言語
曹

曹魏(そうぎ) · 大将军

曹宇(そうう)

字 彭祖

登場回
4
台詞の記録
0
人間関係
2
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

曹宇(そうう)、字は彭祖、魏の武帝曹操(そうそう)の子で、その生母は環夫人である。建安十六年(西暦211年)、彼は都郷侯に封じられた。その後、封爵は度々変更され、建安二十二年(西暦217年)に鲁陽侯に改封された。魏文帝曹丕(そうひ)が即位すると、曹宇の爵位もそれに伴って昇進した。黄初二年(西暦221年)、彼は公に進爵し、翌年、すなわち黄初三年(西暦222年)、下邳(かひ)王に封じられた。黄初五年(西暦224年)、また単父県王に改封された。太和六年(西暦232年)に至り、彼は最終的に燕王に改封された。

曹宇と明帝曹叡(そうえい)は幼少より共に過ごし、曹叡はその者をかなり可愛がり重んじた。曹叡が即位すると、曹宇への寵愛と賞賜は他の諸王をはるかに上回った。青龍三年(西暦235年)、曹宇はかつて朝廷に召された。景初元年(西暦237年)、彼は鄴(ぎょう)に戻った。景初二年(西暦238年)夏、曹宇は再び京都に召された。同年十二月、明帝曹叡が病重く、病情が危急となると、ついに曹宇を大将軍に任じ、その者に後事を処理するよう嘱託した。

しかし、曹宇は大将軍の任命を受けた四日後、責任の重大さを深く感じ、固く辞退した。同時に、明帝曹叡の心意にも変化が生じ、最終的に曹宇の大将軍の職を免じた。『漢晋春秋』の記載によれば、曹叡は当初確かに燕王宇を大将軍に任じ、彼を領軍将軍の夏侯献、武衛将軍の曹爽(そうそう)、屯騎校尉の曹肈、驍騎将軍の秦朗(しんろう)らとともに朝政を輔佐させる計画であった。しかし、中書監の劉放(りゅうほう)と令の孫資(そん し)は秦朗らと日頃から嫌隙があり、後日害を受けることを憂い、ひそかに離間を謀った。当時、曹宇は常に帝の側にあり、劉放と孫資は機会を得られなかった。甲申の日に至り、曹叡の気息が微弱となり、曹宇は殿を下りて曹肈と事を議し、まだ戻らなかった。このとき、ただ曹爽一人が帝の側にあった。劉放はこれを知ると、直ちに孫資と議した。孫資は当初ためらったが、劉放が己の見解を固持し、二人はそこで闖入して曹叡に謁見した。劉放は哭いて訴えた。「陛下の気息は微弱です、もし不諱のことあれば、天下を誰に託されますか。」曹叡は答えた。「卿は燕王を用いると聞かなかったのか。」劉放は直ちに、先帝にかつて藩王は輔政すべからずとの詔令があったと指摘した。そして大げさに、曹肈・秦朗らが帝の病重きとき侍疾の者と戯れ、燕王が兵を擁して南面し、臣子の入内を許さず、竪刀・趙高のごとしと言った。彼はさらに、皇太子は年幼く、外には強敵があり、内には民怨があるとして、陛下は祖宗の基業を「二三の凡士」に託して社稷を危殆ならしめるべきでないと強調した。曹叡は聞いて大いに怒り、誰がその任に堪えるかと問うた。劉放・孫資はこの機に乗じて曹爽を挙げて曹宇に代わらせ、司馬宣王(司馬懿(しばい))に詔して一同に輔政させるよう建議した。曹叡はその進言を採用した。劉放・孫資が退出した後、曹肈が入り、哭きながら力を尽くして諫め、曹叡はそこで曹肈に旨を伝えて停止を命じた。しかし曹肈が殿門を出たばかりのとき、劉放・孫資がまた素早く戻り、再び曹叡を説き、曹叡はまた彼らに従った。劉放は直ちに手詔を起草するよう建議し、曹叡は病重く書く力がなかったので、劉放は進み出て、強いて帝の手を執って詔書を書かせた。その後、劉放は詔書を持って大声で宣布した。「詔あり、燕王宇らの官を免じ、省中に留まることを許さず。」こうして、曹宇・曹肈・夏侯献・秦朗らは抱き合って泣き、各自府邸に戻った。景初三年(西暦239年)夏、曹宇は鄴に戻った。景初・正元・景元の年間、その封邑は累次増加し、総計五千五百戸に達した。その子の曹奐(そうかん)は後に大宗に入継し、常道郷公となった。

演義の中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、曹宇の形象は主に魏明帝曹叡が病重く後事を託す章節に現れる。小説は曹叡が宮中で、毛皇后(めいとうこうごうもうし)が命を索めたために病となり、病情が日に日に重くなる様を描く。彼は侍中光禄大夫の劉放・孫資に枢密院の事務を掌らせ、文帝の子である燕王曹宇を大将軍に召し、太子曹芳(そうほう)を輔佐して摂政させる。

史実では曹宇がかつて大将軍に任じられたが直後に免職された、というのと異なり、小説は曹宇の性格的特徴を重点的に強調する。書中では彼を「人となりが恭倹温和で、この大任に当たることを肯んじず、固く辞して受けない」と描写する。この描写は史料の「宇は深く固く譲った」という記載と符合するが、小説はそれを曹宇が自発的に辞退したものとして処理し、劉放・孫資らに構陥されて免職されたのではないとして、複雑な政治闘争を簡略化している。

その後、曹叡は劉放・孫資に宗族の中で誰が重任に堪えるかを問う。劉放・孫資はかつて曹真(そうしん)の恩恵を受けていたので、曹真の子の曹爽を推薦する。彼らはさらに、曹爽を重用するなら、必ず燕王曹宇を帰国させねばならないと建議する。曹叡は彼らの進言に従う。劉放・孫資は直ちに曹叡の詔書を奉じ、燕王曹宇に告諭して、即日帰国し、詔なくば入朝することを許さないと命じる。燕王曹宇は聞いて、涙を流して去る。小説では、曹宇の離去はより受動的で無奈に見え、しかも史実における劉放・孫資が曹叡に「強いて手詔を作らせた」などの細部には触れず、直接曹宇が罷免されて遣返される筋立てを呈示し、その恭倹温和で権勢を争わない性格を際立たせている。

主要な関係

* 曹魏(serves):曹宇は曹操の子、曹叡の叔として、生涯を通じて曹魏政権の中で宗室藩王を務め、かつて明帝曹叡に後事を託される重任を寄せられた。最終的に輔政できなかったが、その身分は終始曹魏と緊密に結びついていた。
* 環夫人(kin_of):環夫人は曹宇の生母で、曹操の側室の一人でもある。この血縁関係が曹魏宗室における曹宇の地位を確立した。
* 曹叡(kin_of):曹叡は曹宇の甥、すなわち魏明帝である。曹叡は在位期間、曹宇と親密な関係にあり、幼少より彼を可愛がり、即位後はさらに彼を寵愛し、かつて病重きとき彼を後事を託す大臣に立てることを考えた。『三国演義』でも、曹叡の曹宇への信任と託付が体現されている。
* 曹爽(rival):曹叡の託孤の出来事において、曹爽は直接曹宇に代わって輔政大臣となった肝心な人物である。史実では、劉放・孫資が自身の利益のために、曹宇を構陥し、力を尽くして曹爽を推薦し、曹爽が最終的に大権を握った。『三国演義』でも、曹爽の上位は曹宇が「固く辞して受けない」後に、劉放・孫資の推薦によって促されたものである。
* 劉放・孫資(antagonists):この二人の中書大臣は曹叡の託孤の出来事において極めて重要な役割を演じた。彼らは私利のために、曹叡の病重きの機に乗じて、曹叡と曹宇ら宗室藩王を離間し、最終的に曹叡に曹宇を罷免させ、曹爽の輔政に改めさせることに成功して、曹宇の政治的運命に決定的な影響を与えた。

象徴的な場面

* 明帝の託孤と大将軍の辞譲:これは曹宇の生涯で最も象徴的な出来事である。魏明帝曹叡が病重きとき、かつて曹宇を大将軍に任じ、その者に幼主の輔佐を嘱託した。しかし、曹宇は責任の重大さを深く感じ、固く辞退した。その後、劉放・孫資の介入のもとで、曹叡は心を変え、曹宇の官を免じ、曹爽の輔政に改めた。この場面は『三国演義』では曹宇が「恭倹温和で、この大任に当たることを肯んじず、固く辞して受けない」と描かれ、最終的に劉放・孫資に勧められて退き、封国に遣返される。この出来事は曹宇の恭倹温和な性格を示すとともに、曹魏後期の複雑な政治闘争と権力の傾軋を明らかにしている。

* 劉放・孫資が強いて帝の手を執って詔を改める:『漢晋春秋』の記載によれば、曹叡が病重く、気息が微弱なとき、劉放・孫資は曹宇を排し、曹爽を扶植する目的を達するために、極端な手段を取ることもいとわなかった。曹叡が病重く詔書を書けなかったとき、劉放はなんと「すぐに牀に上り、帝の手を執って強いてこれを作った」、曹宇らを罷免する詔書を書いた。この場面は『三国演義』には直接現れないが、曹宇が罷免された背後の陰謀と権術を深く明らかにし、この出来事における劉放・孫資の肝心な役割をも際立たせている。曹宇はこの出来事によって輔政の機会を失ったが、また後日の曹爽と司馬懿の権力闘争に巻き込まれることを避け、おそらくそれゆえに善終を得ることができた。

人間関係

2 件の関係

登場回4 回 ▸
  • 史ch.3ch.20
  • 演ch.106ch.114
関係の年表1 条 ▸

史 ch.20

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は曹宇(そうう)、字は彭祖(ほうそ)という。明帝は若い頃、私とともに過ごし、諸王とは異なる待遇をしてくれた。即位すると、寵愛と賜与は格別に手厚かった。昔の恩遇を思えば、宗室の一員である私が受けた寵愛は並々ならぬものだったと自覚している。い