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高堂隆(こうどうりゅう)

曹魏(そうぎ) · 丞相军议掾

高堂隆(こうどうりゅう)

登場回
3
台詞の記録
8
人間関係
3
内面の独白
3

史書の記録(Historical Record)

高堂隆(こうどうりゅう)、字は升平、泰山平陽(へいよう)の人で、魯の高堂生の後裔である。彼は若くして諸生の身分で名を知られた。泰山太守・薛悌(せつてい)はかつて彼を督郵に任じた。あるとき、郡の督軍が薛悌と争いを起こし、あろうことか薛悌の名を直に呼んで叱り飛ばした。高堂隆はこれを見て、剣に手をかけて督軍を叱り、魯の定公と仲尼、趙国と秦国の故事を引いて、臣下が直言して諫め、君主の尊厳を維持する義理を強調した c:4297。督軍はこれを聞いて色を失い、薛悌も驚いて立ち上がり高堂隆を制止した。後に、高堂隆は官職を辞して済南に隠れ住んだ。

建安十八年(213年)、曹操(そうそう)は高堂隆を丞相軍議掾に徴召した。その後、彼は歴城侯・曹徽の文学を務めた。曹徽は曹操の喪の期間中、哀悼するどころか、かえって遊猟に馳せたため、高堂隆は礼義をもってこれを諫め、輔導の責を尽くした c:4298。黄初年間、高堂隆は堂陽長となり、後にその優れた働きによって平原(へいげん)王(すなわち後の魏の明帝・曹叡(そうえい))の傅に選ばれた。曹叡が即位した後、高堂隆を給事中・博士・駙馬都尉に任じた。明帝が初めて大宝に登ったとき、ある臣下が宴会を催すよう進言したが、高堂隆は唐尧・虞舜・高宗の哀思の典故を引いて、宴を設けるべきではないと述べ、明帝はその進言を採り入れた c:4298。

高堂隆は後に陳留(ちんりゅう)太守へと転任した。彼はかつて七十を超え徳行の高い犊民・酉牧を計曹掾に推挙し、明帝は嘉して特別に郎中の職を授けてこれを表彰した。高堂隆は散騎常侍に徴召され、関内侯の爵を賜った c:4298。彼は学問が淵博で、とりわけ天文に精通していた。かつて尚書郎の楊偉、太史待詔の駱禄とともに暦法を推し校べ、『太和暦』を編んだ。日食や月晦の推算において太史と争いがあったものの、その精微なところは遠近に知られていた c:4298。

青龍年間(233年-237年)、魏の明帝は大いに土木を起こし、宮殿を修築し、長安(ちょうあん)から大鐘を運んできた。高堂隆は上疏して諫め、周の景王が大銭を鋳造し大鐘を作ったことで周徳が衰微した歴史の教訓を指摘し、明帝が亡国の器を求め、民を労し財を傷つけることを批判した c:4299。明帝はかつて高堂隆の奏表を卞蘭に渡し、これに反駁するよう命じた。高堂隆は礼楽こそ治国の本であると強調し、興衰存亡はしばしば礼楽制度を遵守するか否かと関わると指摘し、明帝が聖王に倣って諫めを納れ、忠臣もまたその節を尽くすべきだと諫めた c:4299。明帝はこれに対して賛許を示した。

陵霄闕が初めて建てられたとき、その上に鵲が巣を作った。明帝が高堂隆に問うと、高堂隆は『詩経』の「これ鵲に巣あり、これ鳩これに居る」の句をもって応え、これは天意の警告であり、宮室が成る前に他姓が主となって入る恐れがあると警告し、百役を休罷し、倹約して治国するよう諫めた c:15630。同年、星孛が大辰に現れた。高堂隆は再び上疏し、帝王が都邑や宮室を営むには宗廟社稷を先とすべきであり、居室を崇飾すべきではないと強調した。彼は、明帝が大いに土木を起こし、百姓が怨嗟の声を上げており、天象の警告こそ天が明帝に与えた慈父の懇切な訓であると指摘し、これを採り入れて夏桀・商紂の覆轍を踏むのを避けるよう諫めた c:15631。

当時、軍国は多事で、法令は厳苛であった。高堂隆は上疏して、礼楽を崇び、儒士を尊び、逸民を挙げ、正朔を改め、服色を易え、恺悌を布き、倹素を尚ぶことを進言し、これこそ風俗を移し変え、民を安んじ国を治める根本の道であると考えた c:6789。明帝はその進言を採り入れ、青龍五年春三月を景初元年孟夏四月と改め、服色は黄を尚び、犠牲は白を用いて、地正に順応させた c:6789。高堂隆は後に光禄勳へと転任した。明帝は引き続き宮殿を増築し、観閣を彫飾し、百姓を労役させた。遼東が朝せず、悼皇后が崩じ、天は淫雨を降らせ、冀州(きしゅう)に水災が起きた。高堂隆は再び上疏して切に諫めた c:6790。

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』においては、高堂隆に対する独立した文学的造形はなされておらず、その事跡は小説の筋立てに組み込まれていない。ゆえに、演義には高堂隆についての独自の描写や史伝からの乖離はない。

主要な関係

* 曹叡(advises_in):高堂隆は魏の明帝・曹叡の重要な謀士かつ諫臣であった。彼は幾度も曹叡に諫め、喪の期間中に宴を設けるべきではないと勧めたり c:4298、大いに土木を起こし大鐘を鋳造することに反対したり c:4299、鵲が陵霄闕に巣を作った異象を警告したり c:15630、星孛が大辰に現れた天象の警告を指摘したり c:15631 した。曹叡は高堂隆の忠言を多く採り入れ、その諫言を称賛した c:4299。
* 薛悌(serves):高堂隆は早年、泰山太守・薛悌の督郵を務めた。郡の督軍が薛悌に無礼を働いた際、高堂隆は身を挺して、剣に手をかけて督軍を叱り、薛悌の尊厳を守った c:4297。
* 曹魏(serves):高堂隆は生涯にわたり曹魏政権に仕え、曹操時代の丞相軍議掾から、魏の明帝時代の給事中・博士・駙馬都尉・陳留太守・散騎常侍・光禄勳に至るまで、終始忠誠に仕えた c:4298 c:6790。
* 曹徽(mentor_of):高堂隆はかつて歴城侯・曹徽の文学を務めた。曹操の喪の期間中、曹徽は哀しまずかえって楽しんだため、高堂隆は礼義をもってこれを諫め、輔導の責を尽くした c:4298。

象徴的な場面

* 剣に手をかけて主を救う:高堂隆は泰山太守・薛悌の督郵を務めていたとき、郡の督軍が薛悌に無礼を働いた。高堂隆は身を挺して、剣に手をかけて督軍を叱り、古人の事跡を鑑として、薛悌の尊厳を守り、その忠勇正直な品格を示した c:4297。
* 明帝を切に諫める:魏の明帝・曹叡が大いに土木を起こし、民を労し財を傷つけた際、高堂隆は幾度も上疏して切に諫めた。彼は周の景王が大鐘を鋳造して周徳が衰微した典故を引き、明帝の行いが亡国の君と異ならないと指摘した c:4299。彼はまた鵲が陵霄闕に巣を作ったことや星孛が大辰に現れたことなどの天象を拠り所として、これが天の彼への警告であると警告し、百役を休罷し、倹約して治国するよう諫め、その国を憂え民を憂え、あえて直諫する忠臣の風範を示した c:15630 c:15631。
* 正朔を改め、服色を易える:高堂隆は、風俗を移し変え、道化を宣明にするには根本から着手すべきであると考え、礼楽を崇び、正朔を改め、服色を易えることを進言した。明帝はその進言を採り入れ、青龍五年春三月を景初元年孟夏四月と改め、服色は黄を尚び、犠牲は白を用いて、地正に順応させ、高堂隆の礼制改革における貢献を体現した c:6789。
* 死に臨んでもなお憂える:史料には高堂隆が死の前の具体的な言行は直接記載されていないものの、その生涯において幾度も明帝を切に諫め、明帝が大いに土木を起こし、天災人禍が頻発する際にもなお個人の安危を顧みず上疏した、この「身を灰にし族を破るとも、なお生くるの年なり。あに忤逆の災を憚りて、陛下をして至言を聞かざらしめんや」 c:15630 という精神は、彼の死に至るまで変わらぬ忠誠と、国家の運命への深い憂慮を十分に体現している。

肖像アーカイブ

人物像

性格
学問は深遠で、天文にもまた精通していた。忠は至って切諫にあり、志は君を正すことにあった。剣に手をかけて主君を救い、死に臨んでもなお社稷を憂えた。
話し方
長編にわたり経書を引き、好んで三王五帝と桀・紂・幽・厲とを対照させた。しばしば災異による警戒の言葉を用いた。
生涯
高堂隆(こうどうりゅう)、泰山(たいざん)平陽(へいよう)の人、字は升平(しょうへい)、魯の高堂生(こうどうせい)の後裔である。丞相軍議掾、平原(へいげん)王傅、給事中、博士、駙馬都尉、陳留(ちんりゅう)太守、散騎常侍、光禄勳などの職を歴任し、しばしば宮室造営の労役を切諫し、臨終においてもなお社稷を憂えた。
逸話
曹魏(そうぎ)の侍中、太史令、光禄勳であり、本伝の伝主の一人である。郊祀を論じて、魏を舜(しゅん)の後裔とした。

人間関係

3 件の関係

名言

全 8 件の台詞 · 厳選 3 件

「昔周景王不儀刑文、武之明德,忽公旦之聖制,旣鑄大錢,又作大鍾,單穆公諫而弗聽,泠州鳩對而弗從,遂迷不反,周德以衰,良史記焉,以爲永鑒。然今之小人,好說秦、漢之奢靡以盪聖心,求取亡國不度之器,勞役費損,以傷德政,非所以興禮樂之和,保神明之休也。」

史 第25回→ 曹叡(そうえい)

この言葉は君主に対し、秦や漢の奢侈を真似て同じ轍を踏むことのないよう戒めたもので、深い歴史的教訓の意義を持つ。

「詩云『惟鵲有巢,惟鳩居之』。今興宮室,起陵霄闕,而鵲巢之,此宮室未成身不得居之象也。天意若曰,宮室未成,將有他姓制御之,斯乃上天之戒也。夫天道無親,惟與善人,不可不深防,不可不深慮。夏、商之季,皆繼體也,不欽承上天之明命,惟讒諂是從,廢德適欲,故其亡也忽焉。太戊、武丁,覩災竦懼,祗承天戒,故其興也勃焉。今若休罷百役,儉以足用,增崇德政,動遵帝則,除普天之所患,興兆民之所利,三王可四,五帝可六,豈惟殷宗轉禍爲福而已哉!臣備腹心,苟可以繁祉聖躬,安存社稷,臣雖灰身破族,猶生之年也。豈憚忤逆之災,而令陛下不聞至言乎?」

史 第25回→ 曹叡(そうえい)

「鵲の巣に鳩が居る」の故事を引き、曹叡(そうえい)が宮室を過度に造営すれば亡国の禍を招くと戒めたもので、極めて高い文化的識別性を持つ。

「凡帝王徙都立邑,皆先定天地社稷之位,敬恭以奉之。將營宮室,則宗廟爲先,廄庫爲次,居室爲後。今圜丘、方澤、南北郊、明堂、社稷,神位未定,宗廟之制又未如禮,而崇飾居室,士民失業。外人咸云宮人之用,與興戎軍國之費,所盡略齊。民不堪命,皆有怨怒。書曰『天聦明自我民聦明,天明畏自我民明威』,輿人作頌,則嚮以五福,民怒吁嗟,則威以六極,言天之賞罰,隨民言,順民心也。是以臨政務在安民爲先,然後稽古之化,格于上下,自古及今,未嘗不然也。夫采椽卑宮,唐、虞、大禹之所以垂皇風也;玉臺瓊室,夏癸、商辛之所以犯昊天也。今之宮室,實違禮度,乃更建立九龍,華飾過前。天彗章灼,始起於房心,犯帝坐而干紫微,此乃皇天子愛陛下,是以發教戒之象,始卒皆於尊位,殷勤鄭重,欲必覺寤陛下;斯乃慈父懇切之訓,宜崇孝子祗聳之禮,以率先天下,以昭示後昆,不宜有忽,以重天怒。」

史 第25回→ 曹叡(そうえい)

民心の向背が国家の興亡を決すると強調し、天象をもって警告を示したもので、古代の政治的英知と天人感応の思想を体現している。

登場回3 回 ▸
  • 史ch.3ch.23ch.25
関係の年表4 条 ▸

史 ch.3

史 ch.25

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は高堂隆(こうどうりゅう)、字は元升(げんしょう)です。いまや最期を迎えようとするにあたり、生涯に述べてきたことを思い返します。私はかつて、自分一人の好悪によって政事に干渉したことはありません。ただ、陛下が天を敬い民をいたわり、礼教の帰す
  • 我、高堂隆(こうどうりゅう)は、字を元(げん)という(史籍に記された資料にはその字が見当たらないため、あえて称することはしない)。陛下が践祚された初めの頃、群臣が祝宴を催そうとした際、私は唐虞(とうぐ)の喪中の禁音や高宗(こうそう)が言葉を
  • 私の名は高堂隆(こうどうりゅう)、字は升平(しょうへい)、泰山郡の平陽(へいよう)の人で、魯国の高堂生(こうどうせい)の後裔である。若い頃は諸生となり、学問をただ章句の飾りにすることをよしとしなかった。経義が名分を支え、行いを正すことができ
生涯の大事3 ▸