
史载(Historical Record)
法正(ほうせい)、字は孝直、右扶風郿の人である。その祖父法真は清節と高名で著名であり、その父法衍はかつて司徒掾、廷尉左監を務めた c:2633。建安の初年、天下は飢荒に見舞われ、法正(ほうせい)は同郡の孟達とともに蜀に入り劉璋に身を寄せた。初め、法正(ほうせい)は新都(しんと)令を務め、後に召されて軍議校尉に署されたが、重用されず、また僑客の身分のために同郷から誹謗を受け、志を伸ばすことが難しかった c:2633。
益州(えきしゅう)別駕の張松(ちょうしょう)は法正(ほうせい)と親しく、二人はともに劉璋では大業を成すに足らぬと考え、しばしば私かに嘆息していた。張松(ちょうしょう)は荊州から曹操(そうそう)を訪ねて帰った後、劉璋に曹操(そうそう)との関係を断ち、劉備と結ぶよう勧めた。劉璋が誰を使者とすべきか尋ねると、張松(ちょうしょう)は法正(ほうせい)を推挙した。法正(ほうせい)は辞退しきれず、最終的に荊州へ赴いた。法正(ほうせい)は帰った後、張松(ちょうしょう)に劉備が雄才大略を持つと称賛し、二人は密かに協議し、ともに劉備を輔佐したいと望んだが、機会のないことに苦しんだ c:2633。
後に、劉璋は曹操(そうそう)が将を遣わして張魯を征討しようとしていると聞き、内心恐れた。張松(ちょうしょう)はこの機に乗じて劉璋に、劉備を蜀に迎え入れて張魯を討伐すべきだと勧め、再び法正(ほうせい)を遣わした。法正(ほうせい)は命を奉じて赴き、私かに劉備に策を献じた。「明将軍(劉備)の英才をもって、劉牧(劉璋)の懦弱に乗じ、張松(ちょうしょう)は益州(えきしゅう)の股肱の臣であり、内応とすることができます。然る後、益州(えきしゅう)の富饒に拠り、天府の険要に依り、これをもって大業を成すは、掌を反すがごとくです」。劉備はこの計を採用し、江を遡って劉璋と涪城(ふうじょう)で会見した。その後、劉備は北の葭萌に至り、南下して劉璋を攻め取った c:2633。
劉備が雒城(らくじょう)を包囲攻撃する間、劉璋の主簿黄権と従事の王累(おうるい)はかつて劉璋に劉備を蜀に引き入れぬよう諫めたが、劉璋は一切聞かなかった c:2630。鄭度はかつて劉璋に計を献じ、巴西、梓潼の民衆を涪水以西に遷し、すべての糧倉と野の穀物を焼き払い、高塁深溝を築いて、劉備軍が糧尽きて退くのを静かに待つよう建議した。劉備はこの計を聞いて憂慮し、法正(ほうせい)に尋ねた。法正(ほうせい)は、劉璋は結局この計を採用しないので、心配無用と考えた。果たして、劉璋は「吾は敵を拒みて民を安んずると聞くも、いまだ民を動かして敵を避くとは聞かず」と言って、鄭度を罷免し、その計を用いなかった c:2636。
劉備が雒城(らくじょう)を攻め落とした後、進んで成都(せいと)を包囲した。劉璋は最終的に出降した。劉備が益州(えきしゅう)に入主した後、諸葛亮を股肱とし、法正(ほうせい)を謀主とし、関羽、張飛、馬超を爪牙とした。法正(ほうせい)は蜀郡太守、揚武将軍に任命され、対外的には都畿を統轄し、内では劉備の謀主となった c:5824。法正(ほうせい)は恩讐が明確な人柄で、「一餐の徳、睚眥の怨み、報復せざるはなし」という性格を持ち、ついには勝手に数人を殺傷した。ある者が諸葛亮に訴え、法正(ほうせい)は度を越して縦横であり、その威福を抑えるべきだと考えた。しかし諸葛亮は言った。「主公が公安にあった時、北には曹公の強を畏れ、東には孫権の逼迫を憚り、近くは孫夫人が肘腋の下で変を生じることを懼れた。この時に当たり、進退狼狽したが、法孝直がこれを輔翼し、翻然と翱翔せしめ、再び制すべからざるに至らせた。どうして法正(ほうせい)を禁じてその意を行わせぬようにできようか」 c:2636。
建安二十二年、法正(ほうせい)は劉備に策を献じ、曹操(そうそう)が張魯を降し漢中を平定した後、その勢いに乗じて巴蜀を図ることができず、かえって夏侯淵、張郃を残して屯守させ、自身は慌ただしく北に還ったのは、その智謀の不足ではなく、内部に憂患の逼迫があったからだと指摘した。法正(ほうせい)は、夏侯淵、張郃の才略は国家の将帥に及ばず、もし兵を挙げて討伐すれば必ず克てると考えた。ひとたび漢中を攻め落とせば、広く糧食を蓄え、機を伺って動き、上は曹魏(そうぎ)を傾覆して王室を尊奨でき、中は雍・涼を蚕食して疆土を拡げ、下は要害を固守して持久の計をなせると。劉備は法正(ほうせい)の建議を採用し、諸将を率いて漢中に進兵し、法正(ほうせい)も随行した。建安二十四年、劉備は定軍山、興勢山に営寨を築いた。夏侯淵が兵を率いて争いに来ると、法正(ほうせい)は「撃つべし」と考えた。劉備は黄忠に高きに乗じて鼓を鳴らしこれを攻めさせ、夏侯淵軍を大破し、夏侯淵は斬殺された。曹操(そうそう)が西征した際、法正(ほうせい)の計を聞いて嘆いた。「吾はもとより玄徳がこれをなし得ぬと知っていた、必ず人に教えられたのだ」 c:2637。
劉備が漢中王に立った後、法正(ほうせい)を尚書令、護軍将軍に任命した。翌年、法正(ほうせい)は世を去り、時に四十五歳であった。劉備はこのために数日涙を流し、翼侯と追諡した。その子法邈に関内侯の爵を賜り、官は奉車都尉、漢陽太守に至った。諸葛亮と法正(ほうせい)は志趣を異にしたが、公義をもって相待し、諸葛亮はしばしば法正(ほうせい)の智謀を称賛した。劉備が帝を称した後、東のかた孫権を征して関羽の仇を報じようとし、群臣の多くが諫めたが、劉備は聞かなかった。章武二年、大軍は敗れ、劉備は白帝城(はくていじょう)に退き守った。諸葛亮は嘆いた。「法孝直がもし在りせば、主上を制して東行せぬようにできたであろう。たとえ東行したとしても、必ず危うきに傾かなかったであろう」 c:5828。
演中(In the Novel)
『三国演義』において、法正(ほうせい)の登場は、張松(ちょうしょう)が地図を献じ劉璋に劉備を蜀に迎え入れるよう勧めることと密接に結びついている。張松(ちょうしょう)は荊州で劉備に会った後、益州(えきしゅう)に戻ると法正(ほうせい)に劉備の盛徳を語り、すでに益州(えきしゅう)を劉備に許す意を漏らし、法正(ほうせい)と共謀することを望んだ。法正(ほうせい)は、自分はとうに劉璋が無能であることを察しており、早くから劉備に帰附する心があったと表明し、張松(ちょうしょう)と志を同じくした c:2639。その後、孟達も彼らの密謀に加わった c:2639。
張松(ちょうしょう)は劉璋に法正(ほうせい)と孟達を使者として推挙し、荊州へ赴いて劉備と結好させようとした。劉璋は従い、法正(ほうせい)を使者とし、孟達に精兵五千を率いて劉備を蜀に迎えさせた c:2640。法正(ほうせい)は荊州に到着すると、劉備に劉璋の書信を呈した。劉備は宴を設けて法正(ほうせい)をもてなし、私かにその意を尋ねた。法正(ほうせい)は、益州(えきしゅう)は天府の国であり、劉璋は賢を用いることができず、遅かれ早かれ必ず他人のものになるので、劉備はこの好機を逃すべきではないと直言し、劉備のために死を尽くす覚悟だと表明した c:12518。
劉備と劉璋が涪城(ふうじょう)で会した際、龐統と法正(ほうせい)はかつて劉備に、宴席で劉璋を襲って殺し、迅速に西川を奪い取るよう密かに建議した。しかし劉備は「初めて蜀中に入ったばかりで、恩信がまだ立っていない」ことを理由に拒んだ c:2643。翌日、もう一度の宴席で、龐統と法正(ほうせい)は再び協議し、「事すでにここに至っては、主公の自由にはならぬ」として、魏延(ぎえん)に剣を舞わせ、機に乗じて劉璋を刺殺しようと図った。しかし劉璋の手下の張任もまた剣を抜いて魏延(ぎえん)と対舞し、彼らの計画は成就しなかった c:2643。
劉備が雒城(らくじょう)を攻める前、法正(ほうせい)はかつて劉備に雒城(らくじょう)周辺の地理形勢を描き出し、南北二つの進兵路線を指摘した c:12524。雒城(らくじょう)を攻め落とした後、法正(ほうせい)は劉備に進兵を一時緩め、まず書を送って劉璋に降を勧め、仁義をもって衆を服させるよう建議した。諸葛亮はこれに賛同を表した c:12525。劉璋が鄭度の野の穀物を焼き堅壁清野とする計を聞かなかった際、法正(ほうせい)は劉備と諸葛亮に劉璋は必ずこの計を用いることができないと保証し、劉備を安心させた c:2646。
劉備が益州(えきしゅう)を平定した後、法正(ほうせい)は蜀郡太守に任命された。小説では特に法正(ほうせい)の「一餐の徳、睚眥の怨み、報復せざるはなし」という性格が強調されている。ある者が諸葛亮に法正(ほうせい)が「あまりに横暴である」と訴えたが、諸葛亮は劉備が荊州にあった時の法正(ほうせい)の輔佐の功を理由に追究せず、法正(ほうせい)もこれを聞いた後「自ら斂戢した」 c:12527。
法正(ほうせい)はまた、劉備が漢中王を称した後、劉備に呉懿の妹を娶って王妃とするよう建議し、その理由を「その親疎を論ずれば、晋文の懐嬴に対するのと何の違いがあろうか」とし、劉備は最終的に採用した c:2648。
关键关系
* 劉璋集団:法正(ほうせい)は最初劉璋に身を寄せ、新都(しんと)令、軍議校尉を務めたが、重用されず、また僑客の身分のため誹謗を受けた c:2633。彼は張松(ちょうしょう)と密謀し、最終的に劉璋を裏切り、劉備の入蜀奪権を促した c:2633。
* 劉備:法正(ほうせい)は劉備が蜀に入り益州(えきしゅう)を奪い、漢中を取るための重要な謀主である。彼は劉備に益州(えきしゅう)を取る策を献じ、漢中の戦いでは夏侯淵を攻めるよう建議し、劉備の勝利を助けた c:2633, c:2637。劉備は法正(ほうせい)を極めて信任し重んじ、その死後は数日涙を流し、翼侯と追諡した c:5828。
* 張松(ちょうしょう):法正(ほうせい)は張松(ちょうしょう)と親しく、二人はともに劉璋では大事を共にするに足らぬと考え、共に劉備を輔佐することを密謀した。張松(ちょうしょう)は劉璋に法正(ほうせい)を使者として推挙し、法正(ほうせい)と劉備の接触を促した c:2633, c:2638。
* 孟達:法正(ほうせい)は孟達と同郡であり、ともに蜀に入って劉璋に依附し、ともに張松(ちょうしょう)に使者として推挙され荊州へ赴いて劉備を迎えた c:2633, c:2640。
* 諸葛亮:史によれば諸葛亮と法正(ほうせい)は好尚を異にしたが、公義をもって相取り、諸葛亮はそのつど法正(ほうせい)の智術を奇とした c:5828。諸葛亮は法正(ほうせい)の縦横な振る舞いに寛容な態度を取り、その功は過失を相殺するに足ると考えた c:2636。演義でも、諸葛亮は劉璋に降を勧める策など、法正(ほうせい)の建議に同意した c:12525。
* 劉備集団:法正(ほうせい)は劉備に帰順した後、その中核的謀士の一人となり、諸葛亮と並んで謀主となった c:5824。
标志性场景
* 益州(えきしゅう)を取る策を献ず:法正(ほうせい)は劉璋の命を受けて劉備を蜀に迎えたが、私かに劉備に益州(えきしゅう)を奪い取る詳細な策を献じ、劉璋の懦弱、益州(えきしゅう)の富饒険要を指摘し、大業を成すは掌を反すがごとく易しいとした c:2633。この策は劉備の入蜀の鍵となる転換点となった。
* 劉備に劉璋を襲殺するよう勧める(演義独自):『三国演義』において、法正(ほうせい)は龐統とともに、宴席で劉璋を襲い殺し迅速に益州(えきしゅう)を奪い取るよう幾度も劉備に勧めたが、劉備は仁義を理由に拒んだ c:2643。
* 漢中の戦いを力主:法正(ほうせい)は劉備に曹操(そうそう)が漢中に残した弱点を分析し、劉備に漢中攻めを力勧した。定軍山の戦いで、彼は黄忠に地形の優位を利用し逸をもって労を待つよう建議し、最終的に夏侯淵を斬殺し、劉備のために漢中を奪う赫赫たる戦功を立てた c:2637。
* 諸葛亮がそのために弁護する:法正(ほうせい)が蜀郡太守を務めた期間、その恩讐の明確な性格のため、自らを毀傷した者数人を勝手に殺し、度を越して縦横だと非難された。しかし諸葛亮は彼のために弁護し、劉備が危難の時の法正(ほうせい)の輔佐の功を指摘し、その振る舞いを制限すべきではないと考え、劉備集団の法正(ほうせい)への特別な信任と諸葛亮の大局観を体現した c:2636。
* 劉備がそのために涙を流す:法正(ほうせい)が世を去った後、劉備は数日涙を流し、翼侯と追諡し、彼が劉備の心の中で占める重要な地位を十分に示した c:5828。
* 諸葛亮が法正(ほうせい)の在世を嘆く:劉備が東のかた孫権を征して失敗した後、諸葛亮は、もし法正(ほうせい)が在世していれば、必ず劉備の東行を諫め止められたであろうし、たとえ東行したとしても、これほど惨敗を喫することはなかったであろうと嘆き、法正(ほうせい)が劉備の決策に及ぼす巨大な影響力を示した c:5828。
* 劉備に呉氏を王妃に納めるよう勧める:法正(ほうせい)は晋文公と懐嬴の例をもって、劉備に呉懿の妹を王妃に納めるよう勧め、劉備の後宮問題を解決し、劉備集団の安定に貢献した c:2632, c:2648。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 法正(ほうせい)は成敗をよく見通し、奇なる画策・計算を有し、一飯の恩、睚眥の怨みまで報復せぬものはなく、徳素をもって称されなかった [c:4]。彼は権謀を進め、事を断じて疑わなかった [c:5]。
- 話し方
- 法正(ほうせい)は長書を作って策を献じることに長け、議論は利害を切実に衝いた [c:32]。彼の謀略は簡練で、たとえば「客を反して主となす」「逸をもって労を待つ」というように [c:33]。
- 生涯
- 法正(ほうせい)の祖父の法真は清節と高名があり、彼自身の本籍は右扶風郿である [c:8]。建安初年、天下が飢荒に見舞われ、法正は同郡の孟達(もうたつ)とともに蜀に入って劉璋(りゅう しょう)に身を寄せ、のちに新都(しんと)令となり、また召されて軍議校尉に署された [c:8]。益州(えきしゅう)別駕の張松(ちょうしょう)は法正と善く、法正は璋の命を奉じて先主のもとへ使いし、密かに先主のために益州を取るべしと策を献じた [c:8]。彼は劉璋(りゅう しょう)に遣わされて先主を迎え、益州を取るべき策を陳べ、璋を襲うよう進説したが用いられず、のちに先主の謀主となった [c:7]。先主が漢中(かんちゅう)王に立った後、法正は尚書令・護軍将軍に任じられた [c:8]。先主が漢中王に立った翌年、法正は世を去った。享年四十五歳、先主は幾日も涙を流し、諡して翼侯とした [c:8]。
- 逸話
- 法正(ほうせい)はかつて先主に呉氏を娶るよう勧め、晋文公の子圉に対する故事を譬えとした [c:1]。彼は諸葛亮(しょかつりょう)・伊籍(いせき)・劉巴(りゅうは)・李厳(りげん)とともに『蜀科』を作った [c:2]。法正は書をもって劉璋(りゅう しょう)を招降することを主張したが、その書は劉璋を大いに怒らせた [c:3]。
人間関係
14 件の関係
名言
全 27 件の台詞 · 厳選 3 件
「昔曹操降張魯,定漢中,不因此勢以圖巴蜀,乃留夏侯淵、張郃二將屯守,而自引軍北還,此失計也。今張郃新敗,天蕩失守,主公若乘此時,舉大兵親往征之,漢中可定也。既定漢中,然後練兵積粟,觀釁伺隙,進可討賊,退可自守。此天與之時,不可失也。」
この言葉は法正(ほうせい)の遠大な戦略的見識を表し、劉備(りゅうび)の漢中(かんちゅう)奪取を促した。
「淵為人輕躁,恃勇少謀;可激勵士卒,拔寨前進,步步為營,誘淵來戰而擒之。此乃『反客為主』之法。」
「反客為主」の計略は、法正(ほうせい)の軍事的謀略を示し、古典的な戦術となった。
「天下有獲虛譽而無其實者,許靖是也。然今主公始創大業,天下之人不可戶說,靖之浮稱,播流四海,若其不禮,天下之人以是謂主公為賤賢也。宜加敬重,以眩遠近,追昔燕王之待郭隗。」
この言葉は法正(ほうせい)が人を見抜き巧みに用いる才を表し、劉備(りゅうび)が人材を集めるための独自の視点を提供している。
登場回16 回 ▸
- 史ch.31ch.32ch.34ch.35ch.37ch.40
- 演ch.60ch.61ch.62ch.63ch.64ch.65ch.70ch.71ch.73ch.77
関係の年表18 条 ▸
史 ch.31
- 劉備(りゅうび)§13
serves
与孟达送兵助先主守御
史 ch.32
- 劉備(りゅうび)§18
advises_in
受璋遣迎之,并陈益州可取之策
史 ch.34
- 劉備(りゅうび)§13
advises_in
进言以晋文公之事為譬,劝纳吴氏
史 ch.37
- 孟達(もうたつ)§10
friend_of
同郡;建安初与孟达俱入蜀依劉璋
- 張松(ちょうしょう)§10
friend_of
益州別駕張松與正相善;忖璋不足與有為
- 劉備(りゅうび)§10
advises_in
衔璋命既宣旨,陰献策劝先主取益州
- 許靖(きょせい)§11
advises_in
璋既稽服,先主薄许靖;正说先主厚待之以眩远近,先主乃厚待靖
- 劉備(りゅうび)§12
advises_in
二十二年说先主图汉中;先主善其策乃率诸将进兵汉中
演 ch.60
- 張松(ちょうしょう)§21
friend_of
心腹契友,同谋献蜀
- 劉璋(りゅう しょう)§23
commands_in
受命为使先通情好,赍书赴荆州
- 劉備(りゅうび)§25
friend_of
至荆州呈书;席间劝取益州
- 劉備(りゅうび)§44
advises_in
顺天命再劝乘机图蜀
演 ch.61
- 劉備(りゅうび)§1
advises_in
与庞统同劝玄德席间杀刘璋取西川
演 ch.63
- 彭羕(ほうよう)§1
friend_of
法正与彭羕相见各抚掌而笑,引见于庞统、玄德
演 ch.64
- 劉璋(りゅう しょう)§23
enemy_of
作书劝降;璋视为卖主求荣之贼
演 ch.65
- 劉備(りゅうび)§2
advises_in
自雒城劝主公勿忧,断言刘璋必不用郑度计
演 ch.71
- 黄忠(こうちゅう)§10
advises_in
山顶举白旗、红旗为号指挥黄忠下击夏侯渊
演 ch.77
- 劉備(りゅうび)§26
advises_in
奏纳王妃以襄内政;荐吴懿之妹
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は法正(ほうせい)、字は孝直である。昔、先主に従って蜀に入ったときのことを思い起こす。かつての盟約はすでに損なわれ、益州(えきしゅう)の情勢も日に日に切迫していた。私はその渦中に身を置き、進むにも退くにも、どちらにも恥じるところがあった。
- 私は扶風郿(Fufeng-Mei)の人で、字は孝直(Xiaozhi)という。建安初年、天下が飢饉に見舞われると、私は孟達(もうたつ)とともに蜀へ入り、劉璋(りゅう しょう)を頼った。長く任用されず、同郷の流寓者たちにも誹謗され、志を遂げられ
- 私は右扶風(ゆうふふう)の出身で、字は孝直という。若い頃、世の中を渡り歩き、見聞きしたことの多くから、漢室の衰微と群雄の蜂起を思わずにはいられなかった。家門や少年時代の細かな事情については、後世に伝わる記録に詳しくないため、みだりに語ること
生涯の大事10 ▸
- 0211-01-01 · 成都(せいと)張松の地図献上と蜀謀略(ちょうしょうのちずけんじょうとしょくぼうりゃく)· 軍師
- 0212-01-01 · 葭萌関(かぼうかん)劉備の入蜀(りゅうびのにゅうしょく)· 軍師
- 0212-01-01 · 涪城(ふうじょう)涪城の会見(ふじょうのかいけん)· 軍師
- 0213-01-01 · 益州(えきしゅう)劉備の入蜀(りゅうびのにゅうしょく)· 首謀者
- 0214-01-01 · 成都(せいと)劉璋の降伏(りゅうしょうのこうふく)· 軍師
- 0214-01-01 · 成都(せいと)蜀科の制定(しょくかのせいてい)· 軍師
- 0218-01-01 · 成都(せいと)彭羕の事件(ほうようのじけん)
- 0219-01-01 · 沔陽(めんよう)劉備の漢中王進位(りゅうびのかんちゅうおうしんい)· 軍師
- 0219-01-01 · 定軍山(ていぐんざん)定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)· 軍師
- 0219-01-01 · 漢中(かんちゅう)漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)· 軍師