史書の記録(Historical Record)
鄭渾(ていこん)、字は文公。その生涯や事績は多く正史に載せられ、治世の才と清廉な人格を示している。早年、鄭渾の従兄である鄭泰(ていたい)の子・鄭袤は戦乱を避けて淮南に身を寄せ、袁術(えんじゅつ)は彼を手厚く遇した。しかし、鄭渾は袁術がかならず敗れるという結末を見抜き、そこで鄭袤に立ち去るよう勧めた。当時、華歆(かきん)は豫章郡(よしょうぐん)の太守を務めており、鄭泰とは旧来の交誼があったので、鄭渾は一家を携えて江を渡り、華歆のもとに身を寄せた。曹操(そうそう)は鄭渾の篤実な行いを聞き、これを掾属に召し、のちにさらに下蔡長・邵陵令へと遷した c:3871。
天下がいまだ安定しない時節、百姓はおしなべて農耕を軽んじ、生産を重んじず、生活の困苦のために生まれたばかりの子を遺棄することさえあった。鄭渾は任地において、百姓に漁猟をやめさせ、転じて耕種と養蚕に従事させ、大規模に稲田を開墾するとともに、嬰児の遺棄を厳しく禁じた。当初、百姓は刑罰を恐れて従っていたが、のちに生活がしだいに豊かになると、もはや子を遺棄する者はなくなり、養い育てられた男女の多くは「鄭」を姓とした。続いて、鄭渾は丞相の掾属に辟され、左馮翊へと遷った c:3871。
左馮翊の任にあったとき、梁興(りょうこう)らの賊寇が五千余戸の吏民を糾合して害をなし、各県はこれを防ぎえず、百姓は皆な恐れて郡城の下に寄り住んだ。当時、険要の地に移って自保すべきだと建議する者もいたが、鄭渾は、梁興らの賊寇は最終的に崩壊するであろうし、その追随者の多くは脅されて従っている者であるから、いまこそ広く降伏の道を開き、恩信を宣べ伝えるべきであり、もし険地に自保すれば、かえって弱みを示すことになると考えた。そこで彼は吏民を召集し、城郭を修繕して、防御の備えを整えた。続いて鄭渾は百姓を動かして賊寇を追捕させ、賞罰を明らかにし、百姓と誓約を立てて、得た財物の十のうち七は賊を捕えた者に帰すこととした。百姓はこのために争って賊を捕え、多くの婦女と財物を獲得した。賊を捕えられて妻を失った賊寇たちは、次々に降伏に来た。鄭渾は彼らに、まず掠奪した婦女を差し出させたうえで、はじめて自分の妻を贖い戻させたので、賊寇どうしが互いに掠め合い、その党羽は離散した。彼はまた恩信のある吏民を遣わして山谷の奥深くまで入って降伏を勧めさせ、降る者は引きも切らず、各県の長吏を各々の治所に帰らせて百姓を安んじさせた。梁興らの賊寇は恐れて、残部を率いて鄜城に集まった。曹操は夏侯淵(かこう えん)を遣わして郡府を助けて攻めさせ、鄭渾は吏民を率いて先に城に登り、梁興とその党羽を斬った。このほか彼は靳富らの賊寇をも討ち平らげ、劫掠された夏陽長・邵陵令およびその吏民を救い出した。趙青龍が左内史の程休を殺害したと知るや、鄭渾はただちに壮士を遣わしてこれを斬首させた。前後あわせて四千余戸の百姓が帰附し、これより山賊は平定され、百姓は安んじて生業に就いた。鄭渾はこの功により上党太守に転じた c:3872。
曹操が漢中(かんちゅう)を征したとき、鄭渾を京兆尹に任じた。鄭渾は新たに移住してきた百姓に対し、移居の法を定め、兼併する者を貧弱な者と組ませ、誠信ある者を孤寡な者と隣り合わせ、農耕を奨励し、禁令を明らかにして、奸邪を摘発させた。これにより、百姓は農事に安んじ、盗賊はやんだ。大軍が漢中に入ると、鄭渾は軍糧の輸送において際立った働きをみせた。彼はまた百姓を遣わして漢中で屯田させ、一人の逃亡者も出なかった。曹操はこのためにいっそう彼を賞し、再びこれを丞相掾に召した。曹丕(そうひ)が即位すると、鄭渾は侍御史に任じられ、駙馬都尉を加えられ、のちに陽平・沛郡の二郡の太守に遷った。当時、郡界の地勢は低く窪んで、しばしば水害に苦しみ、百姓は飢饉に遭っていた。鄭渾は蕭・相の二県の境に陂塘(ためいけ)を築き、稲田を開墾した。郡中の百姓は当初これを不便と考えたが、鄭渾はこう説いた。「地勢が低く窪んでいるのは灌漑に適しており、最終的には魚や稲の久しき利が得られる。これこそ百姓を豊かにする根本である」と。そこで彼はみずから吏民を率い、一冬のうちに工事を完成させた。これ以後、連年の豊作となり、耕地の面積は年ごとに増え、租税収入は倍増し、百姓はこのために恩恵を受け、石に刻んで称え、これを「鄭陂」と呼んだ。続いて、鄭渾はまた山陽・魏郡の太守に転じ、その統治のやり方は以前と同様であった。彼はまた郡中の百姓に木材が乏しいことを考え、百姓に課して榆(にれ)の木を植えて垣根とさせ、さらに五果を植えさせた。榆はみな育って垣根となり、五果もまた豊作となった。魏郡の界内に入れば、村落は整然と一様で、百姓の財物は満ち足り、生活は豊かであった c:14914。
演義のなかで(In the Novel)
『三国演義』においては、鄭渾を詳しく文学的に造形した箇所はなく、その事績は小説のなかで言及されていない。したがって、演義の資料からその性格的特徴・重要な台詞・固有の筋立てを取り出すことはできない。鄭渾は演義においては不在の人物であり、その歴史的功績と清廉な人物像は、おもに正史の記載を通じて伝えられている。
重要な関係
* 曹魏(そうぎ)(serves):鄭渾は曹操の幕下で要職を務め、掾属・県令から京兆尹・太守に至るまで、その治績は曹操・曹丕父子に深く嘉せられ、曹魏政権の重要な地方官および幕僚であった c:3871。
* 袁術集団(えんじゅつしゅうだん)(defected_from):鄭渾は袁術がかならず敗れると見抜き、従兄の鄭袤に袁術のもとを去るよう勧め、その政治的先見の明を示した c:3871。
* 華歆(かきん)(friend_of):鄭渾は難を避けるとき華歆のもとに身を寄せ、二人は旧来の交誼があり、華歆は彼に助けを与えた c:3871。
* 梁興(りょうこう)(enemy_of):鄭渾は左馮翊の任にあって、梁興らの賊寇をみごとに平定し、梁興を斬って、当地の百姓を安んじさせた c:3872。
* 靳富・趙青龍(enemy_of):鄭渾はまた靳富を討ち平らげ、趙青龍を斬って、地方の叛乱を平定する卓越した能力を示した c:3872。
* 百姓(benefactor_of):鄭渾は各地で官を務め、農耕を推し進め、水利を興し、盗賊を平定して、百姓を安んじて生業に就かせ、深く慕われ、「鄭」を姓とする百姓まで現れ、また彼のために石に刻んで碑を立て、その功績を称えた c:3871c:14914。
象徴的な場面
* 袁術のもとを去るよう勧め、華歆に身を寄せる:鄭渾は袁術がかならず敗れるという政治情勢を見抜き、断固として従兄の鄭袤に立ち去るよう勧め、江を渡って旧友の華歆に身を寄せた。この行動は彼の先見の明を示すばかりでなく、のちに曹操に身を投じる礎ともなり、その政治生涯の始まりとなった c:3871。
* 農耕を強い、嬰児の遺棄を禁ずる:下蔡長・邵陵令の任にあって、鄭渾は天下いまだ定まらず民生が疲弊した局面を前に、百姓に漁猟を捨てさせ、転じて耕桑に従事させ、稲田を開墾するとともに、嬰児の遺棄を厳しく禁じた。この一連の施策は、初期には強制的であったとはいえ、最終的に百姓の生活を豊かにし、「鄭」を姓とする百姓まで現れるに至り、民を本とし実務を重んじる彼の統治の風格を十分に示した c:3871。
* 広く降伏の道を開き、梁興を平定する:左馮翊の任にあって、梁興らの賊寇の害を前に、鄭渾は衆議を排し、自保を主張せず、「広く降伏の道を開き、恩信を宣べ伝える」策を採るとともに、百姓を組織して城郭を修繕し賊寇を追捕させ、最終的にみごとに梁興を平定し、四千余戸の百姓を帰附させて、地方の安定を回復した。これは彼の卓越した軍事・政治の手腕と、「恩信を保ち、広く降伏の道を開く」という治世の理念を示している c:3872。
* 鄭陂を築き、万民に恵みをもたらす:陽平・沛郡の太守の任にあって、水害と飢饉を前に、鄭渾は百姓の反対を顧みず、みずから吏民を率いて陂塘を築き、稲田を開墾した。この工事は冬のうちに完成し、これ以後、連年の豊作となって、百姓の租税は倍増し、生活は豊かになり、百姓はその功徳を感謝して、石に刻んで称え、これを「鄭陂」と呼んだ。これは鄭渾の卓越した水利の才を示すばかりでなく、一方の民に幸いをもたらし民生を改善した象徴的な功績でもある c:14914。
* 榆や果樹を植えさせ、郷村を美しくする:山陽・魏郡の太守の任にあって、鄭渾は百姓に木材が乏しいことを考え、百姓に課して榆の木を植えて垣根とさせ、さらに五果を植えさせた。この施策は百姓の実際の困難を解決したばかりでなく、村落を整然と一様にし、民の財物を満ち足らせて、その細やかな統治の風格と、民生の福祉への全面的な配慮を示している c:14914。
人間関係
6 件の関係
台詞
- 史 ch.16 §59
“兴等破散,窜在山阻。虽有随者,率胁从耳。今当广开降路,宣喻恩信。而保险自守,此示弱也。”
- 史 ch.16 §60
“地势洿下,宜溉灌,终有鱼稻经久之利,此丰民之本也。”
登場回1 回 ▸
- 史ch.16
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私、鄭渾(ていこん)は、字が史書に見えないため、今はあえて名乗らないことにする。この生涯を通じて守ってきたことを語るなら、民が自活できないのを見れば、田を耕し、桑を育てられるように工夫することにほかならない。天下がまだ定まらない頃は、人心が