言語
眭

袁紹集団(えんしょうしゅうだん) · 将軍

眭固

登場回
4
台詞の記録
0
人間関係
6
内面の独白
1

史載(Historical Record)

眭固、字は白兎(『典略』に載る)c:2885、後漢末の河内太守である張楊(ちょうよう)麾下の一将である。張楊は天子が河東に流離していた折、兵を率いて安邑に至り、安国将軍・晋陽侯に封じられた。彼は一度は天子を奉じて洛陽(らくよう)へ還そうと欲したが、諸将が従わなかったため、野王へ戻った。建安元年(196年)、漢の献帝が楊奉(ようほう)・董承(とうしょう)・韓暹(かんせん)の護衛のもと旧都洛陽へ還ったとき、張楊は糧食の援助を提供し、諸将に向けて天子は天下と共にすべきであり、自分は外難を防ぎ、常に都に駐留する必要はないと述べ、その後また野王へ戻り、大司馬に拝された c:2885。

張楊は常々呂布(りょふ)と親しかった。曹操(そうそう)が呂布を下邳(かひ)に包囲攻撃したとき、張楊は救援を試みたが成功せず、ただ東市に出兵して遠く声勢を作るにとどまった c:2885。しかし、張楊の部将である楊醜(ようしゅう)は異心を抱き、張楊を殺害して曹操に降ろうとした。眭固は張楊の旧部として、すぐさま楊醜を殺し、張楊の部衆を収めた。彼は曹操への帰順を選ばず、部を率いて北上し、袁紹(えんしょう)と合流しようと試みた c:2885。

建安四年(199年)二月、曹操は昌邑から戻り、眭固の動向を知った。眭固はそのとき射犬に屯兵していた。曹操は夏四月に臨河へ進軍し、史渙(しかん)・曹仁(そうじん)を遣わして河を渡らせ眭固を攻撃させた。眭固は張楊の故長史である薛洪と河内太守の繆尚を射犬に残して守らせ、自らは主力を率いて北上し袁紹の援兵を迎えた。犬城で、眭固は史渙・曹仁の部隊と遭遇し激戦を展開した。曹軍は眭固の部を大破し、眭固を陣中で斬った c:2884。曹操はその後河を渡り、射犬を包囲攻撃した。薛洪・繆尚は大勢の去ったのを見て、衆を率いて降り、曹操に列侯に封じられた。曹操はすぐに敖倉へ凱旋し、魏種を河内太守に任じ、河北の事務を担わせた c:2884。

演義(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、眭固の像は主に張楊への忠誠と曹操との衝突をめぐって展開される。小説第十九回で、曹操が下邳の呂布を包囲攻撃したが、長らく攻め落とせなかった。このとき、にわかに知らせが届き、河内太守の張楊が東市に出兵して呂布を救援しようとしているという。しかし、張楊の部将である楊醜は彼を裏切り、彼を殺害し、張楊の首級を曹操に献じようとした。だが楊醜の企ては遂げられず、張楊の腹心の将である眭固がすぐさま楊醜を殺し、部を率いて犬城へ奔った c:2886。

曹操はこの知らせを聞くと、ただちに史渙を遣わして眭固を追撃し斬らせた。小説では、曹操は張楊がすでに死に、眭固が犬城へ奔ったことを知った後、北に袁紹、東に劉表(りゅう ひょう)・張繡(ちょうしゅう)の脅威があり、また下邳を長らく攻め落とせないことから、一度は呂布を捨てて都へ戻り、ひとまず戦事を休めようと欲した。だが荀攸(じゅん ゆう)・郭嘉(かくか)が曹操に力説し、呂布の鋭気はすでに堕ちており、勢いに乗じて攻め取ることができると指摘した。郭嘉はさらに沂水・泗水を決して城を水攻めにする計を献じ、ついに下邳を攻め落とすことに成功した c:2886。

史書の記載と比べると、『三国演義』の眭固に対する描写は比較的簡略で、主に筋立てを推し進める端役としての扱いである。小説は眭固が「張楊の腹心の将」である身分を強調し、張楊のために楊醜を殺すという、張楊への忠誠を際立たせた。だが眭固が楊醜を殺した後の具体的な意図について、小説はただ「かえって犬城へ投じ去った」と述べるのみで、史書の記載のように「北のかた袁紹に合せん」とする政治的な思惑を明確に指摘してはいない c:2886。また、小説では眭固が史渙に追って斬られる詳細も展開されず、一筆書きで通り過ぎており、曹操が史渙・曹仁を遣わして河を渡らせ攻撃させ、犬城で交戦し、固を大破して斬ったという史書の記載ほど詳しくはない c:2884。

重要な関係

* 楊醜(enemy_of):眭固と楊醜は仇敵の関係である。楊醜は張楊を裏切り殺害し、眭固は張楊のために仇を討ち、楊醜を逆に殺した c:2885。この筋立ては史料にも演義にも見られ、眭固の行動の重要な動機である。
* 袁紹集団(serves):史料では、眭固は楊醜を殺した後、明確にその衆を率いて北のかた袁紹に合そうと欲し、そのために射犬に屯兵し、北のかた袁紹を迎えて援助を求めた c:2884。これは眭固が袁紹に身を投じ、その麾下の勢力となろうとしたことを示している。しかし、演義では、眭固は楊醜を殺した後ただ「かえって犬城へ投じ去った」と述べるのみで、袁紹に身を投じる意図を明確にしていない c:2886(演義独自)。
* 張楊(serves):眭固は張楊の部将であり、しかも張楊が殺された後、張楊のために仇を討ち、張楊への忠誠を示した c:2885。演義ではさらに彼を「張楊の腹心の将」と称している c:2886。
* 曹操集団(enemy_of):眭固は楊醜を殺した後、曹操を敵とすることを選び、袁紹に身を投じようとした。曹操は史渙・曹仁を遣わして彼を討伐させ、ついに斬殺した c:2884。

象徴的な場面

* 張楊のために仇を討ち、楊醜を斬殺する:これは眭固が史料にも演義にも象徴的な一幕である。楊醜は張楊を裏切り殺害し、眭固はすぐさま張楊のために仇を討ち、楊醜を殺し、張楊の部衆を収めた。この行いは眭固の忠義と果断を示している c:2885。
* 射犬に屯兵し、北のかた袁紹を迎える:史料では、眭固は楊醜を殺した後、部を率いて射犬に屯兵し、北上して袁紹と合流しようと明確に欲した。彼は薛洪・繆尚を残して射犬を守らせ、自ら兵を率いて北のかた袁紹を迎えて救援を求めた。この場面は眭固の政治的傾向と戦略的意図を明らかにするとともに、彼と曹操の衝突を直接招いた c:2884。
* 犬城の戦い、敗れて死す:眭固は犬城で曹操が遣わした史渙・曹仁の部と遭遇し、双方は激戦を展開した。ついに眭固は敗れて斬られ、その部衆も曹操に収編された。これは眭固の人生の終点であり、曹操が河北を平定する重要な一歩でもあった。特筆すべきは、『典略』に、ある巫者が眭固に「将軍の字は兎にして此の邑は犬と名づく。兎、犬を見れば、その勢い必ず驚く。宜しく急ぎ移り去るべし」と警告したが、眭固は従わず、ついに犬城で戦死したと記され、宿命的な色彩を帯びていることである c:2885。
* 曹操が呂布を捨てんと議し、眭固の死によって転機となる:『三国演義』では、眭固が殺された知らせが、張楊の死とともに曹操の耳に入った。曹操は一度は多方からの脅威により呂布の包囲攻撃を放棄しようと考えたが、荀攸・郭嘉の諫言によって、ついに下邳を攻め続けることを決めた。眭固の死は小説において曹操の戦略的決断の一つの小さな挿話となり、間接的に曹操の呂布に対する最終的な勝利に影響を与えた c:2886(演義独自)。

人間関係

6 件の関係

登場回4 回 ▸
  • 史ch.1ch.8ch.17
  • 演ch.19
関係の年表3 条 ▸

史 ch.1

史 ch.8

演 ch.19

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私の名は眭固、字は白兔(Hakuto)である。この字と私が駐屯していた地が重なり、後世の人々は、巫者がかつて兎が犬に出会うのを戒めとして、私に急いで移るよう勧めたが、私はついに従わなかったと語った。この話は『典略』に記されている。思い返せば