言語
許

許汜(きょし)

登場回
2
台詞の記録
8
人間関係
1
内面の独白
1

史載(Historical Record)

許汜(きょし)は、その生涯の事跡が正史にほとんど記載されておらず、主に他人との対話の形で言及される。『三国志(さんごくし)』の記載によれば、許汜(きょし)はかつて劉備(りゅうび)とともに荊州(けいしゅう)牧・劉表(りゅう ひょう)の座下にあって、三人で天下の人物を論じた。この談話において、許汜(きょし)の陳登(ちんとう)に対する評価は「湖海の士、豪気除かれず」というものであった。劉備(りゅうび)はこの評価に疑問を呈し、許汜(きょし)の言う「豪」に何か根拠があるのかと尋ねた。許汜(きょし)は、かつて戦乱の時期に下邳(かひ)を通りかかり、陳登(ちんとう)を訪ねたが、陳登(ちんとう)は客を待つ礼をもって遇さず、自分だけ大きな寝台に寝て、許汜(きょし)を下の寝台に寝かせたと答えた。

劉備(りゅうび)はこれを聞くと、許汜(きょし)の見解に鋭い批判を加えた。劉備(りゅうび)は、天下が大いに乱れ、帝主が居場所を失った折に、許汜(きょし)は「国士の名」がある者として、本来は国を憂え家を忘れ、世を救う志を持つべきであるのに、ただ「田を求め舎を問う」ことだけにかまけ、その言談には採るに足るところがないと指摘した。劉備(りゅうび)は、これこそ陳登(ちんとう)が許汜(きょし)と深く語ろうとしなかった理由であると考えた。劉備(りゅうび)はさらに戯れて、もし自分が小人であったなら、許汜(きょし)を地面に寝かせ、上下の寝台の別どころではなかっただろうと述べた。劉表(りゅう ひょう)はこれを聞いて大笑した。続いて、劉備(りゅうび)は陳登(ちんとう)を高く称賛し、その文武の胆志は古今に見いだしがたく、容易に比肩しうる者を見つけがたいと評した。この記載は許汜(きょし)と陳登(ちんとう)の交わりの細部を明らかにするばかりでなく、劉備(りゅうび)の評価を通じて、当時の士人の中における許汜(きょし)の人物像とその限界を間接的に示している。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、許汜(きょし)は呂布(りょふ)の謀士として登場し、その人物像は主に呂布(りょふ)のために謀を巡らし、外交を斡旋することをめぐって展開される。史実において傍観者であり評価される側であった役柄とは異なり、演義の許汜(きょし)は呂布(りょふ)の軍事・政治活動に直接関与する。たとえば、曹操(そうそう)が下邳(かひ)を包囲した際、許汜(きょし)はもう一人の謀士・王楷とともに呂布(りょふ)に計を献じた。彼らは呂布(りょふ)に袁術(えんじゅつ)へ援軍を求め、袁術(えんじゅつ)の兵力を利用して内外から曹操(そうそう)を挟撃するよう提案した。呂布(りょふ)はこの計を採り入れ、許汜(きょし)と王楷を使者として寿春(じゅしゅん)へ遣わし、袁術(えんじゅつ)に拝謁させた。

袁術(えんじゅつ)との交渉において、許汜(きょし)と王楷は袁術(えんじゅつ)の疑念に直面し、袁術(えんじゅつ)は呂布(りょふ)が変わりやすく、かつてその使者を殺し、また婚姻を反故にしたと非難した。許汜(きょし)はこれを曹操(そうそう)の奸計によるものだと弁解した。援兵を促すため、許汜(きょし)と王楷は袁術(えんじゅつ)に「唇亡びて歯寒し」の道理を説きさえした。しかし、袁術(えんじゅつ)はまず呂布(りょふ)の娘を送り届けることを条件として、ようやく兵を発するとした。許汜(きょし)と王楷は袁術(えんじゅつ)の条件を携えて帰るほかなかった。呂布(りょふ)の娘を城外へ送り出す際、許汜(きょし)はさらに、夜半に先発し、郝萌(かくぼう)が殿軍を務めるなど、具体的な護送の方策を提起した。袁術(えんじゅつ)がまず娘を得てから兵を発すると提起すると、許汜(きょし)と王楷は呂布(りょふ)に袁術(えんじゅつ)の要求を復述し、呂布(りょふ)に自ら護送し、曹操(そうそう)の重囲を突破するよう提案した。許汜(きょし)はさらに「凶神値日」と「明日大利」の説に基づいて、呂布(りょふ)のために娘を護送する時辰を選び、その迷信と吉凶を重んじる態度を示した(演義独自)。これらの筋立ては史書にはいずれも明らかな記載がなく、『三国演義』が人物像を豊かにし、物語の筋を推し進めるために行った芸術的創作である。

重要な関係

* 呂布(りょふ)(advises_in):『三国演義』において、許汜(きょし)は呂布(りょふ)の謀士であり、何度も呂布(りょふ)のために謀を巡らし、とりわけ呂布(りょふ)が曹操(そうそう)に下邳(かひ)で包囲された際、許汜(きょし)は袁術(えんじゅつ)への援軍要請の行動に積極的に関与した。彼は使者として寿春(じゅしゅん)へ赴き、袁術(えんじゅつ)と交渉し、呂布(りょふ)のために援兵を勝ち取ろうとした。史書では、許汜(きょし)と呂布(りょふ)の直接の関係は記載されていない。
* 劉備(りゅうび)(criticized_by):『三国志(さんごくし)』の記載において、許汜(きょし)は劉備(りゅうび)とともに劉表(りゅう ひょう)の座下にあり、劉備(りゅうび)は許汜(きょし)の言行に鋭い批判を加えた。劉備(りゅうび)は許汜(きょし)が「国士」でありながら言は義に及ばず、ただ私利のみにかまけ、国を憂え民を憂える心を欠くと考えた。この批判は両者の価値観と抱負における大きな差異を明らかにしている。
* 陳登(ちんとう)(criticized_of):許汜(きょし)は劉備(りゅうび)・劉表(りゅう ひょう)と天下の人物を論じた際、陳登(ちんとう)を「湖海の士、豪気除かれず」と評し、陳登(ちんとう)が客をもてなすに無礼で、自分だけ大きな寝台に寝て客を下の寝台に寝かせたとこぼした。これは許汜(きょし)の陳登(ちんとう)に対する個人的な見方を反映するとともに、間接的に劉備(りゅうび)の許汜(きょし)に対する批判を促した。
* 袁術(えんじゅつ)(negotiated_with):『三国演義』において、許汜(きょし)は呂布(りょふ)の使者として、寿春(じゅしゅん)へ赴いて袁術(えんじゅつ)と交渉し、袁術(えんじゅつ)に呂布(りょふ)救援のための出兵を請うた。彼は袁術(えんじゅつ)を説得しようと試み、袁術(えんじゅつ)の提示した救援の条件を伝えた。

象徴的な場面

* 劉表(りゅう ひょう)の座上で陳登(ちんとう)を論じる:これは許汜(きょし)が正史において最もよく知られた場面である。荊州(けいしゅう)牧・劉表(りゅう ひょう)の座上で、許汜(きょし)は劉備(りゅうび)とともに天下の人物を論じた。許汜(きょし)の陳登(ちんとう)に対する評価は「湖海の士、豪気除かれず」であり、陳登(ちんとう)が客をもてなすに無礼で、自分だけ大きな寝台に寝て許汜(きょし)を下の寝台に寝かせたとこぼした。劉備(りゅうび)はこれを聞くと、許汜(きょし)の言行を厳しく批判し、国を憂え民を憂える心を欠き、ただ「田を求め舎を問う」ことだけにかまけていると考えた。この場面は許汜(きょし)の性格の特徴を示すとともに、劉備(りゅうび)の評価を通じて、当時の士人が個人の品格と家国の情懐を重んじたことを際立たせている。
* 呂布(りょふ)のために袁術(えんじゅつ)に援軍を求める:『三国演義』において、呂布(りょふ)が曹操(そうそう)に下邳(かひ)で包囲された際、許汜(きょし)は王楷とともに呂布(りょふ)に計を献じ、袁術(えんじゅつ)への援軍要請を提案した。許汜(きょし)は続いて使者として寿春(じゅしゅん)へ赴き、袁術(えんじゅつ)と交渉し、袁術(えんじゅつ)に呂布(りょふ)救援のための出兵を説得しようとした。彼は袁術(えんじゅつ)の疑念に直面して呂布(りょふ)のために弁護に努め、袁術(えんじゅつ)の提示した、まず娘を送ってから兵を発するという条件を伝えた。この場面は演義における呂布(りょふ)の謀士としての許汜(きょし)の身分、ならびに外交斡旋における彼の役割を際立たせている(演義独自)。
* 呂布(りょふ)の娘を城外へ護送する:『三国演義』において、袁術(えんじゅつ)の条件を満たすため、呂布(りょふ)は娘を城外へ送ることを決めた。許汜(きょし)はこの行動の立案に関与したばかりでなく、吉時を選び、夜半に先発し、郝萌(かくぼう)が殿軍を務めるなど、具体的な護送の方策をも提起した。この場面は謀士としての許汜(きょし)の細部の手配能力、ならびに呂布(りょふ)への忠誠をさらに示している(演義独自)。

人間関係

1 件の関係

名言

全 8 件の台詞 · 厳選 3 件

「陳元龍湖海之士,豪氣不除。」

史 第7回→ 劉表(りゅう ひょう)

この一句は陳登の豪放な性格を描き、その人物像を理解する鍵となる。

「昔遭亂過下邳,見元龍。元龍無客主之意,久不相與語,自上大牀卧,使客卧下牀。」

史 第7回→ 劉備(りゅうび)

この故事「下榻」の由来であり、陳登の傲慢不羈な様を生き生きと描き出す。

「今袁術在淮南,聲勢大振。將軍舊曾與彼約婚,今何不仍求之?彼兵若至,內外夾攻,操不難破也。」

演 第19回→ 呂布(りょふ)

この計略は謀士としての許汜の策略を体現し、呂布の運命に重要な影響を与える。

登場回2 回 ▸
  • 史ch.7
  • 演ch.19
関係の年表1 条 ▸

演 ch.19

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は許汜(きょし)。字はこの記録には見えない。乱世に身を置き、常に人のために策を考えることこそ、自分の務めを果たすことだと思っていた。かつて呂布(りょふ)が曹操(そうそう)の軍に包囲され、終日外へ出ず、厳氏(げんし)や貂蟬(ちょうせん)と酒