背景
孫権(そん けん)の称帝(そんけんのしょうてい)後、長男・孫登(そん とう)が皇太子に立てられ、長年にわたる育成を経て朝野に後継への異論はなかった。しかし赤烏四年(241年)に孫登(そん とう)が早世したことで、孫呉(そんご)のそれまで安定していた継承計画は一挙に崩れた。翌年、孫権(そん けん)は三男・孫和(そん か)を太子に立て、平穏な移行が期待されたが、彼はほぼ同時に四男・孫覇(そん は)を魯王に封じ、礼秩・待遇・側近の配置において魯王と太子をほぼ同等に扱った。皇帝制において太子と諸王との名分上の格差は政権安定の礎石であるが、孫権(そん けん)による「二宮並立・待遇均等」の措置は嫡庶の境界を自ら曖昧にし、後継争いの制度的な火種を埋め込んだ。
主要人物
事件の真の主導者は孫権(そん けん)本人であった――二宮並立の構図を作り出したのも、最終的に両子の命運を裁いたのも彼自身である。太子・孫和(そん か)と魯王・孫覇(そん は)は後継争いの両極をなし、前者は東宮の地位にありながら寵を失い、後者は野望を抱いて党を組んだ。朝臣は二派に分裂した。丞相・陸遜(りくそん)、顧譚(こたん)、吾粲(ごさん)、朱拠(しゅきょ)、諸葛恪(しょかつかく)らは嫡庶の区別を堅持して太子側に立ち、歩騭(ほしつ)・全琮(ぜんそう)・呂岱(りょたい)らは魯王に与した。全琮(ぜんそう)一派は特に活発で、太子党の陥れに主導的な役割を果たした。孫権(そん けん)の長女・孫魯班は太子の生母・王夫人と不和であったため讒言を吹き込み、対立を激化させる決定的な役割を担った。また顧雍(こよう)一族(顧譚(こたん)はその孫)も党争に巻き込まれて流刑に処せられており、この争いが功臣集団全体に及んだ広さを示している。
核心議題
二宮事件(にきゅうじけん)の核心は、どの皇子が継位するかという問題にとどまらず、孫呉(そんご)における君権と功臣集団の関係をいかに収束させるかにあった。陸遜(りくそん)らが繰り返し「嫡庶の別を明確にすべし」と上書したのは、表面上は東宮の地位を守るためであるが、実質的には君主に予測可能な継承規則を遵守させ皇権の恣意性を抑制するよう求めるものであった。孫権(そん けん)はこれを強く警戒した。晩年の彼は江東大族の筆頭・陸遜(りくそん)が代表する江東有力氏族の勢力肥大をすでに忌んでおり、東宮争いはむしろ、党争を名目に「皇家の事に干渉し」かつ地方豪族と深く結びついた重臣たちを粛清する好機となった。かくしてこの争いは継嗣問題から、皇権による功臣集団の整肅へと急速に変質した。
政治的帰結
結末は双方が傷つく形の清算となった。孫権(そん けん)は太子・孫和(そん か)を廃して南陽(なんよう)に流し、魯王・孫覇(そん は)には賜死を命じてその党羽を誅戮した。そして幼い孫亮(そん りょう)を新たな太子に立てた。太子を支持した重臣たちは左遷あるいは誅殺され、陸遜(りくそん)は孫権(そん けん)の度重なる叱責を受けた末に憂憤のうちに死去した。孫呉(そんご)で最も威望を持つ一代の功臣・謀臣集団は壊滅的な打撃を受けた。さらに幼主の継統は権臣専横の禍根を埋め込んだ――その後、孫峻(そん しゅん)・孫綝が相次いで権力を壟断し、宮廷政変が頻発して孫呉(そんご)の中枢は長期にわたって動揺し続けた。二宮事件(にきゅうじけん)はまさに孫呉(そんご)の盛衰の転換点であり、この処置は孫権(そん けん)一生最大の政治的過失として後世に広く評されている。
反事実推論
もし孫権(そん けん)が孫登(そん とう)の死後、孫和(そん か)のみを太子に立て、魯王の礼秩を明確に引き下げて名分を確定していたならば、党争はそもそも生まれ得なかったかもしれない。たとえ兄弟間に対立があったとしても、朝臣は分党しにくく、孫呉(そんご)の功臣集団は無傷で保全され、幼主継統・権臣乱政という連鎖反応も起きなかった可能性が高い。しかし問題の根本は継承の取り決めではなく、孫権(そん けん)晩年の江東大族に対する深刻な猜疑にあったのかもしれない――その猜疑が存在する限り、遅かれ早かれ陸遜(りくそん)一派を粛清する口実を求めただろうし、二宮事件(にきゅうじけん)はたまたまそのために利用された端緒にすぎなかったとも言える。もしそうであれば、孫呉(そんご)中枢の元気の損耗はほぼ避けられず、違いはどのような名目でいつ爆発するかだけの問題であった。
