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龐徳(ほうとく)

五斗米道(ごとべいどう) · 将軍

龐徳(ほうとく)

字 令明

登場回
12
台詞の記録
27
人間関係
29
内面の独白
3

史載(Historical Record)

龐徳(ほうとく)、字は令明、南安狟道の人である。彼は少年の頃よりすでに郡で職に就き、後に州従事に転じた。初平年間、彼は馬騰(ばとう)に従って反叛した羌族・氐族を征討し、しばしば戦功を立て、次第に校尉に昇遷した。建安年間、曹操(そうそう)が袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)を討伐したとき、袁譚(えんたん)は郭援(かくえん)・高幹(こうかん)らを遣わして河東を侵擾させた。曹操(そうそう)は鍾繇(しょうよう)に関中の諸将を率いて討伐するよう命じ、龐徳(ほうとく)は馬騰(ばとう)の子・馬超(ばちょう)に従って平陽(へいよう)で郭援(かくえん)・高幹(こうかん)を防いだ。龐徳(ほうとく)は軍鋒を務め、敵陣に突撃し、大いに敵軍を破り、自ら郭援(かくえん)の首級を斬った c:1549。

この後、弘農地方で張白騎が叛乱を起こすと、龐徳(ほうとく)はまた馬騰(ばとう)に従って征討に赴き、両殽の間で張白騎を撃ち破った。毎度の戦闘において、龐徳(ほうとく)は身をもって士に先んじ、敵陣に突撃し、その勇猛は馬騰(ばとう)軍中に並ぶ者がなかった c:1549。後に馬騰(ばとう)が衛尉に徴召されると、龐徳(ほうとく)は馬超(ばちょう)の麾下に留まった。曹操(そうそう)が渭南で馬超(ばちょう)を破った後、龐徳(ほうとく)は馬超(ばちょう)に従って漢陽に逃げ入り、冀城(きじょう)を固守した。その後さらに馬超(ばちょう)に従って漢中(かんちゅう)に投じ、張魯(ちょうろ)に帰附した。曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を平定すると、龐徳(ほうとく)は衆人と共に降った。曹操(そうそう)はかねてより龐徳(ほうとく)の驍勇善戦を聞いていたので、彼を立義将軍に任じ、関門亭侯に封じ、食邑三百戸とした c:1549。

建安二十四年、侯音(こうおん)・衛開が宛城(えんじょう)で叛乱を起こすと、龐徳(ほうとく)は部を率いて曹仁(そうじん)と共に宛城(えんじょう)を攻略し、侯音(こうおん)・衛開を斬り、続いて南下して樊城(はんじょう)に駐屯し、関羽(かんう)を討つ準備をした。当時、樊城(はんじょう)の諸将は龐徳(ほうとく)の兄が漢中(かんちゅう)にいるため、彼に疑念を抱いた。龐徳(ほうとく)はこれに対しこう表した。「我は国家の恩を蒙り、義として死をもって忠を尽くすべし。我は自ら関羽(かんう)と戦わんと欲す。今年もし彼を殺せねば、彼が必ず我を殺さん」。後に彼は自ら関羽(かんう)と交戦し、一矢で関羽(かんう)の前額を射当てた。龐徳(ほうとく)は常に白馬(はくば)に騎っていたため、関羽(かんう)の軍中は彼を「白馬将軍」と称し、彼を頗る忌み憚った。曹仁(そうじん)は龐徳(ほうとく)を樊城(はんじょう)の北十里のところに駐屯させた。折しも秋に大雨が十余日連綿と続き、漢水(かんすい)が暴漲し、平地でも水深数丈に達した。龐徳(ほうとく)と諸将は高い堤に登って水を避けた。関羽(かんう)は大船に乗って攻めて来て、四面から堤上に矢を放った。龐徳(ほうとく)は鎧を身に纏い、弓矢を手にし、矢に虚発がなかった。将領の董衡、部曲将の董超らが投降しようとしたが、龐徳(ほうとく)は彼らをすべて斬り取った。彼は早朝から午後まで力戦し、関羽(かんう)の攻勢はいよいよ急となり、矢が尽きると、短兵相接するに転じた。龐徳(ほうとく)は督将の成何に言った。「我は聞く、良将は死を怖れて苟くも生を偸まず、烈士は生を求めて節を毀たずと。今日こそ我が死すべき日なり」。戦闘はいよいよ激しく、士気はいよいよ高まったが、水勢はますます大きくなり、吏士は次々と投降した。龐徳(ほうとく)は麾下の将一人、五伯二人と共に、弓を弯き矢を搭え、小船に乗って曹仁(そうじん)の大営へ戻ろうと試みた。しかし水勢は湍急で、小船は転覆し、弓矢はことごとく失われ、龐徳(ほうとく)はただ一人船を抱えて水中に漂い、最終的に関羽(かんう)に捕らえられた。彼は立ったまま跪かず、関羽(かんう)が彼に問うた。「お前の兄は漢中(かんちゅう)にいる。私は本来お前を将としようと思っていた。なぜ早く投降しなかったのか」。龐徳(ほうとく)は関羽(かんう)を怒り罵った。「竪子よ、何を投降と謂うか。魏王は帯甲百万、威は天下を震わす。お前の劉備(りゅうび)は庸才にすぎぬ、豈に匹敵し得んや。我は寧ろ国家の鬼とならんとも、賊将とはならじ」。かくて関羽(かんう)に殺された c:1554。曹操(そうそう)はこれを聞いて涙を流し、その二子を列侯に追封した c:1554。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、龐徳(ほうとく)の姿はさらに造形・強化されており、とりわけその忠義と勇猛の面で顕著である。彼の初登場は馬超(ばちょう)が「身は雪地に臥し、群虎来たりて咬む」夢を見た後であり、龐徳(ほうとく)はこれを不祥の兆と解き、馬騰(ばとう)が許昌(きょしょう)で事ある前兆だと予示した c:10292。続いて馬岱(ばたい)が馬騰(ばとう)が曹操(そうそう)に殺害された知らせをもたらすと、龐徳(ほうとく)は馬超(ばちょう)に従って兵を起こし復讐した。長安(ちょうあん)を攻める際、龐徳(ほうとく)は計を献じ、長安(ちょうあん)城中の「土は硬く水は鹹く、甚だ食らうに堪えず」という弱点を利用し、退兵を装って守将の鍾進を城外へ誘い出し、その隙に乗じて長安(ちょうあん)に攻め入り、鍾進を斬り、馬超(ばちょう)の城奪取を助けた c:1557。

渭南の戦い(いなんのたたかい)において、龐徳(ほうとく)は再びその勇猛を示した。彼は鉄騎を率いて突撃し、曹操(そうそう)の設けた陥馬坑に落ちたが、「身を踊らせ一跳し、土坑を跳び出て、平地に立ち、立ちどころに数人を殺し、歩行して重囲を斬り出る」ことができた c:1558。彼はまた囲まれた韓遂(かんすい)を救い出し、曹永(そうえい)の戦馬を奪い、血路を斬り開いた。曹操(そうそう)の営を夜襲する際、龐徳(ほうとく)は馬岱(ばたい)と共に後詰となり、馬超(ばちょう)の行動に呼応した c:1558。

龐徳(ほうとく)が曹操(そうそう)に投降する筋も演義では異なっている。『演義』では、龐徳(ほうとく)は張魯(ちょうろ)の手下の大将であり、馬超(ばちょう)の入川の際に病に臥して従わなかった。曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を攻める時、閻圃が張魯(ちょうろ)に龐徳(ほうとく)を推薦した。龐徳(ほうとく)が出戦すると、曹操(そうそう)は許褚(きょちょ)に偽りの敗走をさせ、龐徳(ほうとく)を誘って追わせ、然る後に陥穽を設けて彼を生擒した。曹操(そうそう)は自ら龐徳(ほうとく)の縛を解き、龐徳(ほうとく)は張魯(ちょうろ)の不仁を感じ、ついに曹操(そうそう)に降った c:5242。この後、龐徳(ほうとく)は合肥の戦い(ごうひのたたかい)で孫権(そん けん)の部将・陳武(ちんぶ)を斬り c:1562、斜谷の戦いで魏延(ぎえん)に射傷された曹操(そうそう)を救い c:1563、曹操(そうそう)陣営におけるその地位をさらに固めた。

樊城(はんじょう)の戦いは演義における龐徳(ほうとく)の見せ場である。曹操(そうそう)が于禁(うきん)を遣わして樊城(はんじょう)の囲みを解こうとした際、龐徳(ほうとく)は自ら先鋒を願い出て、曹操(そうそう)の賞賛を得た c:10297。しかし、董衡、董超らは龐徳(ほうとく)を疑い、その兄・龐柔(ほうじゅう)が蜀におり、馬超(ばちょう)もまた蜀にいるため、その不忠を恐れた。于禁(うきん)もこのため曹操(そうそう)に進言した。龐徳(ほうとく)はこれを聞き、冠を脱いで頓首し、血が顔を満たすほどで、自らは兄と恩を断ち義を絶ち、馬超(ばちょう)とは各々その主に事え、死をもって魏王に報いることを誓うと表した c:1565。決意を示すため、龐徳(ほうとく)はさらに人に命じて木櫬を造らせ、「我もし彼を殺すこと能わずば、必ず彼に殺されん。即し彼に殺されずとも、我もまた当に自殺すべし。故に先ずこの櫬を備え、以て空しく回るの理なきを示す」と誓った c:10300。彼は関平(かんぺい)と三十合交戦して勝負つかず、後にまた関羽(かんう)と百余合大戦して勝負つかず、両軍の将士を「見惚れて呆然とさせる」ほどであった c:10306。水中において、彼は董衡、董超を斬って軍心を正し、最後まで力戦したが、最終的に周倉(しゅうそう)に生擒された c:10312。捕らえられた後、龐徳(ほうとく)は死すとも降らず、関羽(かんう)を怒り罵り、最終的に首を伸べて刑を受けた c:10315。演義において、曹操(そうそう)は于禁(うきん)の投降と龐徳(ほうとく)の斬られたことを知った後、「于禁は孤に従うこと三十年、何ぞ期せん危に臨んで反って龐徳に如かざらんとは」と嘆じ c:1568、再び龐徳(ほうとく)の忠烈を際立たせた。

重要な関係

* 馬騰(ばとう):龐徳(ほうとく)は早年に馬騰(ばとう)に従い、その麾下の校尉として、しばしば戦功を立て、勇は三軍に冠たるものであった c:1549。演義においても、彼は馬騰(ばとう)の腹心の将領であり、馬騰(ばとう)が殺害された後、馬超(ばちょう)に従って兵を起こし復讐した c:10292。
* 西涼軍(せいりょうぐん):龐徳(ほうとく)は西涼軍(せいりょうぐん)の重要な将領であり、馬超(ばちょう)の麾下にあった時、常に敵陣に突入して敵を退け、勇猛人に過ぎた c:1549。
* 郭援(かくえん):龐徳(ほうとく)は平陽(へいよう)の戦いで軍鋒を務め、郭援(かくえん)・高幹(こうかん)の連合軍を大いに破り、自ら郭援(かくえん)を斬って大功を立てた c:1549。
* 曹操(そうそう):龐徳(ほうとく)は曹操(そうそう)に降った後、深く曹操(そうそう)に器重され、立義将軍に拝された。曹操(そうそう)はその忠勇を深く賞嘆し、その死を知った後には涙を流し、于禁(うきん)が龐徳(ほうとく)に及ばぬと嘆じさえした c:1554。演義では、曹操(そうそう)はさらにたびたび龐徳(ほうとく)を称賛し、その忠誠を深く信じて疑わなかった c:10300。
* 関羽(かんう):龐徳(ほうとく)と関羽(かんう)は樊城(はんじょう)の戦いにおける主な対手である。史載では龐徳(ほうとく)は関羽(かんう)と交戦し、関羽(かんう)の前額を射当て、関羽(かんう)の軍に「白馬将軍」と称された c:1554。演義では、両者はさらに数度の見事な一騎打ちを繰り広げ、百余合勝負つかず、龐徳(ほうとく)の武芸の高さを示した c:10306。最終的に龐徳(ほうとく)は関羽(かんう)に捕らえ殺されたが、その死すとも屈せぬ忠烈の気節もこれによって彰されたのである c:1554。
* 于禁(うきん):樊城(はんじょう)の戦いにおいて、于禁(うきん)は主将、龐徳(ほうとく)は先鋒であった。史載では于禁(うきん)は水淹七軍(すいえんしちぐん)の後に投降したが、龐徳(ほうとく)は死すとも屈しなかった c:1548。演義では、于禁(うきん)は龐徳(ほうとく)に対し猜疑が多く、龐徳(ほうとく)が関羽(かんう)を射当てた後に鉦を鳴らして兵を収め、龐徳(ほうとく)が功を立てるのを阻み、最終的に七軍の覆滅を招いた c:10309。
* 董衡、董超:史載では二人は龐徳(ほうとく)の部将であり、水淹七軍(すいえんしちぐん)の際に投降しようとして、龐徳(ほうとく)に斬られて軍法を正された c:1554。演義では、二人もまた龐徳(ほうとく)に投降を勧めたため、彼に自ら斬られた c:10312。
* 龐柔(ほうじゅう)(演義独自):演義における龐徳(ほうとく)の兄であり、蜀漢(しょくかん)で官を務めた。これが于禁(うきん)や董衡らが龐徳(ほうとく)の忠誠を疑った理由である c:5244。龐徳(ほうとく)は兄と恩を断ち義を絶ったと称し、忠心を示した c:1565。
* 周倉(しゅうそう)(演義独自):演義において、周倉(しゅうそう)は水淹七軍(すいえんしちぐん)の後、水性に熟達していることにより、水に落ちた龐徳(ほうとく)を生擒した c:10312。

象徴的な場面

* 郭援(かくえん)を斬って威を立てる:龐徳(ほうとく)は平陽(へいよう)の戦いで軍鋒を務め、勇猛に陣に突入し、自ら郭援(かくえん)の首級を斬り、一戦にして名を成し、その人に過ぎた武勇を示した c:1549。
* 白馬将軍:樊城(はんじょう)の戦いにおいて、龐徳(ほうとく)は常に白馬(はくば)に騎って関羽(かんう)と交戦し、関羽(かんう)の前額を射当て、関羽(かんう)の軍に「白馬将軍」と称され、頗る忌み憚られた c:1554。
* 水淹七軍(すいえんしちぐん)、死すとも屈せず:樊城(はんじょう)の戦いにおいて、漢水(かんすい)が暴漲し、曹軍は水没した。龐徳(ほうとく)は絶境の中で投降しようとした部将を斬り、最後まで力戦し、捕らえられた後もなお関羽(かんう)を怒り罵り、死すとも降らず、最終的に殺され、その忠烈の気節は百世に流芳した c:1554。この場面は演義においていっそう悲壮で慷慨に描かれている c:10312。
* 櫬を抬げて出征する(演義独自):龐徳(ほうとく)は樊城(はんじょう)の戦いの前、忠心と必死の決意を表すため、人に木櫬を造らせて抬げて出征し、関羽(かんう)を殺せねば自殺すると誓い、この挙は三軍を震撼させ、その忠勇な姿の象徴となった c:10300。
* 関羽(かんう)と百合大戦する(演義独自):演義において、龐徳(ほうとく)は関羽(かんう)とたびたび一騎打ちをし、そのうち一度は百余合大戦して勝負つかず、龐徳(ほうとく)が関羽(かんう)と匹敵する武力を示すとともに、樊城(はんじょう)の戦いに劇的性を添えた c:10306。
* 曹操(そうそう)を救い脱せしめる(演義独自):斜谷の戦いにおいて、曹操(そうそう)が魏延(ぎえん)に射傷されて落馬した危急の折、龐徳(ほうとく)が身を挺して進み出て、魏延(ぎえん)を撃退し、曹操(そうそう)を救護して脱せしめ、その曹操(そうそう)の心中における地位をさらに固めた c:1563。
* 陳武(ちんぶ)を斬る(演義独自):合肥の戦い(ごうひのたたかい)において、龐徳(ほうとく)は孫権(そん けん)の部将・陳武(ちんぶ)を斬り、曹魏(そうぎ)陣営におけるその戦功を示した c:1562。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
龐徳(ほうとく)は青い袍に銀の鎧をまとい、白馬(はくば)に乗り、手には鋼の刀を持ち、彫弓と冷箭を巧みに用いた。
性格
龐徳(ほうとく)は勇は諸軍に冠たり、陣を陥れ敵を退け、死を畏れず、忠節にして、「良将は死を怯れて苟くも免れんとはせず、烈士は節を毀ちて生を求めず」と自ら誓った。彼は智に富み決断に長け、忠勇にして死を決し、節を屈しなかった。
話し方
龐徳(ほうとく)の言葉は慷慨明快で、短く力強く豪壮であり、決まって「吾は魏王の厚恩を受く」と切り出し、決死の誓いで結んだ。たとえば「今年、我が羽を殺さずんば、羽まさに我を殺さん」「我はむしろ国家の鬼と為るとも、賊の将とは為らじ」などである。
生涯
龐徳(ほうとく)は若くして郡の吏となり、初平年間に馬騰(ばとう)に従って反乱を起こした羌や氐を討ち、後に馬超(ばちょう)に従って郭援(かくえん)・高幹(こうかん)を防ぎ、郭援の首級を斬った。馬騰が衛尉に召された後、龐徳は馬超に属したまま留まり、後に馬超に従って張魯(ちょうろ)に身を投じ、最終的に曹操(そうそう)に降り、立義将軍に拝せられ関門亭侯に封じられた。彼はかつて曹仁(そうじん)とともに宛を攻めて侯音(こうおん)を斬り、後に樊城(はんじょう)で関羽(かんう)を討ったが、矢に当たって水に落ちて捕らえられ、屈服しなかったため関羽に殺された。
武器
龐徳(ほうとく)が用いた兵器には、弓矢、短兵、宝刀、鋼刀、そして彫弓と冷箭がある。
逸話
龐徳(ほうとく)の子龐會は勇烈にして父の風があり、官は中尉将軍に至り、列侯に封じられた。彼はかつて棺を担いで出陣し決死の戦いに臨み、捕らえられた後も「眉を怒らせ目を見開き、立ったまま跪かなかった」。文帝はかつて人にその憤怒の姿を描かせた。

人間関係

29 件の関係

名言

全 27 件の台詞 · 厳選 3 件

「吾受魏王厚恩,誓以死報。今去樊城,與關某決戰,我若不能殺彼,必為彼所殺;即不為彼所殺,我亦當自殺:故先備此櫬,以示無空回之理。」

演 第74回

この一言の「棺を担いで死を決す」の故事は、龐徳(ほうとく)の忠烈を示しており、広く伝わっている。

「吾奉魏王旨,特來取汝首!恐汝不信,備櫬在此。汝若怕死,早下馬受降!」

演 第74回→ 関羽(かんう)

この一言は、龐徳(ほうとく)が棺を担いで関羽(かんう)と戦う名場面であり、その忠勇の姿を造形している。

「吾寧死於刀下,豈降汝耶!」

演 第74回→ 関羽(かんう)

この一言は、龐徳(ほうとく)の死を選んでも降らぬ忠義の気概を示しており、その人物の核心をなす特質である。

登場回12 回 ▸
  • 史ch.17ch.18ch.36
  • 演ch.58ch.59ch.65ch.67ch.68ch.72ch.73ch.74ch.75
関係の年表22 条 ▸

史 ch.17

史 ch.18

演 ch.58

演 ch.59

演 ch.65

演 ch.67

演 ch.68

  • fights_in

    谷口树林中交战,陈武被树枝抓袖不能迎敌,为庞德所杀

演 ch.72

演 ch.74

  • defected_from

    原系马超手下副将;今故主在蜀,各事其主,旧义已绝

  • kin_of

    兄;庞德乘醉杀嫂,兄恨德入骨髓,誓不相见,恩已断

  • serves

    自汉中投降以来感厚恩;曹操扶起抚慰称「孤亦必不负卿」

  • rival_of

    决死战之敌;五合、百余合、五十余合三战不分胜负,末以拖刀计射中关公左臂

  • betrayed_by

    名为同事,实妬其功——见德射中关公急鸣金收军;移军屯断大路使德不能成功

演 ch.75

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 水の音は今もなお耳元に響いているようだ。十日余り雨が降り続き、漢水(かんすい)は激しく増水し、平地はことごとく洪水に呑まれた。私は諸将とともに水を避けて堤に上ったが、甲冑は重く、四方からは関羽(かんう)の軍勢が船で迫ってきた。私はいつも白馬
  • 私は龐徳(ほうとく)、字は令明、南安郡狟道県の人である。若い頃は郡の役人や州の従事を務め、その後、馬騰(ばとう)に従って各地を転戦し、羌族や氐族を平定して、たびたび功を立てた。戦場では、しばしば敵陣に切り込んで敵を退けた。平陽(へいよう)で
  • 我が名は龐徳(ほうとく)、字は令明(れいめい)である。若い頃の家柄や故郷、初めて従軍した年月については、今ある記録に詳しい記述がない。ゆえに、根拠なく話を付け加えることはできない。ただ、後に馬超(ばちょう)に従って各地を転戦し、西涼の兵の中
生涯の大事5 ▸