史載(Historical Record)
張承(ちょうしょう)、字は仲嗣、河内修武の人で、その兄の張範(ちょうはん)は字を公儀という。張承は才学で知られ、諸葛瑾(しょかつきん)、歩騭(ほしつ)、厳畯(げんしゅん)らと交わった。漢末に董卓(とう たく)が乱を起こした際、張承はかつて徒衆を糾合し、天下の人とともに董卓を討とうとした。しかし、その兄の張昭(ちょうしょう)(この時は議郎であった)が長安(ちょうあん)から帰ってきて、張承を諫め、当時は董卓を討つ力が懸絶しており、また士卒は訓練を経ておらず、成功しがたいので、帰服を選び、時を待って動くに越したことはないと指摘した。張承はその兄の建議に従い、印を解いて官を辞し、兄の張範とともに揚州へ避難した。
袁術(えんじゅつ)はかつて厚礼で張範を招いたが、張範は病と称して往かず、袁術も強いては求めなかった。袁術はそこで張承を派遣して相見えさせた。袁術は張承に、彼が斉の桓公や漢の高祖のように覇業を成し遂げられるかと尋ねた。張承は答えて言った、「徳にあって強にあらず。よく徳を用いて天下の欲を同じくすれば、匹夫の資に由るといえども、覇王の功を興すは、難しとするに足らず。もし苟くも僭擬し、時に干して動けば、衆の棄つるところ、誰かよくこれを興さん」。袁術は聞いて不悦であった。その後、曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を征討しようとした際、袁術は再び張承に尋ね、曹操が数千の兵力で十万の衆に対抗するのは、身の程知らずと言うべきだと考えた。張承は言った、「漢の徳は衰えたといえども、天命はいまだ改まらず。今、曹公は天子を挟んで天下に令す。百万の衆を敵とするも可なり」。袁術はこれを聞いて、面に不悦の色を露わにし、張承は去った。
曹操が冀州を平定した後、かつて使者を遣わして張範を迎えた。張範は病のため彭城に留まり、張承を派遣して曹操に謁見させ、曹操はそこで張承を表奏して諫議大夫とした。建安十七年(212年)、張承の兄の張範が世を去った。魏国が初めて建てられた時、張承は丞相参軍祭酒を務め、また趙郡太守を領し、在任中に政績が顕著であった。曹操が後に西征した際、張承を征して参軍事とし、張承は長安に至った後に病没した。
さらに、張承は東呉にも記載がある。孫権(そん けん)が驃騎将軍であった時、かつて張承を辟して西曹掾とし、後に長沙(ちょうさ)西部都尉に出任させた。彼はかつて山寇を討ち平らげ、精兵一万五千人を得た。その後、彼は濡須(じゅしゅ)都督、奮威将軍を務め、都郷侯に封じられ、部曲五千人を領した。張承は人となり壮毅忠讜で、人物を見分けるに長け、かつて彭城の蔡款、南陽(なんよう)の謝景を微末の時に引き立て、両人は後にともに国士となり、蔡款は官が衛尉に至り、謝景は豫章郡(よしょうぐん)太守に至った。張承はまたかつて年少の諸葛恪(しょかつかく)を評し、「終に諸葛氏を敗る者は、元遜なり」と予言した。彼は進取に勤め、物類に篤く、およそ親しむに値する人には、戸を訪ねて拝さないことはなかった。赤烏七年(244年)、張承は世を去り、享年六十七、諡号は定侯であった。その子の張震が位を嗣いだ。張承は妻を喪った後、張昭がかつて彼のために諸葛瑾の娘を娶らせようとしたが、張承は諸葛瑾と交わりがあったため躊躇を覚え、孫権がこれを知って説き、張承はそこで諸葛瑾と姻戚を結んだ。張承には一女があり、孫権はこれを子の孫和(そん か)の妻とし、孫権はしばしば孫和に張承へ敬を修めさせ、子婿の礼を執らせた。
演中(In the Novel)
『三国演義』における張承の記載は極めて少なく、第百二回でただ一度言及されるのみで、しかも二句の台詞があるだけである。小説ではその生涯の事跡、性格の特徴、あるいは政治・軍事の才能は詳しく描かれていない。史料における張承が曹魏(そうぎ)と東呉の双方で任職した豊かな経歴と比べると、『三国演義』はこの人物の造形をほぼ完全に無視しており、彼と袁術の対話、曹操への評価、そして東呉における功績や人を見分ける能力にも触れていない。この扱い方は、演義における張承の人物像を非常に薄っぺらなものにしており、史料における「壮毅忠讜にして、よく人物を甄識す」という像とは大きく異なり、また彼と諸葛瑾の姻戚関係にも触れていない。
主要な関係
* 張昭(sibling_of):張承の兄であり、かつて張承が董卓を討つのを諫めた。東呉では、張昭がかつて妻を喪った張承のために諸葛瑾の娘を娶らせようとした。
* 張範(sibling_of):張承の兄であり、張承とともに揚州へ避難し、後に曹操に征された。
* 袁術(advises_in):張承はかつて袁術に謁見に赴き、その覇を称えようとする心と曹操への見方について独自の見解を述べた。
* 曹操(serves):曹操が冀州を平定した後、張承は曹操に表されて諫議大夫となり、後に丞相参軍祭酒、趙郡太守を務め、またかつて征されて参軍事となった。
* 孫権(serves):張承は東呉でかつて西曹掾、長沙西部都尉、濡須都督、奮威将軍などの職を務め、都郷侯に封じられた。孫権はまた張承と諸葛瑾の娘との婚事を成し遂げ、その子の孫和に張承の娘を娶らせた。
* 諸葛瑾(friend_of, father_in_law_of):張承は諸葛瑾と交わりがあり、後に姻戚を結び、その娘を娶った。
* 張震(parent_of):張承の子であり、その爵位を嗣いだ。
* 諸葛恪(predicted_by):張承はかつて諸葛恪を「終に諸葛氏を敗る者は、元遜なり」と予言した。
象徴的な場面
* 袁術を諫める:袁術が斉の桓公や漢の高祖に倣って覇業を成し遂げようとした際、張承は率直に「徳にあって強にあらず」と述べ、袁術の僭越の心を指摘した。袁術が曹操の冀州征討を軽んじた際、張承は曹操が「天子を挟んで天下に令す。百万の衆を敵とするも可なり」と力説し、その人に過ぎた政治的遠見と胆識を示した。
* 人を見分けて才を引き立てる:張承は東呉で任職していた間、かつて彭城の蔡款、南陽の謝景を微末の中から引き立て、両人は後にともに国士となり、その「よく人物を甄識す」という特徴を体現した。
* 諸葛恪を予言する:張承は諸葛恪が年少の頃に、すでにその「終に諸葛氏を敗る者は、元遜なり」と予言し、その人心を洞察する能力を示した。
* 諸葛瑾との婚姻:張承が妻を喪った後、孫権は彼と諸葛瑾の娘との婚事を成し遂げた。これは個人の事件であるだけでなく、孫権の張承への重視と東呉内部の政治的婚姻をも体現している。
人間関係
6 件の関係
台詞
- 史 ch.11 §12→ 袁術(えんじゅつ)
「在德不在彊。夫能用德以同天下之欲,雖由匹夫之資,而興霸王之功,不足為難。若苟僭擬,干時而動,衆之所棄,誰能興之?」
- 史 ch.11 §12→ 袁術(えんじゅつ)
「漢德雖衰,天命未改,今曹公挾天子以令天下,雖敵百萬之衆可也。」
登場回2 回 ▸
- 史ch.11ch.52
関係の年表4 条 ▸
史 ch.11
- 張昭(ちょうしょう)§12
sibling_of
兄弟(昭为承弟)
- 袁術(えんじゅつ)§12
advises_in
范遣承相见,承据义对术"在德不在彊"、"挟天子以令天下"等论
史 ch.52
- 諸葛瑾(しょかつきん)§17
kin_of
承妻丧后娶诸葛瑾女
- 孫和(そん か)§17
kin_of
张承生女,权为子和纳之
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は張承(ちょうしょう)、字は仲嗣(ちゅうし)という。董卓(とう たく)が政を乱した昔を思い返せば、私も徒党を集め、天下の人々とともに董卓を討とうと考えたことがあった。当時は胸に憤りを抱き、忠義の士ならすぐに兵を挙げるべきだと思っていた。し