
史載(Historical Record)
(史伝資料なし)
演中(In the Novel)
韓遂(かんすい)、字は文約、『三国志演義』では西涼の太守として造形され、馬騰(ばとう)と並び称され、ともに兵を挙げて李傕(りかく)・郭汜(かくし)など董卓(とう たく)の残党を討伐した。彼が初めて登場するのは第十回で、馬騰とともに十余万の大軍を率い、賊を討つと称し、長安(ちょうあん)城中の侍中の馬宇・諫議大夫の種邵・左中郎将の劉範の三人と内応を結んだ。しかし、彼らの計画は賈詡(かく)に見破られ、賈詡は李傕・郭汜に堅守して出ず、西涼軍(せいりょうぐん)の糧草が尽きて自ずと退くのを待つよう進言した。李蒙(りもう)・王方は賈詡の言を聞かず、出戦して馬超(ばちょう)に斬られた。最終的に、軍糧の欠乏と内応の発覚により、韓遂と馬騰は退兵を余儀なくされた。撤退の途上、樊稠が韓遂を追ったが、韓遂は「吾と公とは同郷の人である。今日なぜかくも無情なのか」「吾がここへ来たのもまた国家のためである。公はなぜこれほど吾を追い詰めるのか」という二言で、見事に樊稠を説き伏せて自らを見逃させた。
第五十八回において、韓遂は再び言及され、このとき曹操(そうそう)は馬超を招降しようとして、韓遂に書を送り、もし馬超を捕らえることができれば、韓遂を西涼侯に封じると約した。馬超はこのことを知ると、偽って地に拝伏し、韓遂に自分たち兄弟二人を縛って許昌(きょしょう)に送るよう請うた。だが韓遂は馬超を扶け起こし、自分は馬超の父である馬騰と兄弟の契りを結んだ仲であり、害を加えるに忍びないと述べ、もし馬超が兵を興すなら、自分は全力で助けると約した。続いて、韓遂は曹操の使者を斬り、手下の八部将――侯選(こうせん)・程銀(ていぎん)・李堪・張横(ちょうおう)・梁興(りょうこう)・成宜・馬玩(ばがん)・楊秋(ようしゅう)を点呼し、馬超の手下の龐徳(ほうとく)・馬岱(ばたい)とともに二十万の大軍を起こし、長安へ攻め寄せた。
曹操との対峙において、韓遂と馬超は戦術上の食い違いがあった。曹操が渡河しようとした際、馬超は北岸を拒んで曹操に渡河させず、曹操は糧が尽きて自ずと乱れると考えた。一方、韓遂は「兵が半ば渡ったところを撃つべし」という策を提起し、曹操の軍が河を半ば渡ったところで南岸から攻撃するよう進言した。馬超は韓遂の進言を採用したものの、最終的に成功しなかった。続く戦闘で、韓遂は龐徳とともに五万の兵馬を率いて曹軍と交戦し、龐徳は陥馬坑の中から韓遂を救い出し、曹仁(そうじん)の部将である曹永(そうえい)を斬った。
しかし、韓遂と馬超の関係は最終的に破綻へ向かった。曹操は離間の計を用い、陣前で韓遂と「世間話をし」、曹洪(そうこう)にわざと韓遂に「昨夜、丞相が将軍にお伝えするよう申された言、くれぐれもお間違えなきよう」と言わせ、馬超に韓遂が裏切る心を抱いていると疑わせた。韓遂は弁明しようとしたが、馬超はもはや彼を信じなかった。最終的に、楊秋などの勧めにより、韓遂は密書をしたため、楊秋を遣わして曹操に降り、馬超を裏切った。
重要な関係
* 麴演(enemy_of):演義では、韓遂は馬騰とともに兵を挙げ、李傕・郭汜など董卓の残党を討伐しようとしており、麴演(すなわち李傕)はその主たる敵である。
* 西涼軍(lord_of):韓遂は西涼の太守であり、西涼の軍を統率し、馬騰と手を組んだ際には、十余万の大軍を擁した。
* 馬超(oath_brother):韓遂は馬超の父である馬騰と兄弟の契りを結んだため、馬超とは叔父・甥の誼があり、初期はともに兵を挙げて曹操に対抗したが、最終的に曹操の離間の計によって反目した。
* 龐徳(commands_in):龐徳は馬超の手下の重要な将であるが、曹操との渭南の戦い(いなんのたたかい)において、韓遂はかつて龐徳を先鋒として、自らに従って出戦させ、危急の時に龐徳に韓遂を救い出させた,。
* 樊稠(同郷の情):韓遂の退兵の際、樊稠が追ってきたが、韓遂は同郷の情と国家のための大義をもって樊稠を説き伏せ、自らを見逃させ、韓遂の弁舌と樊稠の郷情を体現した(演義独自)。
* 曹操(政治的対手/最終的に降伏):韓遂は早期に馬超とともに曹操に対抗したが、曹操の離間の計のもと、最終的に曹操に降ることを選んだ。
象徴的場面
* 樊稠を説き退ける:馬騰とともに李傕・郭汜を討伐して失敗した後、韓遂は撤退の途上で樊稠に追いつかれた。韓遂は「吾と公とは同郷の人である。今日なぜかくも無情なのか」「吾がここへ来たのもまた国家のためである。公はなぜこれほど吾を追い詰めるのか」という二言によって、見事に樊稠を動かし、馬首を返して兵を収めて寨に帰らせ、韓遂を立ち去らせた。この場面は韓遂の弁舌と人情の機微への洞察を示すと同時に、樊稠の郷情をも際立たせている(演義独自)。
* 馬超とともに大軍を起こす:曹操が書を送って韓遂と馬超を離間させた後、韓遂は表向き馬超を捕らえるふりをしながら、実は馬超と盟を結び、曹操の使者を斬った。彼は手下の八部将を点呼し、馬超の軍と合わせて二十万の兵をもって、ともに長安へ攻め寄せた。この場面は韓遂の初期における馬超との緊密な協力と、一方の諸侯としての実力を描き出している(演義独自)。
* 渭南の戦いにおける戦術の食い違い:渭河で曹操と対峙した際、馬超と韓遂は戦術上の食い違いを生じた。馬超は北岸の拒守を主張し、韓遂は「兵が半ば渡ったところを撃つべし」という策を提起した。最終的に韓遂の進言が採用されたが、成功せず、これは二人の軍事的判断の差異を反映している(演義独自)。
* 曹操の離間の計にかかる:曹操は離間の計を用い、陣前で韓遂と「世間話をし」、曹洪にわざと韓遂と曹操が私下で結託していることをほのめかす言葉を言わせ、馬超に韓遂への疑いを抱かせた。この場面は韓遂と馬超の関係が破綻する重要な転換点であり、最終的に韓遂を曹操への投降へと導き、曹操の卓越した謀略をも体現している。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 韓遂(かんすい)は老成して思慮深いが、動揺しやすかった [c:4]。同郷のよしみゆえに軍令を破ることがあり、かつて「同郷の人である」「国家のためである」という二言によって樊稠のもとから逃れ出た [c:3]。曹操(そうそう)はかつて彼を「取るに足らぬ小人、語るに足りぬ」と評した [c:2]。
- 生涯
- 韓遂はかつて馬騰(ばとう)とともに降り、鎮西将軍を授けられて涼州(りょうしゅう)へ送り返された [c:5]。建安十六年、馬超(ばちょう)らとともに反乱を起こしたが、曹操が征討してこれを破り、韓遂は金城へ逃れ、ついに配下の将に殺された [c:5]。建安二十年、麴演・蔣石に斬られ、その首級を献上された [c:6]。
- 逸話
- 韓遂は金城の反乱の首魁であり、後に関中・涼州を占拠し、長きにわたって馬超とともに抵抗した [c:6]。かつて涼州と関中地方で最も強大な軍閥の一人であり、涼州の反乱者として辺章と同党であった [c:7, c:9, c:10, c:18]。韓遂は馬騰と異姓の兄弟の契りを結んだが、後には仇敵となり、しかしついにはまた馬超と結んで曹操に反旗を翻した [c:17]。かつて西涼連合軍の副帥であり、また馬超の叔父の世代にあたる [c:27]。
人間関係
17 件の関係
名言
全 8 件の台詞 · 厳選 3 件
「吾與汝父結為兄弟,安忍害汝?汝若興兵,吾當相助。」
この一句は韓遂と馬超の父の代の義兄弟の関係を示し、その人物関係の核心である。
「不必如此。豈不聞兵法有云:『兵半渡可擊。』待操兵渡至一半,汝卻於南岸擊之,操兵皆死於河內矣。」
この計略は韓遂の軍事的謀略を体現し、兵法「半渡にして撃つ」の典型的な運用をも反映している。
「吾聞曹操選極壯之人,為帳前侍衛,名曰『虎衛軍』,以驍將典韋、許褚領之。典韋已死,今救曹操者,必許褚也。此人勇力過人,人皆稱為『虎痴』;如遇之,不可輕敵。」
この一句は典韋・許褚および「虎痴」の故事に言及しており、文化的認知度が高い。
登場回10 回 ▸
- 史ch.1ch.6ch.13ch.17ch.36
- 演ch.10ch.23ch.57ch.58ch.59
関係の年表3 条 ▸
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は韓遂(かんすい)、字は文約(ぶんやく)である。かつて馬騰(ばとう)とともに密勅を受け、兵を合わせて長安(ちょうあん)へ向かった。名目は賊を討つことだったが、心にあったのは終始、国家と社稷のことだった。関中の道は険しく遠く、軍中の兵糧も当
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