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黄権(こうけん)

曹魏(そうぎ) · 车骑将军

黄権(こうけん)

字 公衡

登場回
12
台詞の記録
14
人間関係
8
内面の独白
3

史載(Historical Record)

黄権(こうけん)は字を公衡といい、巴西の閬中(ろうちゅう)の人である。早年は郡吏となり、後に益州(えきしゅう)牧の劉璋(りゅう しょう)に主簿として召し出された。張松(ちょうしょう)が劉璋に劉備(りゅうび)を蜀に迎え入れるよう進言したとき、黄権はかつて諫言し、劉備は驍勇で、もし部曲として遇すれば不満を抱き、賓客として遇すれば一国に二主は容れられず、泰山の安きと累卵の危うきとの矛盾が恐れられると指摘し、境を閉ざして自ら守るよう進言した。しかし、劉璋はその諫言を採り入れず、かえって黄権を広漢長に外放した c:6887。

劉備が益州を攻め取ったとき、各郡県が次々と帰附したが、ひとり黄権だけは城を閉ざして固守し、劉璋が降伏した後にようやく劉備に帰順した。劉備はその忠誠に感じ、彼を偏将軍に任じた c:4434。曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を攻め破った後、黄権は再び進言し、漢中の益州にとっての重要性を強調し、「もし漢中を失えば、三巴は振るわず、これは蜀の股肱を割くものである」と指摘した。劉備はその進言を採用し、黄権を護軍に任じ、諸将を率いて張魯(ちょうろ)を迎え撃たせた。張魯はすでに曹操に降っていたが、黄権は後続の戦役で杜濩・朴胡を破ることに成功し、最終的に漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)において夏侯淵(かこう えん)を斬り、劉備の漢中奪取に大いに功を立てた c:4434。

劉備が漢中王を称した後(劉備の漢中王即位(りゅうびのかんちゅうおうそくい))、黄権は治中従事に任じられた。劉備が帝を称した後(劉備の称帝(りゅうびのしょうてい))、東のかた孫呉(そんご)を伐つことを決め、黄権は再び諫言し、呉人は善戦し、水軍が流れに沿って下れば、進むは易く退くは難しいと考え、自らが先鋒となり、劉備は後方に居て鎮するよう進言した。劉備は聞き従わず、かえって黄権を鎮北将軍に任じ、江北の諸軍を督して曹魏(そうぎ)を防がせ、劉備自らは主力を率いて江南で戦った c:6893。

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)において、呉将の陸遜(りくそん)が勢いに乗じて蜀軍の退路を断ち、劉備の主力は大敗した。道が阻まれたため、黄権の部隊は蜀地へ撤退できず、最終的に部衆を率いて曹魏に降伏した c:6893。蜀漢(しょくかん)の群臣は黄権の家属の責任を追及するよう請うたが、劉備は「孤が黄権に背いたのであって、権が孤に背いたのではない」と言い、その家属を厚遇した c:6893。

黄権が魏に降った後、魏の文帝・曹丕(そうひ)は彼に陳平や韓信に倣いたいかと問うた。黄権は、自分は劉備の厚恩を受けたため、呉に降ることを欲せず、また蜀に帰る道もなく、それゆえ曹魏に帰降したのであり、ただ死を免れることを求めるのみで、あえて古人と比べるつもりはないと答えた。曹丕はその坦誠さを賞賛し、彼を鎮南将軍に任じ、育陽侯に封じ、侍中を加え、陪乗させた c:6893。黄権は魏国で官位が車騎将軍・儀同三司に至った。魏の明帝はかつて黄権に天下鼎立においていずれの地が正統かと問い、黄権は天文の異象をもって応じた。黄権が没した後、諡号は景侯であった。その子の黄邕が爵位を嗣いだが、後嗣がなく、絶えた。黄権が蜀地に残した子の黄崇(こうすう)は、蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)の折、諸葛瞻(しょかつせん)に従って鄧艾(とうがい)に抵抗し、何度も諸葛瞻に険に拠って守るよう諫めたが、採り入れられず、最終的に綿竹(めんちく)で戦死した c:4435。

演中(In the Novel)

『三国演義』における黄権は、その忠諫の士たる形象がさらに強化され劇化されている。劉璋が張松の言を信じて劉備を蜀に迎え入れようとしたとき、黄権は身を挺し、率直に劉備は「人に寛く接し、柔よく剛を克し、英雄に敵なし」と述べ、もし劉備を蜀に迎えれば「一国に二主は容れられず」の局面になると予言し、劉璋に先に張松を斬り、後に劉備を絶つか、あるいは境を閉ざして塞を絶ち時の清まるのを待つよう進言した c:4436。劉璋が固執して自ら涪城(ふうじょう)へ劉備を迎えに行こうとしたとき、黄権はさらに「叩首して血を流し、進み出て口で璋の衣を啣えて諫め」、劉璋に門歯をもぎ取られても、なおその忠諫の心を改めなかった c:4437。これらの筋立ては史伝には詳細な記載がなく、演義がその忠貞不屈の形象を造形するために施した芸術的加工である。

劉備が成都(せいと)を囲攻したとき、演義では黄権はかつて劉璋の命を受けて漢中へ赴き張魯に救援を求め、楊松(ようしょう)に二十州の地を約して張魯の出兵を促した c:4438。しかし、張魯は最終的に囲みを解くことができなかった。劉璋が降伏しようとする折、演義はさらに黄権が劉巴(りゅうは)とともに譙周(しょうしゅう)を怒り叱る情景を描いている。譙周が天文の異象をもって劉璋に天命に順って劉備に降るよう勧めたためである c:4439。これらの細部は史伝には明確な記載がないが、黄権の一貫した忠主の形象と符合する。

劉備が益州に入主した後、演義では黄権は右将軍に任じられた c:6897。劉備が東征して呉を伐つ(夷陵の戦い(いりょうのたたかい))折、黄権は再び諫言し、「水軍が江に沿って下れば、進むは易く、退くは難し。臣は前駆とならんことを願います。陛下は後陣に在るべく、しからば万に一つの失もありますまい」と指摘した c:4440。劉備は聞かず、かえって黄権に江北の兵を督して魏寇を防がせた。最終的に、陸遜が連営を焼き払ったため、蜀軍は大敗し、黄権の部は道を断たれたため曹魏に降伏した。その降伏後の言辞は史載とおおむね一致しており、自らが「蜀に帰る道なく、呉に降るは不可」であったことを強調している c:4441。演義では、曹丕はかつて流言を信じ、劉備が黄権の家属を誅殺すると思ったが、黄権は劉備がそのようなことはしないと固く信じ、その劉備への理解と信頼を体現した c:4441。

重要な関係

* 劉璋集団(serves):黄権は最初、劉璋に仕え、その配下の主簿であったが、後に広漢長に外放された。彼はかつて何度も劉璋に諫言し、劉備を蜀に迎え入れることに反対し、境を閉ざして自ら守るよう進言し、劉璋への忠誠を示した c:6887, c:4436。
* 劉備集団(defected_to):劉備が益州を攻め取った後、黄権は劉備に帰降し、劉備の重用を得た。彼はかつて劉備の漢中奪取に策を献じ、劉備の東征して呉を伐つ折に鎮北将軍を務めた。たとえ黄権が最終的に曹魏に降ったとしても、劉備はその家属の責任を追及せず、「孤が黄権に背いたのであって、権が孤に背いたのではない」と言っており、劉備の黄権への器重と理解がうかがえる c:6893。
* 曹魏(defected_to):夷陵の戦いの後、黄権は道が阻まれたため曹魏に降った。曹魏において、彼は曹丕の賞識を得て、官位は車騎将軍・儀同三司に至り、育陽侯に封じられた c:6886, c:6893。彼は司馬懿(しばい)とも交流があり、司馬懿はかつて彼を「快士」と称賛した c:4435。
* 張松(反対):黄権は劉璋集団にいたとき、張松が劉備を蜀に迎え入れる進言に極力反対し、劉璋に先に張松を斬るよう進言すらした c:4436(演義独自)。
* 諸葛亮(同僚/称賛される):黄権は蜀漢で諸葛亮(しょかつりょう)と職務をともにし、司馬懿はかつて諸葛亮に黄権の自分への称賛を言及した c:4435。
* 陸遜(対手):夷陵の戦いにおいて、黄権の部隊は陸遜の率いる呉軍と対峙し、最終的に陸遜が蜀軍の退路を断ったため黄権の降伏を招いた c:6893。
* 黄崇(父子):黄権が蜀地に残した子で、蜀漢の滅亡の折に国のために身を捧げた c:4435。

象徴的な場面

* 劉璋が劉備を蜀に迎えるのを諫止する:張松が劉璋に劉備を蜀に迎え入れるよう進言したとき、黄権は衆議を排し、劉備の脅威を指摘し、劉璋に境を閉ざして自ら守るよう進言した。演義では、彼は「叩首して血を流し、進み出て口で璋の衣を啣えて諫め」、劉璋に門歯をもぎ取られても、なおその忠諫の心を改めず、この場面は彼の忠誠の形象を大いに強化した c:4437(演義独自)。
* 漢中奪取の策を献じる:曹操が漢中を攻め破った後、黄権は劉備に進言し、漢中の益州にとっての重要性を強調し、「もし漢中を失えば、三巴は振るわず、これは蜀の股肱を割くものである」と指摘し、劉備に漢中奪取の決意を固めさせ、最終的に漢中の戦いの勝利を収めさせた c:4434。
* 劉備の東征して呉を伐つのを諫止する:劉備が帝を称した後、東のかた孫呉を伐つことを決め、黄権は再び諫言し、呉人は善戦し、水軍が流れに沿って下れば進むは易く退くは難しいと指摘し、自らが先鋒となり、劉備は後方に居て鎮するよう進言した。劉備は採り入れなかったが、黄権の先見の明と忠誠は再び体現された c:6893。
* 夷陵の戦いの後の曹魏への降伏:夷陵の戦いにおいて、劉備の主力は大敗し、黄権の部は道が阻まれて蜀地へ撤退できず、最終的に部衆を率いて曹魏に降った。この挙は裏切りではなく、やむを得ない行いであり、劉備もこれに理解を示し、その家属を厚遇した c:6893。
* 魏の文帝の前での坦誠な応答:黄権が魏に降った後、魏の文帝・曹丕は彼に陳平や韓信に倣いたいかと問うた。黄権は坦誠に、自分は劉備の厚恩を受けたため、呉に降ることを欲せず、また蜀に帰る道もなく、それゆえ曹魏に帰降したのであり、ただ死を免れることを求めるのみで、古人とは比べないと答えた。この応答は黄権の沈毅にして度量があり、挙措や顔色が平静自若とした性格を示している c:6893。
* 劉備が家属を誅殺しないと固く信じる:曹魏において、劉備がすでに黄権の家属を誅殺したという噂が流れたとき、黄権は劉備がそのようなことはしないと固く信じ、「臣は劉・葛と誠を推して相信じ、臣の本志を明らかにしております」と述べ、その劉備への信頼と理解を体現した c:6893。

肖像アーカイブ

人物像

性格
黄権(こうけん)は沈着剛毅で度量があり、立ち居振る舞いや顔色は常に平静を保っていた [c:4]。忠直で敢えて諫言し、かつて劉璋(りゅう しょう)に劉備を蜀に招き入れてはならぬと力を尽くして諫めた [c:5]。
生涯
黄権は早くは巴西閬中(ろうちゅう)の人で、若くして郡吏となり、後に州牧の劉璋に召されて主簿となった [c:7]。かつて劉璋が劉備(りゅうび)を迎えるのを諫め止め、先主の益州(えきしゅう)入りの際には城を閉ざして固く守り、劉璋が降伏して初めて帰順した [c:7]。夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の後、黄権は江北の軍を統べて魏に備えたが、帰る道が絶たれたため部隊を率いて魏に降り、後に魏で鎮南将軍・車騎将軍などの職を歴任した [c:7]。
逸話
黄権の子・黄崇(こうすう)は諸葛瞻(しょかつせん)に従って鄧艾(とうがい)を防ぎ、陣中で戦死した [c:1]。かつて劉璋の命を受けて二度、漢中(かんちゅう)に赴いて救援を求め、「二十州をもって酬いる」と言って楊松(ようしょう)を説得した [c:2]。

人間関係

8 件の関係

名言

全 14 件の台詞 · 厳選 3 件

「某素知劉備寬以待人,柔能克剛,英雄莫敵。遠得人心,近得民望。兼有諸葛亮、龐統之智謀,關、張、趙雲、黃忠、魏延為羽翼。若召到蜀中,以部曲待之,劉備豈肯伏低做小?若以客禮待之,又一國不容二主。今聽臣言,則西蜀有泰山之安;不聽臣言,則主公有累卵之危矣。張松昨從荊州過,必與劉備同謀。可先斬張松,後絕劉備,則西川萬幸也。」

演 第60回📍 益州(えきしゅう)

この言葉は劉備の入蜀に潜む脅威を予見し、黄権の卓越した戦略眼を示している。

「左將軍有驍名,今請到,欲以部曲遇之,則不滿其心,欲以賓客禮待,則一國不容二君。若容有泰山之安,則主有累卵之危。可但閉境,以待河清。」

史 第43回

この一句は正史の記載であり、劉備入蜀の窮地を鋭く要約しており、歴史的意義を持つ。

臣與蜀主,推誠相信,知臣本心,必不肯殺臣之家小也。

演 第85回→ 曹丕(そうひ)

この言葉は黄権の劉備への忠誠と信頼を体現し、その高潔な品格を形づくっている。

登場回12 回 ▸
  • 史ch.2ch.4ch.31ch.32ch.43
  • 演ch.60ch.62ch.64ch.65ch.82ch.84ch.85
関係の年表8 条 ▸

史 ch.43

演 ch.60

演 ch.64

演 ch.65

演 ch.84

演 ch.85

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 江北と江南は長江に隔てられ、軍の声も次第に遠のいていった。私が率いる将兵はまだ残っているが、帰還の道はすでに断たれている。私は以前から進言していた。呉の兵は勇猛で、水軍は流れに乗って進むため、攻めるのは容易でも退くのは難しい。先鋒を務めるの
  • 私は黄権(こうけん)、字は公衡(こうこう)という。かつて劉季玉(りゅう きぎょく)に仕えて主簿を務めたが、臣下が君主に仕える道は、耳に心地よい言葉を述べることではなく、思うところを余さず申し上げることにあると、常々考えていた。張松(ちょうし
  • 私は黄権(こうけん)、字は公衡(こうこう)、巴西(はせい)閬中(ろうちゅう)の人である。昔、劉璋(りゅう しょう)の府で主簿を務めていたころを思い返す。職務は帳簿を扱うことだったが、心には常に一州の安危を案じており、命に従って事を行うだけで
生涯の大事5 ▸