言語
文

袁紹集団(えんしょうしゅうだん) · 将军

文醜(ぶんしゅう)

登場回
7
台詞の記録
2
人間関係
7
内面の独白
1

史載(Historical Record)

文醜(ぶんしゅう)は、袁紹(えんしょう)配下の重要な将領の一人であるが、その生涯は正史にはあまり記されておらず、主に袁紹と曹操(そうそう)が覇を争った時期の軍事活動に集中している。『三国志(さんごくし)』の記載によれば、文醜は顔良(がんりょう)とともに袁紹軍の主将であり、袁紹に股肱と頼まれていた。袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を撃ち破ってその軍勢を併呑した後、勢力を大いに増し、数十万の兵を擁して、南下して曹操を攻めることを決意した。この軍事行動において、袁紹は審配(しんぱい)・逢紀(ほうき)に軍事を統べさせ、田豊(でんほう)・荀諶・許攸(きょゆう)を謀主とし、顔良・文醜を明確に将率として列した c:5479。これは文醜が袁紹集団において相当に高い軍事的地位を有し、袁紹が頼みとした大将の一人であったことを示している。史料には文醜の出自の背景、初期の経歴、具体的な戦功については詳しく記されておらず、その人物像は主に袁紹の軍事力の中核としての身分を通じて示されている。しかし、正史における文醜の結末についても明確な記載はなく、これは演義の詳細な描写と対照をなしている。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、文醜の人物像はより豊かで勇猛に描かれ、袁紹配下の猛将の一人であり、顔良とともに「河北の双雄」と並び称される。彼が初めて登場するのは、諸侯が董卓(とう たく)を討伐したときで、袁紹が孫堅(そん けん)と伝国の玉璽をめぐって争いを起こした際、文醜は顔良とともに剣を抜き、袁紹を助けて孫堅に対抗しようとした c:2026。続いて袁紹が冀州(きしゅう)を奪取する過程で、文醜は再びその武勇を発揮し、顔良とともに袁紹を暗殺しようとした耿武と關純を斬り殺し c:2027、袁紹が滞りなく冀州の主となるのに功を立てた。袁紹と公孫瓚の交戦においては、文醜はさらにその才を大いに発揮し、かつて公孫瓚と十数合交えてこれを撃ち破り、一路追撃した。追撃の過程で、文醜は若き趙雲(ちょううん)と激しい戦いを繰り広げ、二人は五、六十合戦って勝敗がつかず、その並外れた武芸を示した c:2028。

文醜が演義で最もよく知られているのは、官渡の戦い(かんとのたたかい)の前期における活躍に他ならない。顔良が関羽(かんう)に斬られた後、文醜は自ら顔良の仇を討つことを願い出て、袁紹の許可を得て、大軍を率いて黄河を渡り曹操を追撃した c:5481。この行動において、劉備(りゅうび)はかつて文醜とともに行くことを求めたが、文醜は劉備を軽んじ、彼に三万の兵を後部として分け与えただけで、自らは七万の大軍を率いて先行した c:10983。最終的に、文醜は曹操軍との交戦の中で関羽に討たれた。演義はこれらの場面を通じて、文醜を勇猛だが時に敵を軽んじる傾向のある将領として描き出し、その結末もまた関羽の武聖たる人物像に光彩を添えている。

重要な関係

* 袁紹集団(えんしょうしゅうだん)(general):文醜は袁紹配下の重要な将領であり、顔良と並んで、ともに袁紹の軍事力の中核を構成した。史料でも演義でも、彼は袁紹に忠誠を尽くし、その戦場で征戦した c:5479。
* 袁紹(えんしょう)(commands_in):文醜は直接袁紹の命に従い、袁紹が頼みとした大将であった。袁紹は曹操を攻めることを決めた際、明確に文醜を将率として列した c:5479。演義においても、文醜は幾度も命を受けて出征し、袁紹のために尽くした。
* 公孫瓚(こうそんさん)(enemy_of):演義において、文醜はかつて公孫瓚と幾度も交戦し、これを撃ち破った c:2028。これは文醜が演義でその武勇を示す重要な一環であるが、史料には詳しく記されていない。
* 顔良(がんりょう)(oath_brother):演義において、文醜と顔良は兄弟のように親しく、顔良が討たれた後、文醜はその仇を討つことを誓った c:2029(演義独自)。この関係は正史には明確に記されておらず、演義が人物の情感を描き、筋立てを推し進めるために設定したものである。

象徴的な場面

* 顔良とともに剣を抜いて孫堅を威嚇する:諸侯が董卓を討伐した期間、孫堅は伝国の玉璽の件で袁紹と争いを起こした。文醜は顔良とともに剣を抜き、袁紹を助けようとして、その勇猛さと主君への忠誠を示した c:2026(演義独自)。
* 耿武・關純を斬り、袁紹の冀州入りを助ける:袁紹が冀州の主となる際、耿武・關純は袁紹を暗殺しようとしたが、文醜は顔良とともに出撃して二人を斬り殺し、袁紹のために障害を取り除いた c:2027(演義独自)。
* 趙雲との激戦、公孫瓚を撃破:袁紹と公孫瓚の戦いにおいて、文醜はかつて公孫瓚を撃ち破り、追撃の過程で少年の趙雲と五、六十合戦って勝敗がつかず、その卓越した武芸を示した c:2028(演義独自)。
* 仇討ちを願い出て、軍を率いて曹操を追撃:顔良が討たれた後、文醜は自ら顔良の仇を討つことを願い出て、大軍を率いて曹操を追撃した。この行動は彼の義侠と勇猛さを示したが、同時に彼の悲劇的な結末への伏線ともなった c:5481(演義独自)。
* 劉備を軽んじ、後部に兵を分ける:文醜は命を受けて曹操を追撃する際、同行を求めた劉備に軽蔑の態度を示し、彼に三万の兵を後部として分け与えただけで、自らは主力を率いて先行した c:10983(演義独自)。この場面は文醜の自負を際立たせるとともに、間接的に劉備の後の台頭への伏線ともなった。

人間関係

7 件の関係

台詞

  • 演 ch.26 §1→ 袁紹(えんしょう)

    「顏良與我如兄弟,今被曹賊所殺,我安得不雪其恨?」

  • 演 ch.26 §3→ 袁紹(えんしょう)

    「劉玄德屢敗之將,於軍不利。既主公要他去時,某分三萬軍,教他為後部。」

登場回7 回 ▸
  • 史ch.6ch.17
  • 演ch.6ch.7ch.22ch.26ch.50
関係の年表4 条 ▸

演 ch.6

演 ch.7

演 ch.26

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 我は文醜(ぶんしゅう)、字は不詳。この時、前方には黄河があり、軍旗が野を覆っていた。主君は我に兵を率いて南へ渡り、曹操(そうそう)を追撃して、顔良(がんりょう)の仇を討つよう命じた。帳中ではつい先ほどまで、沮授(そじゅ)が進言し、延津に留ま
生涯の大事2 ▸