言語
張

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 正议校尉

張紘(ちょうこう)

字 子綱

登場回
6
台詞の記録
7
人間関係
4
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

張紘(ちょうこう)は、字を子綱といい、広陵(こうりょう)の人である。彼は若い頃に京都に遊学し、博士の韓宗に師事して『京氏易』『欧陽尚書』を学び、また濮陽(ぼくよう)の闿の門下で『韓詩』『礼記』『左氏春秋』を学んだ。学を成して郷に帰った後、彼は茂才に挙げられ、大将軍の何進(かしん)、太尉の朱儁(しゅしゅん)、司空の荀爽(じゅん そう)の三府の徴辟を受けたが、彼はみな病を理由に辞退して就かなかった。

漢末に天下が大いに乱れると、張紘は戦火を避けて江東に移り住んだ。孫策(そん さく)が江東で創業したとき、張紘は彼に帰附し、正議校尉に表された。孫策が丹陽を征討する間、彼は前線に臨んで作戦を指揮した。張紘は孫策を諫め、主将は謀略の源であり、三軍の命運がかかっているのだから、軽々しく危険を冒すべきではなく、自身を珍重し、四海の望みに副い、国内の上下が主将の危険を冒すことを憂えるのを避けるよう願った。

建安四年(西暦199年)、孫策は張紘を遣わして章を奉じて許都(きょと)に赴かせ、張紘はこのため許都に留まって侍御史を務め、少府の孔融(こうゆう)らと親しく交わった。当時、曹操(そうそう)は孫策の死を聞き、その喪に乗じて呉を伐とうとしたが、張紘は曹操を諫め、人の喪に乗じて呉を伐つのは古義に合わず、もし成功しなければ、かえって仇を結び好を捨てることになるから、この機に孫権(そん けん)を厚遇するに越したことはないと述べた。曹操はその進言を採用し、ただちに上表して孫権を討虜将軍に任じ、会稽(かいけい)太守を兼領させた。曹操はまた張紘が孫権を輔佐して朝廷に帰附させることを望み、そこで張紘を会稽東部都尉に任じた。

孫権の継位(そんけんのけいい)の初め、張紘は張昭(ちょうしょう)とともに謀議に参与し、政事を処理し、とりわけ章表書信の撰述や各方面との交結の面では、しばしば張紘と張昭が草創した。張紘はかつて孫策のために紀頌を撰し、その功績を顕彰したが、孫権は読んで深く悲しみ、張紘を「真にわが家門の閥閲を識る者なり」と称賛した。後に、孫権は張紘を長史に任じ、軍に従って合肥(がっぴ/ごうひ)を征討させた。合肥城は久しく攻めても落ちず、張紘は計を献じ、城を囲む際に一面を残し、敵軍の死戦の心を瓦解させるよう建議した。孫権が軽騎を率いて敵陣に突撃しようとしたとき、張紘は再び諫め、主将は軽々しく矢石を冒すべきではなく、覇王の計を重んじるべきだと指摘し、孫権はその進言を採用して行動を止めた。翌年、孫権が再び出兵しようとすると、張紘はまた諫言し、君王は「時に動く」ことを貴ぶべきで、当面は休養生息し、広く播殖を開き、賢を任じ能を使い、文徳をもって治を致すべきだと述べ、孫権はこのため出兵の計画を止めた。

張紘はかつて孫権に秣陵への遷都を建議し、秣陵の地勢には王者の気があり、都城とするのに適していると述べた。孫権はこの建議を採用したが、ただちに実行することはできなかった。後に劉備(りゅうび)もまた孫権に秣陵への遷都を勧めたため、孫権は「智者は意を同じくす」と嘆じ、そこにここに遷都した。張紘は命を受けて呉に帰り家族を迎える途中で病没し、享年六十であった。臨終の前、彼は子の張靖に遺書を残し、君主は賢を渇するように求め、諫めを受けて厭わず、情を抑え欲を損し、義をもって恩を割き、仁覆の大業を成すべきだと諫めた。孫権は遺書を読んで、涙を流してやまなかった。

演義での描写(In the Novel)

『三国演義』において、張紘の人物像はさらに孫策・孫権父子の重要な謀士として造形されている。彼が初めて登場するのは孫策の江東平定(そんさくのこうとうへいてい)の時である。周瑜(しゅうゆ)が孫策に「江東の二張」、すなわち張昭と張紘を推薦し、二人ともに「経天緯地の才」があると称した。孫策は自ら出向いて招聘し、二人は承諾し、張紘は参謀正議校尉に任じられた。厳白虎(げんはくこ)を攻める際、孫策が自ら危険を冒そうとしたとき、張紘は諫め、主将は三軍の命運がかかっているのだから、軽々しく敵を侮るべきではないと強調したが、孫策は口頭では感謝しつつも、自ら矢石を冒さなければ将士が命を尽くさないと考えた。これは史書において孫策が張紘の諫言を採用したのとは幾分異なっている。

演義では、張紘は曹操が孫策の新たな喪に乗じて呉を伐とうとしたとき、曹操に諫め、この挙は不義であり、孫権を厚遇するに越したことはないと述べ、曹操はその言を採用し、張紘に印を持たせて江東に赴かせた。孫権はこのため大いに喜び、張紘に張昭とともに政事を処理するよう命じた。張紘はまた孫権に顧雍(こよう)を推薦し、顧雍は後に孫権の丞相となった。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜、張昭、顧雍、張紘、歩騭(ほしつ)らはともに周瑜を訪ね、降伏を主張する意見を表し、魯粛(ろしゅく)と諸葛亮(しょかつりょう)が孫権に曹操への抗戦を勧めるのは私心によるものだと考えた。周瑜は表面上は賛同を示したが、実は別の考えがあった。これは史実における張紘が孫権集団(そんけんしゅうだん)の中で敢えて諫諍した人物像とは対照をなしており、演義はここで彼を張昭らの主降派と立場を同じくする者として描いている。

孫権が合肥を征討した際、宋謙(そうけん)が戦死したため、孫権は声を放って哭した。長史の張紘は再び諫め、孫権が盛壮の気を恃み、大敵を侮り、三軍を寒からしめていること、敵将を斬り旗を奪うのは偏将の任であり、主公のなすべきところではないことを指摘し、勇を抑えて覇王の計を懐くよう勧めた。孫権は自らの過失であることを認め、今後は改めると述べた。これは史書における張紘の合肥の戦い(ごうひのたたかい)での諫言の内容と一致するが、具体的な情景は幾分異なっている。

演義では、張紘は病没する前、なお江東の大業を心にかけ、孫権に秣陵への遷都を勧める遺書を残し、秣陵の山川には帝王の気があり、万世の業とすることができると述べた。これは史書における張紘の遺書の内容とは幾分異なっており、演義は彼の秣陵への遷都の建議をより重視している。

主要な関係

* 孫策(advises_in):張紘は孫策の重要な謀士であり、孫策の創業初期に帰附し、彼のために策を巡らした。彼はかつて孫策に軽々しく危険を冒すべきではないと諫言し、主将の重きを保とうとした。
* 孫権集団(serves):張紘は孫権の継位後、張昭とともに孫権を輔佐し、政事を処理し、とりわけ章表書信の撰述や各方面との交結の面で貢献が多かった。彼は幾度も孫権に諫言し、大局を重んじ、軽々しく矢石を冒すべきではないと勧め、また休養生息し、文徳をもって治を致すよう建議した。
* 曹魏(serves):張紘はかつて孫策の命を受けて許都に出使し、後に曹操に留用されて侍御史となった。曹操が孫策の喪期に乗じて呉を伐とうとしたとき、張紘は諫め、曹操に孫権を厚遇するよう勧め、曹操はその言を採用し、張紘を江東に帰して孫権を輔佐させた。
* 孔融(friend_of):張紘は許都で侍御史を務めていた間、少府の孔融らと親しく交わった。
* 張昭(colleague_of):張紘は張昭と並んで「江東の二張」と称され、孫策・孫権の時期にともに輔佐し、政事を処理し、孫呉政権の重要な礎であった(演義独自)。
* 周瑜(colleague_of):演義では、周瑜はかつて孫策に張紘を推薦し、張紘らとともに赤壁の戦いの前に戦局を議論した。
* 顧雍(recommends_in):演義では、張紘は孫権に顧雍を推薦し、顧雍は後に孫権の丞相となった。

象徴的な場面

* 孫策が自ら矢石を冒すのを諫止する:孫策が丹陽を征討した際、張紘は孫策を諫め、主将は謀略の源であり、三軍の命運がかかっているのだから、軽々しく危険を冒すべきではないと指摘し、自身を珍重するよう勧めた。演義では、厳白虎を攻める際にも、張紘は同様の諫言をしている。
* 曹操に孫権を厚遇するよう勧める:曹操は孫策の薨去を聞き、その喪に乗じて呉を伐とうとしたが、張紘は曹操を諫め、この挙は不義であり、もし克てなければかえって仇を結ぶから、孫権を厚遇するに越したことはないと述べた。曹操はその言を採用し、孫権を討虜将軍に任じた。
* 合肥の戦いで孫権を諫める:孫権が合肥を征討した際、張紘は城を囲むのに一面を残すよう計を献じ、また孫権が自ら軽騎を率いて敵陣に突撃するのを諫止し、主将は軽々しく矢石を冒すべきではなく、覇王の計を重んじるべきだと指摘した。演義では、この場面は宋謙の戦死の後に起こり、張紘は再び孫権に敵を侮るなと諫言している。
* 秣陵への遷都を建議する:張紘はかつて孫権に秣陵への遷都を建議し、秣陵の地勢には王者の気があり、都城とするのに適していると述べた。孫権はこの建議を採用し、後に劉備もまた孫権に秣陵への遷都を勧めたため、孫権はこのため遷都した。演義では、張紘は臨終の前、なお秣陵への遷都を心にかけ、遺書を残している。
* 臨終の遺書で君主を諫める:張紘は病没する前、遺書を残し、君主は賢を渇するように求め、諫めを受けて厭わず、情を抑え欲を損し、義をもって恩を割き、仁覆の大業を成すべきだと諫めた。

人間関係

4 件の関係

名言

全 7 件の台詞 · 厳選 3 件

「乘人之喪而伐之,既非義舉;若其不克,棄好成讎。不如因而善遇之。」

演 第29回📍 許昌(きょしょう)

この一句は、張紘(ちょうこう)の仁義の思想を体現し、孫権(そん けん)に人の危機につけ込むなと諫めている。

「夫兵者凶器,戰者危事也。今麾下恃盛壯之氣,忽強暴之虜,三軍之眾,莫不寒心,雖斬將搴旗,威震敵場,此乃偏將之任,非主將之宜也。願抑賁、育之勇,懷霸王之計。」

史 第53回→ 孫権(そん けん)

この一句は、主帥たる者は匹夫の勇ではなく王覇の計を持つべきだと諫め、張紘(ちょうこう)の謀士としての姿を描き出している。

「自古有國有家者,咸欲修德政以比隆盛世,至於其治,多不馨香。非無忠臣賢佐暗於治體也,由主不勝其情,弗能用耳。夫人情憚難而趨易,好同而惡異,與治道相反。《傳》曰:『從善如登,從惡如崩』,言善之難也。人君承奕世之基,據自然之勢,操八柄之威,甘易同之歡,無假取於人;而忠臣挾難近之術,吐逆耳之言,其不合也,不亦宜乎!(雖)則有釁,巧辯緣間,眩於小忠,戀於恩愛,賢愚雜錯,長幼失敘,其所由來,情亂之也。故明君悟之,求賢如饑渴。受諫而不厭,抑情損欲,以義割恩,上無偏謬之授,下無冀之望。宜加三思,含垢藏疾,以成仁覆之大。」

史 第53回

この一句は、君臣の関係と治国の道を深く論じ、深遠な哲学的意義を持っている。

登場回6 回 ▸
  • 史ch.53
  • 演ch.15ch.29ch.44ch.53ch.61
関係の年表6 条 ▸

史 ch.53

演 ch.29

演 ch.53

演 ch.61

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は張紘(ちょうこう)、字は子綱(しこう)である。危篤の折、病状はすでに重く、命を受けて呉(ご)へ戻り家族を迎えに行くことになったが、この旅を終えられるとは限らないと分かっていた。秣陵(ばつりょう)のことを思う。かつて私は主上にこう申し上げ
  • 孫策(そんさく)は私に上奏文を奉じて許都(きょと)へ届けさせ、私はそのまま留め置かれて侍御史となった。朝廷の列に加わると、孔融(こうゆう)ら諸公は私を親しく遇してくれた。曹操(そうそう)公もまた遠方から来た者を喜ばせようと恩恵を施し、私を召
  • 私は張紘(ちょうこう)、字は子綱、広陵(こうりょう)の人である。若い頃、故郷を離れて京師に遊学し、太学に入って博士の韓宗(Han Zong)に師事した。学んだのは『易』『尚書』で、さらに外黄の濮陽闓(Pu-yang Kai)から『韓詩』を学
生涯の大事1 ▸