史載(Historical Record)
張休(ちょうきゅう)、字は叔嗣、東呉の重臣張昭(ちょうしょう)の子である。彼は少年の頃から才華を露わし、弱冠の年にして諸葛恪(しょかつかく)・顧譚(こたん)らとともに太子孫登(そん とう)の僚友の列に選ばれた。孫権(そん けん)はかつて太子孫登に『漢書』を研読させ、近代の史事を理解させようと望んだ。張昭は学識が博かったが、孫権は彼をあまり煩わせることを望まなかったため、張休にまず張昭のもとで『漢書』を学ばせ、しかる後にその学んだところを太子孫登に伝授させた。張休は教授の過程において、文義を講解するのみならず、条理明晰に事物を分析することができ、大いに孫登に愛された。宴飲のたびに、孫登は常に張休と親しみ、尊を降して彼と楽しみを同じくすることさえあった。
張休は最初に中庶子を務め、後に右弼都尉に転じた。孫権の在位の間、あるとき遊猟して深夜にようやく帰ったことがあった。張休はこのために上疏して諫め、孫権はこれを深く讃え、その奏疏を張昭に示した。黄龍元年、孫権が称帝し、孫登が皇太子に立てられると、張休は諸葛恪・顧譚・陳表(ちんひょう)とともに「四友」と並び称され、そのうち張休は右弼を務めた。
太子孫登が逝去した後、張休は侍中に任じられ、羽林都督に拝され、平三典の軍事を負責し、後にまた揚武将軍に昇進した。しかし、魯王孫覇(そん は)と太子孫和(そん か)の党争において、張休は顧譚・顧承(こしょう)とともに芍陂(しゃくひ)で功を論じた際、魯王孫覇の党羽に誣陷された。彼らは典軍の陳恂と勾結して戦功を虚報したと指弾され、それによって交州(こうしゅう)に流された。当時の中書令の孫弘は人となりが奸佞險悪であり、張休は素より彼に不満を抱いていた。孫弘はこの機に乗じて張休を誣陷し、最終的に孫権は詔を下して張休に死を賜った。時に年四十一であった。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、張休の登場は比較的遅く、その事跡は主に孫権の称帝(そんけんのしょうてい)および太子の冊立をめぐって展開される。彼が初めて現れるのは第九十八回であり、このとき孫権は魏国の戦事が不利であったことから、群臣が称帝を勧進した。張昭は進言し、武昌(ぶしょう)の東山に鳳凰が来儀し、大江に黄龍がしばしば現れるなどの祥瑞に言及して、孫権に登基するよう力勧した。群臣の擁戴のもと、孫権は武昌南郊に台を築いて称帝し、年号を黄龍元年と改めた。
このような背景のもと、孫権は長子の孫登を皇太子に立て、諸葛瑾(しょかつきん)の子の諸葛恪を太子左輔に任じ、張昭の次子の張休は太子右弼に任じられた。演義における張休の描写は比較的簡略で、主にその太子の僚属としての立場に重きを置いており、太子孫登のそばにおける具体的な事跡、たとえば『漢書』を教授したこと、孫権の遊猟を諫めたことなどの史実は詳しく展開されていない。演義はまた張休の後期の遭遇、たとえば誣陷されて交州に流され死を賜るなどの筋立てにも言及しておらず、これは史実の記載と顕著な差異があり、その個人的な性格や能力についても深く刻画していない。演義における張休の造形は、より多く孫権の称帝と太子冊立というこの重大な歴史事件を引き立てるための背景人物としてのものである。
関係性
* 孫登(mentor_of):張休は太子孫登の僚友であり師である。彼は孫登に『漢書』を伝授したのみならず、日常生活においても孫登と親しみ、大いにその愛を受けた。
* 孫覇(enemy_of):魯王孫覇と太子孫和の党争において、張休は孫覇の党羽に誣陷され、最終的に流刑と死を賜ることを招いた。これはその悲劇的な結末の直接の原因である。
* 張昭(student_of):張休はその父張昭のもとで『漢書』を学び、さらにそれを太子孫登に転授した。孫権はかつて張休の諫疏を張昭に示しており、父子の間に一定のつながりがあったことがうかがえる。
* 孫呉(serves):張休は生涯を孫呉(そんご)政権に捧げ、太子の僚友から侍中・羽林都督・揚武将軍に至り、最終的に死を賜るまで尽力した。
* 諸葛恪・顧譚(colleague):張休は諸葛恪・顧譚らとともに太子孫登の僚友であり、「四友」と並び称された。彼らは後期にもともに芍陂の論功の事によって誣陷され流された。
象徴的な場面
* 『漢書』を授読す:孫権は太子孫登に『漢書』を学ばせ、近代の史事を理解させようとした。張昭は学識が博かったが、孫権は煩わせるに忍びなかったため、張休にまず張昭から学ばせ、しかる後に張休が孫登に教授した。張休の講解は明晰で、大いに孫登に愛され、常にこれと親しみ楽しみを同じくした。
* 孫権の遊猟を諫戒す:孫権はあるとき遊猟して深夜にようやく帰り、張休はこのために上疏して諫めた。孫権はこれを大いに讃え、その奏疏を張昭に示し、張休の忠誠と直言を示した。
* 太子右弼:孫権が称帝した後、孫登を太子に立てた。張休は諸葛恪・顧譚・陳表とともに太子「四友」と並び、そのうち張休は右弼を務め、太子を輔佐した。
* 芍陂の論功にて誣せらる:太子孫登が逝去した後、張休は顧譚・顧承とともに芍陂で功を論じた際、魯王孫覇の党羽に典軍の陳恂と勾結して戦功を虚報したと誣陷され、最終的に交州に流されて死を賜った。この事件は張休の人生の悲劇の転換点である。
* 太子右弼(演義独自):『三国演義』において、孫権が称帝した後、孫登を太子に立て、張休は太子右弼に任じられ、諸葛恪の左輔と並んで、ともに太子を輔佐した。演義はただこの任命に言及するのみで、具体的な事跡は展開していない。
人間関係
7 件の関係
登場回4 回 ▸
- 史ch.52ch.59ch.64
- 演ch.98
関係の年表5 条 ▸
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 弱冠の頃、私は東宮に入ることを許され、諸葛恪(しょかつかく)や顧譚(こたん)らとともに、太子の賓友となった。当時、私たちが努めたのは、一時の口論で勝つことではなく、道や学芸を論じ、詩書を侍読することだった。太子が『漢書』を読みたいと望むと、
生涯の大事2 ▸
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