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五路の蜀征討(ごろのしょくせいとう)

0223-01-01 · 成都(せいと)

『三国(さんごく)演義』第八十五・八十六回の記載によれば、蜀漢(しょくかん)の章武三年(223)、劉備(りゅうび)が 白帝城(はくていじょう)で病没した後、魏主の曹丕(そうひ)は蜀中に主なきの機に乗じて蜀を伐とうとし、司馬懿(しばい)は「五路並進」の策を献じた。 すなわち遼東の鮮卑・軻比能(かびのう)に西平関を出させ、南蛮の孟獲(もうかく)に益州(えきしゅう)四郡を攻めさせ、東呉の孫権(そん けん)に涪城(ふうじょう)を取らせ、降将の 孟達(もうたつ)に上庸(じょうよう)を出て漢中(かんちゅう)を攻めさせ、さらに曹真(そうしん)を大都督として陽平関(ようへいかん)から蜀に入らせ、合わせて五十万の兵で四方から挟撃する策であった [c:16132]。諸葛亮(しょかつりょう)は丞相の身でありながら従容として手配し、馬超(ばちょう)・魏延(ぎえん)・趙雲(ちょううん)らを分け遣わして各路の 要害を扼守させ、また使者を遣わして呉と結び第三路を解消した [c:16134]。その結果、西番は馬超を見て戦わずして退き、孟獲は 疑兵の計で追い返され、孟達は途中で病と称し、曹真は斜谷で阻まれ、孫権は陸遜(りくそん)の進言により兵を動かさず様子をうかがい、 五路の大軍は相次いで瓦解し、蜀漢は建国当初の最大の軍事的危機を乗り越えた [c:16134]。


五路の蜀征討(ごろのしょくせいとう)

シーン画像

五路伐蜀(223年(建兴元年)):涉及 曹丕、司马懿、贾诩、曹真等;2 回/卷见于:演 ch.85、86;含子事件 安居平五路。

登場人物: 曹丕(そうひ)、司馬懿(しばい)、賈詡(かく)、曹真(そうしん)、孟達(もうたつ)、孫権(そん けん)


地理

人物

合戦の場面

深掘り解説

AI 分析

戦略的背景

『三国(さんごく)演義』は五路の蜀征討(ごろのしょくせいとう)を、劉備(りゅうび)が夷陵(いりょう)で惨敗し白帝城(はくていじょう)で病没した後、まさに蜀漢(しょくかん)が 最も虚弱な窓口の時期に配している。曹丕(そうひ)は「劉備すでに亡し、朕に憂いなし」と断じ、蜀中の新主が幼く、 人心が定まらぬ隙に乗じて一挙に併呑しようとした [c:16131]。この構想そのものは併呑戦争の基本論理に適っている—— 相手の政権交代期、軍力が傷ついた時に総攻撃を発動するのである。だが小説は賈詡(かく)の口を借りて反対意見も示している。 劉備は必ず諸葛亮(しょかつりょう)に後事を託し、諸葛亮は知遇の恩に感じて必ず力を尽くして扶けるゆえ、急な蜀征討が必ず勝てるとは限らない、と [c:16131]。曹丕はこの慎重な判断を採らず、司馬懿(しばい)のより進取的な案に 惹かれ、この戦役の「声勢は浩大ながら根基は虚浮」という基調を定めた。

双方の布陣

司馬懿の「五路」の設計はかなり層をなしている。金帛で遼東の鮮卑・軻比能(かびのう)を誘って西平関を出させ、官位の 賞賜で南蛮の孟獲(もうかく)を駆って益州(えきしゅう)四郡を攻めさせ、割地の約束で東呉の孫権(そん けん)を引き込んで涪城(ふうじょう)を取らせ、旧誼で降将の 孟達(もうたつ)を寝返らせて上庸(じょうよう)を出させ、さらに曹真(そうしん)に正兵を率いさせて陽平関(ようへいかん)から主攻させ、五十万の大軍で四方から囲む。狙いはまさに 諸葛亮の首尾を相顧みられなくさせることであった [c:16132]。これは典型的な「多線で牽制し、防御を分散させる」 戦法である。諸葛亮の応対は路ごとに解きほぐすものであった。久しく西涼を鎮め、羌胡に威を震わせた馬超(ばちょう)を西平関に扼させ、 魏延(ぎえん)の疑兵で南蛮を惑わせ、趙雲(ちょううん)に陽平の険道を据え守らせ、孟達の一路については、その変節の常で必ず死戦を肯んじまいと料り、 ただ東呉の一路だけは武力で防げず、外交で化解する必要があった [c:16134]。二つの布陣の優劣は、 司馬懿が賭けたのが「同時の圧力」であり、諸葛亮が見積もったのが「各路の中身」であった点にある。

重要な決断点

最も微妙な駆け引きは東呉で起きた。孫権は魏の使者の誘いと割地の誘惑に一度は迷ったが、陸遜(りくそん)の 判断が鍵となった。曹丕は中原に腰を据えており急には図りがたく、今ここで公然と魏を拒めば必ず怨みを結ぶ、表面上は 応諾しつつ、暗に様子をうかがい、四路の戦果が明らかになってから取捨を定めるがよい——四路が勝てば火事場泥棒で先に成都(せいと)を取り、 四路が敗れれば改めて協議すればよい、と [c:16133]。これは冷静な機会主義である。東呉は終始自らの 利益を魏や蜀の上に置き、決して曹丕の無料の用心棒になろうとはしなかった。諸葛亮はこの理を深く心得ており、鄧芝(とうし)を遣わして 呉に使いさせ、外交手段でこの最も防ぎがたい一路を完全に抜き取った。決断の勝敗の決め手は、まさに諸葛亮が 五路の軍事的危機を、正確に四路の軍事問題プラス一路の外交問題へと解きほぐした点にある。

結果と反響

結果、五路はことごとく潰えた。西番は馬超を見て戦わずして退き、孟獲は魏延の疑兵に洞中へ追い返され、孟達は半ばで 「病に染まり」兵を動かさず、曹真は斜谷で阻まれ功なく退き、孫権は陸遜の進言により終始一兵も 発しなかった [c:16134]。孫権は事後に「陸伯言まことに神算なり」と感嘆し、妄りに動いて西蜀と怨みを結ばなかったことを喜んだ [c:16134]。この戦役は小説の語りのなかでは「安居にて五路を平定(あんきょにてごろをへいてい)」という見せ場であり、 諸葛亮が危機に臨んで乱れず、帷幄に運籌する形象を造形し、勢いに乗じて鄧芝の呉への使い、呉蜀が再び結盟する 後続の主線を引き出すために用いられている。

反事実の推論

強調すべきは、五路の蜀征討は正史には対応する統一的な戦役の記載がなく、小説が 諸葛亮の才略を際立たせるために高度に構造化した創作の一段である点である。たとえ小説の設定内で推論しても、もし孫権が 魏の使者を信じ、本当に十万の兵を起こして涪城を取れば、蜀漢は同時に五路の圧力を受け、局面ははるかに危険になっていただろう——東呉の 一路こそ、蜀漢の腹心を撃ちうる唯一の力であった。それゆえにこそ、諸葛亮が外交を軍事の前に置いた 優先順位が、きわめて重要に見えるのである。逆に言えば、曹丕の案の根本的な欠陥は、盟友と 外族の「力を借りる」ことに過度に依存した点にある。これらの力はそれぞれ私心を抱き、真に彼の指揮を受けはしない。ひとたび核心の接着剤 (東呉の連携)が剥がれれば、五十万の大軍は砂の城のごとく自ずから崩れ去るのである。