史書の記載(Historical Record)
張燕(ちょうえん)は、常山真定の人で、本姓は褚であった。後漢末期に黄巾の乱(こうきんのらん)が勃発した後、張燕は少年を集めて群盗を組織し、山沢の間を転戦し、後に真定に戻ると、部衆は一万余人に達した。博陵の張牛角も兵を起こし、自ら将兵従事と称して、張燕と兵を合わせた。張燕は張牛角を首領に推挙し、共に癭陶を攻めた。張牛角は戦闘の中で飛矢に当たって重傷を負い、死に臨んで部衆に張燕を帥に推戴するよう命じ、「必ず燕を以て帥と為せ」と言い遺した。張牛角の死後、部衆は張燕を首領に奉じ、張燕はこのため姓を張と改めた。張燕自身は剽悍敏捷で人並み外れていたため、軍中では彼を「飛燕」と呼んだ c:5319。
その後、張燕の部衆は日に日に強大となり、常山、趙郡、中山、上党、河内などの地の山谷がその勢力範囲となった。配下の小帥である孫軽、王当らが、それぞれ部衆を率いて張燕に帰附し、黒山軍の総人数は百万の衆に達したため、「黒山」と呼ばれた。漢の霊帝もこれに対して手の施しようがなく、河北の各郡は深くその害を被った。張燕はかつて人を都に遣わして降伏を請い、朝廷から平難中郎将に拝された c:5319。
董卓(とう たく)が長安(ちょうあん)に遷都した後、天下に戦乱が頻発し、張燕もその勢いに乗じて各地の豪傑と交わった。袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)が冀州(きしゅう)を争ったとき、張燕は将の杜長らを派遣して公孫瓚を助け、袁紹と交戦したが、最終的に袁紹に敗れ、部衆も離散した。曹操(そうそう)が冀州を平定しようとしたとき、張燕は使者を遣わして曹操の軍事行動への協力を請い、曹操は張燕を平北将軍に拝した。張燕は部衆を率いて鄴(ぎょう)に赴き、安国亭侯に封ぜられ、食邑五百戸を賜った c:5319。
建安十年(205年)夏四月、黒山賊の張燕はその十数万の部衆を率いて正式に曹操に降伏し、曹操は彼を列侯に封じた c:1707。張燕の死後、その子張方が爵位を継承した。張方の死後、その子張融が引き続き継承した。晋の恵帝の時期、張燕の曾孫張林は趙王司馬倫とともに乱を起こし、官は尚書令、衛将軍に至り、郡公に封ぜられたが、まもなく司馬倫に殺された c:5319。
演義での描写(In the Novel)
『三国演義』において、張燕の人物像は史実とおおむね一致するが、その登場と降伏の場面にはより多くの劇的な性質が付与されている。演義では、張燕は曹操が冀州を平定し、南皮(なんぴ)に入って民を慰撫した後に登場する。このとき、袁煕(えんき)の部将である焦触(しょうしょく)、張南(ちょうなん)はすでに寝返って曹操に降伏していた。続いて、黒山賊の張燕も十万の大軍を率いて降伏してきた c:5321。曹操は同じく張燕を平北将軍に封じたが、これは史書の記載する爵位と一致する。ただし降伏の時期と背景はやや異なっている。史書では建安十年(205年)夏四月に降伏したとあるが、演義ではこれを曹操が袁譚(えんたん)を破った後に置いており、時間的により集中している。
演義では、張燕の降伏後、曹操は曹植(そうしょく)と曹丕(そうひ)を鄴郡に留めて銅雀台を築かせ、張燕に北寨を鎮守するよう命じた c:5322。この場面は史書には明確な記載がなく、演義が人物の活動と筋立てを豊かにするために行った文学的創作である。その後、曹操は収編した袁紹の旧部、合わせて五、六十万の人馬を率いて許都(きょと)に戻り、大いに功臣を封じ、南征して劉表(りゅう ひょう)を討つことを議した。荀彧(じゅん いく)は出兵を当面見合わせ、精力を養うよう進言し、曹操はその進言を採用し、兵を分けて屯田し、時機を待った。張燕はこの時期、主に曹操配下の将としての役割を演じ、一方を鎮守する任を負ったが、その軍事行動における具体的な活躍は詳しく描かれていない。
主要な関係
* 曹操(defected_to):張燕は最終的に曹操に降伏することを選び、曹操から平北将軍・安国亭侯に封ぜられた。演義では、張燕は十万の大軍を率いて帰順し、北寨の守備という重任を委ねられた c:5322。
* 張牛角(oath_brother):張燕は若い頃に張牛角と兵を合わせ、彼を帥に推した。張牛角は死に臨んで張燕を後継者に指名し、張燕はこのため姓を張と改め、その部衆を継承した c:5319。
* 黒山軍(lord_of):張燕は黒山軍の首領であり、その指導の下、黒山軍は発展拡大し、部衆は百万の衆に達し、「黒山」と呼ばれた c:5319。
* 公孫瓚集団(こうそんさんしゅうだん)(serves):袁紹と公孫瓚が冀州を争ったとき、張燕は将の杜長らを派遣して公孫瓚を助け、袁紹に対抗させた c:5319。
* 袁紹(adversary):張燕はかつて公孫瓚を助けて袁紹と交戦し、袁紹に敗れ、部衆が離散した c:5319。
象徴的な場面
* 姓を張と改め「飛燕」と号す:張燕は本姓を褚といったが、義兄の張牛角が臨終の際に部衆に彼を帥に推戴するよう託したため、姓を張と改めた。また、その剽悍敏捷さが人並み外れていたため、軍中では彼を「飛燕」と呼び、これが彼の最も代表的な特徴の一つとなった c:5319。
* 黒山軍百万の衆:張燕の指導の下にあった黒山軍は、勢力範囲が広大で、部衆は百万の衆に達し、後漢末期の河北地域に深遠な影響を及ぼし、朝廷ですら討伐できなかった c:5319。
* 公孫瓚を助けて袁紹に対抗:袁紹と公孫瓚の冀州争奪戦において、張燕は部将の杜長を派遣して助勢させ、最終的には袁紹に敗れたものの、当時の割拠勢力の中での彼の影響力を示した c:5319。
* 十万の大軍を率いて曹操に降る:『三国演義』において、張燕は十万の大軍を率いて曹操に降伏し、この場面は彼が一方の諸侯としての実力と、最終的に曹操に帰順したという政治的選択を際立たせている c:5321。
* 鄴の北寨を鎮守(演義独自):演義では、曹操は冀州を平定した後、張燕に鄴の北寨を鎮守するよう命じ、曹操の彼への信任と重用を示すと同時に、曹操陣営における張燕の役割を具体的に描いている c:5322。
* 子孫の繁栄:張燕の死後、その子孫は爵位を継承し、曾孫の張林に至っては晋の恵帝の時期に官が尚書令、衛将軍に至り、郡公に封ぜられた。これは張燕の一族が後世においてもなお一定の影響力を有していたことを示している c:5319。
人間関係
3 件の関係
登場回6 回 ▸
- 史ch.1ch.7ch.8
- 演ch.11ch.33ch.34
関係の年表1 条 ▸
史 ch.1
- 曹操(そうそう)§65
defected_to
率其众十余万降
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私はもと常山の真定の人で、旧姓は褚(ちょ)であった。黄巾の乱が起こると、若者を集めて盗賊の一団となり、山や沢を行き来した。のちに真定へ戻ったときには、配下はすでに一万余人に達していた。そのころ天下は乱れ、山谷には人々を集める者が多く、さまざ
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