言語
張

董卓集団(とうたくしゅうだん) · 建义将军、河内太守

張楊(ちょうよう)

字 稚叔

登場回
9
台詞の記録
1
人間関係
10
内面の独白
1

史載(Historical Record)

張楊(ちょうよう)、字は稚叔、雲中の人である。彼は武勇の姿で并州に服役し、武猛従事を担った。霊帝の末年、天下は大いに乱れ、霊帝は皇権を強固にするため、寵臣の小黄門の蹇碩(けんせき)を西園上軍校尉に任命し、天下の豪傑を徴召してその属下とし、その中には曹操(そうそう)や袁紹(えんしょう)らが含まれていた。并州刺史の丁原(ていげん)は張楊を派遣して兵を率いて蹇碩のもとへ赴かせ、仮司馬を担わせた。霊帝が崩御した後、蹇碩は何進(かしん)に殺された。張楊は再び何進の派遣を受け、本州に帰って募兵し、千余人を募り、これによって上党に留まり、山賊の剿滅を担った。何進が敗亡した後、董卓(とう たく)が乱を起こした。張楊はそこでその所部を率いて壺関(ここかん)の上党太守を攻めたが、攻略できず、転じて周辺の県城を掠奪し、兵力は数千人に増した。

山東の諸侯が起兵して董卓を討つと、袁紹が河内に至った後、張楊は袁紹と合流し、匈奴単于の於夫羅とともに漳水に屯した。於夫羅は叛こうとしたが、袁紹と張楊は従わなかった。於夫羅はそこで張楊を劫してともに去った。袁紹は将の麴義を派遣して鄴の南で追撃させ、於夫羅軍を大いに破った。単于は張楊を黎陽(れいよう)に連れて行き、度遼将軍の耿祉の軍を攻め破り、張楊の部衆はこれによって再び振るうことができた。董卓はそこで張楊を建義将軍、河内太守に任命した。

献帝が河東にいた時、張楊は兵を率いて安邑に至り、安国将軍に任命され、晋陽侯に封じられた。張楊は天子を奉じて洛陽(らくよう)に帰そうとしたが、その部将が従わず、張楊はやむなく野王に帰った。建安元年、楊奉(ようほう)、董承(とうしょう)、韓暹(かんせん)が天子を挟んで旧都の洛陽に帰る途中、食糧が乏しかった。張楊は食糧を提供して接応し、天子を順調に洛陽に到達させた。張楊は諸将に言った、「天子は天下とこれを共にすべし。幸いに公卿大臣あり、楊はまさに外難を捍ぐべし。なんぞ京都に事せん」。言い終わるとすぐに野王に帰った。天子はそこで彼を大司馬に拝した。張楊は素より呂布(りょふ)と交わりがあった。曹操が呂布を囲攻した際、張楊は救援しようとしたが、成功できなかった。彼はやむなく東市に出兵し、遠くから声援する勢いをなした。しかし、その部将の楊醜(ようしゅう)が張楊を殺害し、曹操に投じようとした。張楊のもう一人の部将の眭固がまた楊醜を殺し、その部衆を率いて、北上して袁紹に投じようとした。曹操は史渙(しかん)を派遣して迎え撃たせ、犬城で眭固を大いに破り、これを斬殺し、張楊の全部の部衆を収編した。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、張楊の人物像はさらに造形されており、特に献帝が東のかた洛陽に帰る過程で重要な役柄を演じた。献帝が安邑にいた時、大荒によって百姓が飢饉に陥り、河内太守の張楊は献帝に米肉を進献し、天子をやや安んじさせた。董承、楊奉が駕を奉じて洛陽に還ることを議した際、河東太守の王邑は絹帛を献じ、張楊は軹道で粟帛を具えて駕を迎えた。献帝はこれによって張楊を大司馬に封じたが、張楊はこの職を辞謝し、野王に屯した。

小説では、張楊の部将の楊醜が張楊を殺害する筋は史実とほぼ一致するが、その動機は張楊の首級を曹操に献じようとしたものと明確にされている。その後、張楊の心腹の将領の眭固がまた楊醜を殺し、反って犬城に投じた。曹操は報を聞くと、即座に史渙を派遣して眭固を追って斬らせた。小説はまた曹操の視角を通じて、張楊の死が戦局に与えた影響を示しており、曹操は一度は張楊の死によって呂布を攻めるのをしばらく緩めることを考えたが、荀攸(じゅん ゆう)と郭嘉(かくか)に諫め止められ、最終的に郭嘉の水を決して城を沈める計を採った。演義における張楊の性格の描写、たとえば「性は仁和、威刑なし。下人が謀反すれば、発覚しても、これに対して涕泣し、すなわち原して問わず」 は、史伝の『英雄記』の記載と符合し、その寛厚仁慈な一面を際立たせている。

主要な関係

* 蹇碩(serves):張楊は霊帝の末年にかつて并州刺史の丁原の派遣を受け、仮司馬として、蹇碩の麾下に隷属した。
* 袁紹(friend_of):董卓が乱を起こした後、張楊は袁紹と河内で合流し、ともに董卓に対抗した。後に眭固は楊醜を殺害した後、また北上して袁紹に投じようとした。
* 董卓集団(serves):董卓は張楊が匈奴単于の於夫羅と交戦した後、張楊を建義将軍、河内太守に任命し、彼を自らの勢力範囲に納めた。
* 曹魏(serves):張楊が楊醜に殺害された後、その部将の眭固がまた楊醜を殺して袁紹に投じようとし、最終的に曹操の派遣した史渙に撃殺され、その部衆はことごとく曹操の所有に帰した。
* 呂布(friend_of):張楊は素より呂布と交わりがあり、曹操が呂布を囲攻した際、張楊は救援しようとしたが成功できず、やむなく東市に出兵して遠くから声援する勢いをなした。
* 献帝(serves):献帝が流離していた際、張楊はかつて食糧を提供して接応し、献帝に大司馬に拝された。

象徴的な場面

* 天子を奉迎して洛陽に至らせる:献帝が河東に流離し、食糧が乏しかった際、張楊は食糧を提供して接応し、天子を順調に洛陽に到達させた。彼は諸将に「天子は天下とこれを共にすべし」と表し、大司馬の職を辞して野王に帰り、その漢室への忠誠と権位に恋々としない品格を示した。
* 東市に出兵して呂布を声援する:曹操が呂布を囲攻した際、張楊は呂布と交わりがあったため、直接救援することはできなかったものの、なお東市に出兵し、遠くから呂布を声援し、その情義を重んじる一面を体現した。
* 部将の楊醜に殺される:張楊は最終的にその部将の楊醜に殺され、楊醜は張楊の首級を曹操に献じようとしたが、すぐにまた眭固に殺された。この事件は張楊の勢力の瓦解を直接招き、最終的に曹操に収編された。
* 河内太守として米肉を献ずる(演義独自):献帝が安邑に流離し、百姓が飢饉に陥った時、河内太守の張楊は献帝に米肉を進献し、天子をやや安んじさせ、その漢室への関懐と支持を体現した。

人間関係

10 件の関係

台詞

  • 史 ch.8 §30📍 洛陽(らくよう)

    「天子當與天下共之,幸有公卿大臣,楊當捍外難,何事京都?」

登場回9 回 ▸
  • 史ch.1ch.7ch.8ch.14ch.23
  • 演ch.5ch.13ch.14ch.19
関係の年表8 条 ▸

史 ch.1

史 ch.8

演 ch.13

演 ch.14

演 ch.19

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は張楊(ちょうよう)、字は稚叔(ちしゅく)、雲中(うんちゅう)の人である。若い頃、武勇をもって并州(へいしゅう)に仕え、武猛従事(ぶもうじゅうじ)となった。霊帝(れいてい)末年、丁原(ていげん)は私に兵を率いて蹇碩(けんせき)のもとへ赴か
生涯の大事2 ▸