言語
卓

劉備集団(りゅうびしゅうだん) · 将軍

卓膺(たく よう)

登場回
2
台詞の記録
0
人間関係
0
内面の独白
1

史載(Historical Record)

卓膺(たく よう)、その生平の事跡は正史の記載において極めて簡略で、主に劉備(りゅうび)の入蜀と劉璋(りゅう しょう)との衝突の時期に現れる。『三国志(さんごくし)』の記載によれば、劉備と劉璋の関係が悪化し、双方が兵を交えるに至った際、卓膺は劉璋麾下の一員の将領として、劉備に名指しで兵を率いて劉璋を攻めるよう命じられた。西暦212年、曹操(そうそう)が孫権(そん けん)を征討し、孫権は劉備に救援を求めた。劉備はこの機会に乗じて劉璋に兵馬および物資を求め、東のかた孫権を援けると称した。しかし劉璋はわずか四千の兵力を提供することに同意したのみで、その他の物資も半分しか与えなかった。劉備はこれに大いに不満を抱き、機に乗じて士卒の怨気を煽り、劉璋が財物を吝しみ、功臣に賞を与えようとせず、士大夫にその死力を尽くさせがたいと称した。

この背景のもと、劉備と劉璋の矛盾は日増しに激化した。劉璋が張松(ちょうしょう)を収めて斬ると、双方の嫌隙は完全に成った。劉璋はただちに各関卡の戍守の将領に命じ、もはや劉備と通信せぬようにした。劉備はこれに大いに怒り、劉璋の白水軍督楊懐(ようかい)を召見し、「無礼」を口実にこれを斬殺した。続いて、劉備は黄忠(こうちゅう)と卓膺を遣わし、軍を率いて劉璋に進攻を発した。劉備は自ら軍を率いて関中に到り、諸将士の妻子児女を人質とし、しかる後に黄忠・卓膺らの部とともに涪城(ふうじょう)まで進軍し、この城を占拠した。劉璋はこれを聞き、劉璝・冷苞・張任(ちょうじん)・鄧賢(とうけん)らの将領を遣わして涪城で劉備に抵抗させたが、いずれも撃破され、綿竹(めんちく)へ退守せざるをえなかった。その後、劉璋はまた李厳(りげん)に綿竹の諸軍を督領させたが、李厳はかえって衆を率いて劉備に投降した。劉備の軍はこれによって実力を大いに増し、諸将を分派して周辺の県城を平定させ、最終的に雒城(らくじょう)を囲攻した。卓膺はこの一連の軍事行動において、劉備が初期に益州(えきしゅう)を攻める重要な将領の一人であった。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、卓膺の像と事跡はより具体的に描かれているが、その出場と作用はなお相対的に限られている。彼は主に劉備が益州を攻め、劉璋軍と交戦する章節に現れる。演義では、卓膺は劉璋麾下の一員の将領として造形され、張任らとともに劉備の進攻に抵抗する。しかし史実とは異なり、演義は卓膺の投降の過程について詳細な文学的加工を行っている。

第64回において、劉備の軍師龐統(ほうとう)は計を設けて張任を誘い追撃させた。張任は計に中った後、魏延(ぎえん)と黄忠の二路の伏兵に挟撃された。魏延の軍は芦の茂みのなかから突然斬り出て、長槍で乱れ突き、黄忠の軍は芦のなかに埋伏して、もっぱら馬の蹄を斬り剁し、張任の騎兵をことごとく倒れさせて、俘らえた。そして卓膺は、張任が計に中って囲み捕らえられるのを目撃した後、抵抗を続けることを選ばず、即断して趙雲(ちょううん)の軍に投降した。演義は明確に「もとより卓膺、張任の計に中るを見て、すでに趙雲の軍前に投じて降り、一斉に皆大寨に到った」と指摘している。この筋立ては卓膺の結末を説明するのみならず、彼の肝心な時における選択、すなわち戦局が不利なとき、より強大な勢力に帰順する選択を際立たせた。演義における卓膺は、出番こそ多くないものの、その投降の場面は劉備集団(りゅうびしゅうだん)の勝利に一筆を加え、また劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)の潰敗をより迅速かつ徹底したものに見せた。演義は卓膺が投降した後の具体的な行方や後続の功績を深く掘り下げてはおらず、その主たる作用は劉備軍の破竹の勢いを引き立てることにある。

主要な関係

* 劉璋集団(旧属):卓膺は当初劉璋麾下の将領であり、劉備の入蜀初期に、命を奉じて劉備の進攻に抵抗した。彼は劉璝・冷苞・張任・鄧賢らとともに劉璋に遣わされ、涪城で劉備軍を防いだ。
* 劉備集団(帰順):劉備が益州を攻める過程において、卓膺は最終的に劉備に帰順することを選んだ。史料には劉備が黄忠・卓膺に兵を勒して璋に向かわせたと記され、これは卓膺が劉備の入蜀初期にすでに劉備麾下にあったことを示す。一方『三国演義』は、彼が張任の計に中り俘らえられた後、趙雲の軍に投降した筋立てを具体的に描いている(演義独自)。これによって彼は劉璋の部下から劉備集団の一員へと転じ、劉備の益州攻略に力を貢献した。
* 黄忠(同僚):史実において、劉備は黄忠と卓膺をともに遣わして兵を率いて劉璋を攻めさせており、両人が劉備軍において肩を並べて戦った同僚であったことを示す。
* 趙雲(受降者):『三国演義』において、卓膺は張任が計に中った後、趙雲の軍に投降した(演義独自)。これによって趙雲は卓膺が劉備集団に帰順する鍵となる人物となった。

象徴的な場面

* 命を奉じて劉璋を攻める:劉備と劉璋の関係が破裂した後、劉備は黄忠・卓膺を遣わして軍を率いて劉璋に進攻を発し、一路涪城まで進軍してこの城を占拠した。これは卓膺が正史において最も明確な軍事行動であり、彼が劉備麾下の将領たる身分を標示する。
* 涪城の戦い:卓膺は劉備軍が涪城で劉璋軍と交戦するのに参加した。史料は卓膺のこの戦いにおける具体的な表れを詳しく述べてはいないが、劉璋が遣わした軍(張任らを含む)がみな劉備軍に撃破され、綿竹へ退保したことを明確に指摘している。卓膺は劉備軍の一員として、疑いなくこの重要な勝利に参加した。
* 張任が計に中った後、趙雲に投降:『三国演義』において、卓膺の象徴的な場面は、彼が張任の計に中り俘らえられるのを目撃した後、ただちに趙雲の軍に投降したことである(演義独自)。この筋立ては卓膺の戦局が不利なときの明智な選択を示すのみならず、劉備集団の勝利に劇的性を加え、また彼の劉備の入蜀過程における帰順の細部を具体化した。

人間関係

0 件の関係

无

登場回2 回 ▸
  • 史ch.32
  • 演ch.64
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私の名は卓膺(たく よう)、字は記録に見えない。昔、先主(せんしゅ)に従って蜀へ入った頃を思い返すと、事態は一朝にして急変したわけではなかった。先主は劉璋(りゅう しょう)に兵と兵糧を求め、曹公(そうこう)が呉を征討し、荊州(けいしゅう)に