言語
吾

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 太子太傅

吾粲(ごさん)

登場回
2
台詞の記録
0
人間関係
7
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

吾粲(ごさん)、字は孔休、呉郡烏程の人。その幼年のとき、かつて孤城の老婆が彼に「卿相の骨」があると予言した。彼は初め孫河(そん か)の手下で小吏を務め、孫河はその才能を深く器重した。のちに孫河が将軍に昇り、自ら長吏を選ぶ権を有すると、吾粲を曲阿丞に挙げ、のちにまた長史に遷した。これらの職において、吾粲の政績は顕著で、声名は高まった。出自は寒微であったものの、彼は同郡の陸遜(りくそん)・卜静らの名士と名を斉しくすることができた。

孫権(そん けん)が車騎将軍であったとき、吾粲は主簿に召され、のちにまた外に出されて山陰県令となり、その後戻って参軍校尉となった。黄武元年(222年)、吾粲は呂範(りょはん)・賀斉らとともに舟師を率いて洞口で魏将曹休(そうきゅう)の攻撃を防いだ。戦闘中に突如大風に遭い、呉軍の船の纜が断たれ、多くの船が風浪によって岸へ吹き寄せられ、魏軍に俘らえられるか、沈んで溺れた。当時、いくつかの大船は沈まなかったものの、水中でもがく将士たちが次々によじ登って救いを求めた。他の吏士は船が積み過ぎて転覆することを恐れ、皆戈矛をもって打ち払い、救おうとしなかった。ひとり吾粲と黄渊だけが船夫に命じてこれらの落水者を受け入れさせた。左右の従者は船が重過ぎて必ず転覆すると憂えたが、吾粲は断固として言った、「船がもし転覆すれば、われらはせいぜいともに死ぬまでのこと。他人が窮地にあるのに、どうして見捨てられようか」。最終的に、吾粲と黄渊は百余人を救い活かした。

戦事が終わると、吾粲は会稽(かいけい)太守に昇った。彼はかつて隠士の謝譚を召して功曹とさせようとしたが、謝譚は病を理由に赴任しなかった。吾粲はわざわざ書を致して諭し、言葉は懇切で、謝譚に仕官を勧めようとした。続いて、吾粲は兵を募って昭義中郎将に任じられ、呂岱(りょたい)とともに山越の叛乱を平定した。乱を平らげたのち、彼は入朝して屯騎校尉・少府となり、最終的に太子太傅に昇った。

孫権晩年の「二宮事件(にきゅうじけん)」において、吾粲は断固として太子孫和(そん か)の側に立ち、抗言して正を執り、嫡庶の分を明らかにした。彼は魯王孫覇(そん は)を夏口(かこう)へ外調することを主張し、楊竺が都に留まることを阻んだ。吾粲はまたしばしば宮中の消息を当時武昌(ぶしょう)に駐守していた陸遜に告げ、陸遜もこのためしばしば上表して諫めた。これらの挙動が魯王孫覇およびその党与の楊竺らを怒らせ、吾粲はこのため誣陥され、最終的に獄に投ぜられ処刑された。その死は、孫権晩年の廃立の争いにおいて、忠直の大臣が迫害を受けた典型的な事例の一つである。

演義の記述(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては吾粲に対する独立した、詳細な文学的造形はなされていない。その事跡と人物像は演義において特に言及または展開されておらず、したがって、演義の角度からその「演中」の描述を行うことはできない。

主要な関係

* 孫河(その師):孫河は吾粲の早期の伯楽であり引薦者である。吾粲は孫河の手下で小吏から始め、その才能ゆえに孫河に賞識され、曲阿丞に挙げられて、ここから仕途に踏み出し、後日の発展の基礎を固めた。
* 孫権集団(そんけんしゅうだん)(仕える):吾粲は生涯孫権政権のために働いた。彼は地方の官吏から始め、次第に太子太傅にまで昇った、孫権集団における重要な文臣武将である。彼は主簿・山陰令・参軍校尉・会稽太守等の職を務め、山越平定の軍事行動にも参与した。
* 曹休(ともに戦う):吾粲はかつて呂範・賀斉らの将とともに、洞口で魏将曹休の攻撃を防いだ。この戦役において、彼は仁愛と果敢の品質を示し、個人の安危を顧みず落水した将士を救助した。
* 呂岱(ともに戦う):吾粲はかつて呂岱とともに山越を討ち平らげ、その軍事的才能と呉国への貢献を示した。
* 陸遜(盟友):「二宮事件」において、吾粲は陸遜と立場を一にし、ともに太子孫和を支持した。吾粲はしばしば陸遜へ宮中の消息を伝え、陸遜もこのためしばしば上表して孫権を諫め、両人はともに嫡庶の分を守るべく努めた。
* 孫覇・楊竺(敵対者):吾粲は廃立の争いにおいて断固として魯王孫覇に反対し、その外調を主張し、楊竺が都に留まることを阻んだため、最終的に孫覇と楊竺らに誣陥・迫害され、獄に下されて処刑された。

象徴的な場面

* 洞口で溺者を救う:黄武元年、洞口で曹休を防いだ戦役において、呉軍の船が大風に遭って転覆し沈んだ。多くの将士が落水して救いを求めたが、他の船の吏士は船が重くなって転覆することを恐れて救助を拒んだ。ひとり吾粲と黄渊だけが左右の制止を顧みず、毅然として船夫に命じて落水者を受け入れさせた。吾粲は言った、「船敗れなば、当にともに死すべきのみ。人窮すれば、奈何ぞこれを棄てんや」。最終的に、吾粲と黄渊は百余人を救い活かした。この場面は吾粲の仁愛・果敢・犠牲を畏れぬ崇高な品格を十分に示している。
* 抗言して正を執る:孫権晩年の「二宮事件」において、吾粲は太子太傅として、断固として太子孫和の地位を守り、抗言して正を執り、嫡庶の分を明らかにした。彼は魯王孫覇の外調を主張し、楊竺が都に留まることを阻んで、内乱を避けようとした。彼はさらにしばしば宮中の消息を陸遜に告げ、ともに孫権を諫めた。この挙動は最終的に彼が誣陥されて獄に下され処刑されることを招いたものの、その忠貞不二、原則を堅持する政治的気骨を顕彰した。
* 謝譚を勧め励ます:吾粲は会稽太守であったとき、かつて隠士の謝譚を召して功曹とさせようとしたが、謝譚は病を理由に辞した。吾粲はわざわざ書を致して諭し、書中の言葉は懇切で、「応龍は屈伸をもって神とし、鳳凰は嘉鳴をもって貴しとす」をたとえに、謝譚に仕官して国のために働くことを勧めた。これは吾粲の人材を重んじる姿勢を体現するのみならず、その人を識り人を用いる才能、および国家社稷への責任感をも示している。

人間関係

7 件の関係

登場回2 回 ▸
  • 史ch.57ch.59
関係の年表6 条 ▸

史 ch.57

史 ch.59

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は吾粲(ごさん)、字は孔休(こうきゅう)、呉郡(ごぐん)烏程(うてい)の人である。若い頃に孤児となり、身分も低かった。最初は孫河(そん か)の県で小吏を務めた。孫河は私を見て、たいそう非凡だと思い、後に上奏して私を曲阿の県丞に任じた。それ