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孫和(そん か)

孫呉(そんご) · 皇太子

孫和(そん か)

字 子孝

登場回
10
台詞の記録
1
人間関係
18
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

孫和(そん か)、字は子孝、呉の大帝孫権(そん けん)の第三子で、その母は王夫人である。彼は幼少より母が寵を受けたことで孫権(そん けん)に深く愛され、十四歳のとき、孫権(そん けん)は彼のために宮衛を設け、当時の儒学の大家である中書令の闞沢(かんたく)に書芸を教授させた c:1226。孫和(そん か)は天資聡頴で、学を好んで倦まず、しかも謙遜の姿勢で士人に接することができたため、広範な称賛を得た。赤烏五年(西暦242年)、年わずか十九歳の孫和(そん か)が太子に立てられた。そのとき、闞沢(かんたく)が太子太傅に任じられ、薛綜(せつそう)が少傅となり、蔡頴、張純、封俌、厳維などの賢士もまた常に従い、共に太子を輔佐した c:1226。

孫和(そん か)は学識に建樹があるだけでなく、品徳の修養においても人に勝る点を示した。『呉書』には彼が「少にして岐嶷、智意あり」と記され、孫権(そん けん)はそのため「尤も愛幸し」、常に左右に伴わせ、賜る衣物や玩好は諸子の及ぶところではなかった。彼は文学を好み、騎射に善く、師を承けて学を渉り、識を精しくして聡敏で、師長を尊敬し、賢人を愛護することこのうえなかった。朝臣が進賀するたびに、孫和(そん か)はしばしば意を降して相待し、彼らと快く交流した。彼は経義を深く講校し、是非を綜察し、朝臣に訪咨諮問し、行能を考績して、優劣を知り、条理明晰な判断を形成した c:1226。

国家の危難に際して、孫和(そん か)もまた憂国憂民の情懐を示した。あるとき、孫権(そん けん)が軍を潜めて魏将の諸葛誕(しょかつたん)を待ち受けたとき、孫和(そん か)は戦事の凶険を深く知り、父が外に身を曝すのに忍びず、そのためしばしば憂慮憯怛し、人と会同して飲食することすらしなかった。彼はしばしば上諫し、孫権(そん けん)に持重して全勝を期するよう諫め、孫権(そん けん)が朝に還ってようやく安心することができた c:1226。

孫和(そん か)は世風が日に衰え、士人が交遊博弈に溺れて学問を修めない現象を深く憂慮した。彼は当世の士人は術学を講習し、射御を校習して、世事に応じるべきであり、無益な博弈に耽溺すべきでないと考えた。あるとき群臣が宴に侍したとき、彼はその機に乗じて博弈の弊害を述べ、それが事業を妨げ、時日を費やし、精を労し思を損なって何の成果もないと考えた。彼は志士は日を愛しみ力を惜しむべきで、君子は高遠の志を慕い、碌碌として為すなきを恥じるべきだと強調した。彼は人生は短く、栄華は再び来ず、もし無益の欲を断ち、徳義の道を奉じ、急がぬ務めを棄て、功業の基を修めることができれば、その名行はなんと善きことかと指摘した。彼は人情には嬉娯がないわけにはいかないが、嬉娯もまた飲宴琴書射御の間にあってよく、何ゆえ博弈なのかと考えた。そのため、彼は侍坐の八人に各々論を著して此風を矯正するよう命じた。中庶子の韋昭(いしょう)はそこで著名な『博弈論』を著した c:9726c:1229。

しかし、孫和(そん か)の太子の位は順風満帆ではなかった。彼は全公主と不和で、最終的に全公主の讒言によって、孫権(そん けん)は孫和(そん か)の太子の位を廃した。孫和(そん か)はそのため憂恨して死んだ c:1230。後に、孫和(そん か)の子の孫皓(そん こう)が即位した後、父の孫和(そん か)を文皇帝と追諡した c:1224。

演義の記載(In the Novel)

『三国演義』において、孫和(そん か)の姿は比較的簡略で、主に孫権(そん けん)の太子廃立事件の一環として登場する。演義では、孫権(そん けん)が先に太子の孫登(そん とう)を立て、孫登(そん とう)が死去した後、ようやく次子の孫和(そん か)を太子に立てたと明確に指摘されている c:1230。この点は史実と一致し、史書では孫登(そん とう)が赤烏四年に死去し、孫和(そん か)が赤烏五年に太子に立てられたと記される c:1225c:1226。

演義は孫和(そん か)が廃された原因、すなわち「和は全公主と不和であったため、公主に讒言され、権これを廃す。和は憂恨して死す」を重点的に描いている c:1230。この筋立ては史実における「二宮事件(にきゅうじけん)」と呼応するが、演義はそれを全公主の讒言に簡略化し、その中の複雑な政治闘争と各勢力の駆け引きを深く掘り下げてはいない。史実では、孫和(そん か)の廃位は孫権(そん けん)晩年の継承者への躊躇、朝中大臣の分裂、ならびに全公主、魯王孫覇(そん は)らの煽り立てに関わっており、単一の讒言で概括できるものではない。

演義における孫和(そん か)の性格、学識、ならびにその在位期間の政績と憂国憂民の情懐についてはほとんど言及されておらず、これは史書における彼の「学を好み士に下る」「師傅を尊敬する」「常に憂労憯怛する」などの詳細な描写と鮮明な対比をなしている c:1226。演義はより彼の太子として廃される悲劇的結末、ならびにそれによって引き起こされる孫権(そん けん)晩年の政治的動揺に重点を置き、後続の孫亮(そん りょう)、孫休(そん きゅう)、孫皓(そん こう)の登場の伏線を埋めている。孫和(そん か)は演義では第108回と第120回にのみ登場し、しかも台詞は一句のみで(演義独自)、その存在はより筋立ての展開を推し進めるためのものであり、立体的な人物像を造形するためのものではない c:1230。

主要な関係

* 孫皓(そん こう)(parent_of):孫和(そん か)は孫皓(そん こう)の父である。孫皓(そん こう)は即位後、父の孫和(そん か)を文皇帝と追諡した c:1224。
* 孫登(そん とう)(sibling_of):孫和(そん か)は孫登(そん とう)の弟である。孫登(そん とう)が死去した後、孫和(そん か)はようやく太子に立てられた c:1225c:1226c:1230。
* 闞沢(かんたく)(student_of):孫和(そん か)はかつて闞沢(かんたく)の学生であった。孫権(そん けん)は闞沢(かんたく)に孫和(そん か)の書芸を教授させ、闞沢(かんたく)は後に孫和(そん か)の太傅も務めた c:1226。
* 薛綜(せつそう)(student_of):孫和(そん か)はかつて薛綜(せつそう)の学生であった。薛綜(せつそう)は孫和(そん か)が太子に立てられた後、少傅に任じられた c:1226。
* 蔡頴、張純、封俌、厳維(associated_with):これらの人物はいずれも孫和(そん か)の太子時期の侍従で、常に左右に伴った c:1226。
* 韋昭(いしょう)(associated_with):韋昭(いしょう)はかつて孫和(そん か)の中庶子で、孫和(そん か)の命を受けて『博弈論』を撰し、時風を矯正した c:9726c:1229。
* 全公主(adversary_of):孫和(そん か)は全公主と不和で、最終的に全公主に讒言されて廃された(演義独自。史実では「二宮事件(にきゅうじけん)」の重要な参与者)c:1230。

象徴的な場面

* 太子に立てられ名士に師事する:赤烏五年、年わずか十九歳の孫和(そん か)が太子に立てられた。孫権(そん けん)は彼のために強力な師資の陣容を備え、太傅闞沢(かんたく)と少傅薛綜(せつそう)、ならびに蔡頴、張純などの侍従を含んだ。この時期、孫和(そん か)は学を好み士に下り、師傅を尊敬する優れた品質を示し、世人に称えられた c:1226。
* 戦事を憂慮し、父帝を諫める:孫権(そん けん)が軍を潜めて魏将の諸葛誕(しょかつたん)を待ち受けたとき、孫和(そん か)は深く憂慮し、父の安危を心配した。彼はしばしば上諫し、孫権(そん けん)に持重して全勝を期するよう諫め、孫権(そん けん)が朝に還ってようやく心を放った。これは彼の国家と父への深い関心を体現している c:1226。
* 学問を提唱し、博弈の風を矯正する:孫和(そん か)は当時の士人が博弈に溺れ、学業を荒廃させる現象に深く不満であった。あるとき宴会で、彼は博弈の弊害についての論述を発表し、侍坐の八人に各々論を著して此風を矯正するよう命じた。中庶子の韋昭(いしょう)はそのため著名な『博弈論』を撰し、彼が学問を重んじ時弊を匡正する象徴的事件となった c:9726c:1229。
* 廃されて憂恨し死ぬ:孫和(そん か)は全公主と不和で、最終的に全公主の讒言によって孫権(そん けん)に太子の位を廃され、そのため憂恨して死んだ。この事件は彼の政治生涯の悲劇的結末を象徴し、孫権(そん けん)晩年の政治的動揺の縮図ともなった c:1230。
* 死後に文皇帝を追諡される:孫和(そん か)の子の孫皓(そん こう)が即位した後、父の孫和(そん か)を文皇帝と追諡した。これは彼の身分への肯定であるだけでなく、その子の彼への追思と尊崇を反映している c:1224。

肖像アーカイブ

人物像

性格
孫和(そんか)は学問を好んで士に謙り、師傅を敬い、博打を好まず、常に父の遠征を心にかけて憂え悲しんだ。
生涯
孫和(そんか)は幼い頃、母の王夫人が寵愛を受けたことにより可愛がられた。赤烏五年に太子に立てられたが、後に王夫人と全公主(ぜんこうしゅ)との間に不和が生じ、王夫人は憂えて死に、孫和は寵愛を次第に失い廃立の危機に直面した。最終的に幽閉され、後に故鄣へ移され、さらに南陽(なんよう)王に封じられて長沙(ちょうさ)へ遣わされた。諸葛恪(しょかつかく)が誅殺された後、孫峻(そんしゅん)はその璽綬を奪い、新都(しんと)へ移して死を賜り、孫和と妃の張氏(ちょうし)はともに自殺した。孫皓(そんこう)が即位した後、彼に文皇帝と追諡した。
逸話
孫権(そんけん)の子で、かつて太子に立てられ、孫皓(そんこう)の実父である。その妻張氏(ちょうし)は孫和の死後、殉じて自殺した。

人間関係

18 件の関係

台詞

  • 史 ch.59 §17

    「文武在事,當能幾人,因隙構簿,圖相危害,豈有福哉?」

登場回10 回 ▸
  • 史ch.47ch.48ch.50ch.52ch.58ch.59ch.61ch.65
  • 演ch.108ch.120
関係の年表7 条 ▸

史 ch.48

史 ch.59

演 ch.108

演 ch.120

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は孫和(そん か)、字は子孝(しこう)である。幼い頃、父皇の寵愛を受け、十四歳で宮衛を置かれた。また、中書令の闞澤(かん たく)に書を学ばせてくださった。師傅がそばにいるなか、私は世継ぎの身分を誇ることなく、ただ経義を多く読み、是非を見分
生涯の大事5 ▸