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嘉禾五年、呉の襄陽攻撃(かわごねん、ごのじょうようこうげき)

0236-01-01 · 襄陽(じょうよう)

嘉禾五年(236年)、呉主・孫権(そん けん)は合肥(がっぴ/ごうひ)を親征したが成果を得られず帰還した。 そこで大将の陸遜(りくそん)と諸葛瑾(しょかつきん)に命じて兵を合わせ、 北上して魏の重要拠点・襄陽(じょうよう)を攻撃させた。 陸遜は江夏(こうか)方面に陣を張り、諸葛瑾と水陸両路から進撃した。 途中、陸遜が上表のために遣わした心腹の韓扁が沔水流域で魏軍の遊騎に捕らえられ、 軍中の機密が漏洩した。諸葛瑾は報せを聞いて慌て、すぐに撤退するよう進言した。 しかし陸遜はあえて平静を装い、兵士たちに野菜を植え碁を打つよう督促して、真意を隠した。 その後、陸遜と諸葛瑾は密かに方策を定めた——諸葛瑾は船を守り、 陸遜自ら大軍を率いて襄陽へ迫った。魏軍はかねてより陸遜の名を恐れており、 あわてて城内へ退いて守りを固めた。陸遜はこの機に乗じて船団のもとへ引き返し、 隊列を整えて鼓を鳴らし、悠然と船に乗り込んで撤退した。魏軍はついに追撃しようとしなかった。 この作戦で呉軍は襄陽を攻略することはできなかったが、全軍を無傷で退き、 壊滅の危機を回避した。また、陸遜が心理戦によって受動的な局面を打開した典型的な戦例ともなっている。


嘉禾五年、呉の襄陽攻撃(かわごねん、ごのじょうようこうげき)

シーン画像

嘉禾五年吴攻襄阳(236年(嘉禾五年)):涉及 陆逊、诸葛瑾、孙权、韩扁等。

登場人物: 陸遜(りくそん)、諸葛瑾(しょかつきん)、孫権(そん けん)、張梁(ちょうりょう)


地理

人物

深掘り解説

AI 分析

戦略的背景

236年の孫呉(そんご)は、「称帝後の第二の十年」という拡張への焦燥感の中にあった。孫権(そん けん)は繰り返し合肥(がっぴ/ごうひ)への北征を行ったが、ことごとく失敗に終わり、江北の土地は一寸も得られなかった。すでに皇帝を称した政権としての政治的コストは甚大だった。陸遜(りくそん)と諸葛瑾(しょかつきん)による今回の西線での襄陽(じょうよう)攻撃は、本質的に合肥を攻め続けて成果が出ない状況での戦略的な側面迂回であり、荊州(けいしゅう)方面の圧力によって魏国に兵力を分散させ、少なくとも政治的に国内外へ「孫呉は南に向いて怠けているわけではない」と示すことを意図していた。魏方の襄陽は江夏(こうか)・新城などを都督する統帥が守る要衝であり、淮南と漢中(かんちゅう)の二大戦区を結ぶ枢軸だった。このとき曹魏(そうぎ)明帝が統治し、西には諸葛亮(しょかつりょう)没後の余威があり、北には公孫淵(こうそんえん)の挑発があった。南線は失えない一方、兵力の配分も極めて限られていた。

双方の布陣

呉方は「主帥分担+水陸並進」の様式を採った。陸遜が荊州牧・上大将軍として全軍を総督し、江夏から漢水(かんすい)に沿って進み、諸葛瑾が大将軍として水軍を節制し、舟師が沔水を北上する鉗形態勢をとった。陸遜の用兵は常に「鋭気を養い重厚に持す」ことで知られ、前期の布陣では意図の隠蔽を重視し、軍内の文書のやり取りにも心腹の者を密かに使った。魏方の主帥は荊豫諸軍事を都督する胡質(こ しつ)(あるいはその前任者――史書の細部には若干の異同がある)であった。襄陽の城壁は厚く堅固であり、加えて沔水の水位が次第に低下していた。これが諸葛瑾が撤軍を建言した実際の理由であり、舟師の機動空間が枯水期の接近とともに急速に狭まったためだ。

決断の分岐点

この戦役には大規模な交戦がなく、勝敗はまったく一度の心理的駆け引きに懸かっていた。重要な節点は、陸遜が派遣した軍情の伝達者・韓扁が沔水中で魏軍の遊騎に捕捉されたことだ。これは呉軍の兵力配置・補給状況・撤退の意図がすべて敵方に知られた可能性を意味した。諸葛瑾は情報漏洩の知らせを受けてただちに早期撤退を主張する書状を送った。しかし陸遜は重要な判断を下した。敵がすでに情報を入手したとしても、必ずしも主動的に出撃しないだろう。なぜなら相手もまた陸遜の用兵の予測不可能性を恐れているからだ。そこで彼はあえて逆をいった――軍中で菽豆を栽培させ、碁を打ち弓を射る余裕のある雰囲気を演出し、撤退の意思が全くないかのように見せた。この「反向の心理戦」は二重の効果をもたらした。内部的には軍心を安定させ、諸葛瑾の舟師が圧力のもとで慌てて抜錨するのを防いだ。外部的には「陸遜には別の謀がある」というシグナルを敵方に伝え、魏軍に保守的な対応を選ばせた。その後彼は諸葛瑾と密かに協議し、「陸遜の主力が襄陽への陽動攻撃を行い、瑾の軍は先行して退く」という交代撤退案を決めた。

結果と反響

呉軍は全師退き、一兵一卒の損耗もなかった。これは屡々挫折してきた孫呉の北伐史においては稀有な戦例だ。戦術の面から見れば、陸遜は「戦わずして人の兵を屈する」という兵法の原則を撤退に適用し、本来は覆軍の禍となりかねた情報漏洩の事態を、ほぼ無損の全身退却に転化した。戦略の面から見れば、この戦いは孫呉の軍政体系における陸遜の核心的地位をさらに固め、彼はその後丞相の職を授かり、諸葛瑾と共に孫呉中後期の対魏政策を主導した。魏国にとってはこの戦いで実際の戦果はなかったが、情報捕捉後の反応の遅さと保守的傾向が露わになり、その後の曹爽(そうそう)・司馬懿(しばい)が主政する時期にはともに荊襄方面の戦備が強化された。

反事実推演

もし陸遜が諸葛瑾の建言を採用してただちに撤軍していたなら、魏軍は呉軍の退却の意図を確認した瞬間、遊騎で追撃していた可能性が高く、呉軍は沔水の枯水期前後の舟船機動で大打撃を受け、主要な将領と万余の兵員を失っていたかもしれない。逆に、陸遜が無謀にも強攻で襄陽を攻めていたなら、孫呉版の「合肥の苦境」に陥ることになっただろう。城攻めの失敗に夏期の疾病が重なり、進退窮まり、かつて呂蒙(りょもう)が荊州を奪った後に孫呉の軍隊が本土から遠く離れた作戦で疲弊した状況を再演していたかもしれない。陸遜が選んだ「陽動してから退く」は両極端の中間にある最良の解であり、この決断は後世の兵家が「撤退の芸術」を論ずる際に必ず引用される範例となっている。より巨視的な観点から見れば、この戦いの後、孫呉の魏に対する戦略的主導権は事実上守勢へと転じ、襄陽―樊城(はんじょう)の一線への攻勢はこの規模には再び達することなく、呉の滅亡まで続いた。