桓はかつて軍に随って関羽(かんう)を華容に討ち、関羽の余党を誘降し、五千人、ならびに大量の牛馬と器械を獲た。陸遜(りくそん)とともに劉備(りゅうび)を防ぐ戦役において、劉備の軍は声勢盛んで、山に弥り谷に盈ちた。孫桓は奮力して拼搏し、陸遜と通力協力して、最終的に劉備を撃破した。孫桓は追撃の中で上兜、夔道を断ち切り、劉備の退路の要衝を遮断した。劉備は山を越え険を越えて、かろうじて免れ得て、憤って嘆じた、「我、当初初めて京城に至りしとき、孫桓はなお小児なりき、しかるに今、我をかかる地まで逼迫せり」と。孫桓は功により建武将軍に任じられ、丹徒(たんと)侯に封じられ、牛港に遣わされて横江坞を督造したが、まもなく死去した c:1357。

孫河の幼子の孫俊、字は叔英は、性情が恢弘で、文武兼備、かつて定武中郎将を務め、薄落を鎮守し、赤烏十三年に死去した c:1357。孫河はまたかつて吾粲(ごさん)を抜擢した。吾粲は孫河が県長を務めていた時にはただの小吏にすぎなかったが、孫河はその非凡さを深く感じ取った。後に孫河が将軍となり、自ら長吏を選抜できるようになると、吾粲を曲阿丞に挙げ、後にまた長史に遷し、地方を治める上で名声を博した c:965。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては、孫河の人物像は主としてその子の孫桓の引介を通じて間接的に呈されている c:1365。小説の第八十二回、孫権が呉王に封じられた後、劉備が大軍を率いて来犯し、衆臣はみな黙然とした。この時、一人の少年将軍が進み出て、自ら敵を破ることを推挙したが、この人物こそ孫河の子の孫桓であった c:1365。

小説における孫河の描写は史実とおおむね一致しており、彼が本姓兪氏で、孫策に喜愛されたため孫姓を賜り、それゆえ孫桓もまた呉王の宗族とみなされることに言及している c:1365。小説はまた、孫河に子が四人あり、孫桓は長子であって、弓馬に熟達し、しばしば呉王に随って征戦し、たびたび奇功を立て、官は武衛都尉に至り、時に年二十五歳であったことを述べている c:1365。これらの細部は『三国志(さんごくし)』およびその注引『呉書』の記載と符合し、明らかな逸脱は現れていない。しかし、小説は孫河の生涯の事跡や参与した具体的な戦役を直接描写せず、むしろ彼を孫桓の背景紹介として、孫桓の英勇と出自を引き立てている c:1365。

小説では、孫桓は劉備の大軍が圧迫した際、自ら出陣を願い出て、孫権の信任を得て、左都督に任命され、朱然(しゅぜん)とともに兵五万を領いて蜀軍を防いだ c:1365。この筋書きは孫桓の軍事的才能を際立たせているものの、孫河本人は小説の中で直接登場せず、その役割はむしろ家族の背景として、孫桓の登場に正当性と合理性を提供することにある。したがって、孫河の『三国演義』における人物像は比較的平板であり、主として家族の淵源の象徴として存在している。

重要な関係

* 孫策:孫河は孫策の賞識と喜愛を得て、孫姓を賜り、孫氏族譜に列せられた。これは彼の人生における重要な転換点となった c:1364。
* 孫堅:孫河は早年に孫堅に従って征戦し、しばしば前駆を務め、孫堅に重任を委ねられ、内務を掌管し、腹心として待された c:1364。
* 孫権:孫河はかつて孫権に随って李術を討伐し、功により封を受けた。孫河の子の孫桓もまた孫権に深く器重され、「宗室の顔淵」と誉められた c:1357。
* 孫桓:孫河の子であり、劉備を防ぐ夷陵の戦い(いりょうのたたかい)において赫々たる戦功を立てた、呉国の重要な将領である c:1357。演義においては、孫桓の登場も間接的に孫河の背景に言及している c:1365。
* 吾粲:孫河は県長を務めていた時、吾粲の才能を見出し、彼を曲阿丞に抜擢した。吾粲はこれによって抱負を施し、名声を高めることができた c:965。

象徴的な場面

* 孫姓を賜り、族譜に列せられる:孫河は本姓兪氏であったが、孫策の喜愛と器重を得たため、孫姓を賜り、正式に孫氏族譜に列せられた。これは彼が外姓から孫氏宗族の一員へと転じ、より高い社会的地位と信任を得たことを示している c:1364。
* 孫堅、孫策に随って征戦し、内事を典知する:孫河は早年に孫堅に従って征討し、しばしば前鋒を務め、後にまた左右の兵を統べ、内務を掌管し、孫堅に心腹とみなされた。彼はまた孫策に随って呉、会を平定し、その軍事的才能と忠誠を示した c:1364。
* 李術を討伐し、威寇中郎将を拝す:孫河は孫権に随って李術を討伐し、李術が撃破された後、孫河は功により威寇中郎将に任じられ、廬江太守を兼任した。これは彼の軍事的生涯における重要な里程標である c:1364。
* 吾粲を抜擢する:孫河は県長を務めていた時、慧眼で人を見抜き、当時まだ小吏であった吾粲を抜擢し、その才を施させ、最終的に呉国の名臣とした。これは孫河の人を知り善く任ずる能力を体現している c:965。
* 子の孫桓が夷陵の戦いで大いに活躍する:孫河本人は夷陵の戦いに直接参与していないものの、その子の孫桓はこの戦いにおいて出色の働きを見せ、陸遜とともに劉備を撃破し、劉備に「吾、昔初めて京城に至りしとき、桓はなお小児なりき、しかるに今、孤を迫ること乃ちここに至れり」と感慨を発させた。これは間接的に孫河家族の軍事的伝統と栄誉を彰示している c:1357(演義独自の筋書きであるが、史実にも孫桓のこの戦いにおける功績は記載がある c:1357)。

人間関係

6 件の関係

登場回3 回 ▸
  • 史ch.51ch.57
  • 演ch.82
関係の年表4 条 ▸

史 ch.51

史 ch.57

演 ch.82

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は孫河(そん か)、字は伯海(はくかい)といい、もとは呉の人で、もとの姓は俞(ゆ)でした。昔、先君の孫堅(そん けん)に従って討伐に加わり、孫策(そん さく)から厚く遇され、孫姓を賜って属籍に加えられました。この恩を忘れることはできません