
史書の記録(Historical Record)
馬謖(ばしょく)、字は幼常、襄陽(じょうよう)宜城の人で、蜀漢(しょくかん)の侍中・馬良(ばりょう)の弟である。彼は早くに先主・劉備(りゅうび)に従って蜀に入り、綿竹(めんちく)・成都(せいと)の県令、ならびに越巂太守などの職を歴任した。馬謖は才覚が人並み外れており、とりわけ軍事の謀略を論ずることを好み、丞相・諸葛亮(しょかつりょう)に深く重んじられ寵愛された。諸葛亮はしばしば彼と夜を徹して語り合い、軍国の大事を論じ合った。
しかし、先主・劉備は臨終の際、諸葛亮に対して一言の戒めを残し、馬謖は言葉が実を超えており大任を委ねてはならぬとして、よく見極めるよう諭した。それにもかかわらず、諸葛亮は先主の戒めに完全には従わず、依然として馬謖に極めて高い期待を寄せていた。建興三年(225年)、諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)の折、馬謖は彼に「心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とする」という策を献じ、徳をもって人を服させ、孟獲(もうかく)を赦免して南方の長久の安定を期すよう進言した。諸葛亮はこの進言を採り入れ、南方の少数民族を心から悦んで服従させることに成功し、その存命中ふたたび叛乱は起こらなかった。
建興六年(228年)、諸葛亮は初めて北伐を行い、祁山(きざん)へ出兵した。当時、蜀漢の軍中には魏延(ぎえん)・呉壱(ごいつ)など経験豊富な宿将も少なくなく、多くの者が彼らを先鋒とすべきだと考えていた。しかし諸葛亮は衆論を退け、馬謖を督軍に抜擢し、大軍を率いて前線で魏将・張郃(ちょうこう)と街亭(がいてい)で交戦させた。この重要な戦いにおいて、馬謖は諸葛亮の配置と指揮に従わず、行動を誤り、ついに張郃に大敗し、蜀軍の兵卒は離散した。諸葛亮はこのため拠点を失い、やむなく漢中(かんちゅう)へ退軍した。
街亭の敗北の後、馬謖は獄に下された。最終的に、諸葛亮は軍紀を厳粛にするため、涙を揮って馬謖を斬り、諸将に謝した。馬謖は獄中で世を去り、年わずか三十九であった。諸葛亮はこれを深く惜しみ、自ら上疏して三等の降格を願い出て、人を用い誤った責任を負った。馬謖は臨終の前、諸葛亮に書を送り、諸葛亮への父子の情誼を表し、諸葛亮が舜帝が鯀を殛し禹を用いた義に倣い、この事によって平生の交わりを損なわぬよう望んだ。諸葛亮もまた馬謖の遺児を生前と同じように世話した。しかし、後世の史家、たとえば習鑿歯はこの事について論評し、諸葛亮が智計の士を殺し、才と徳を兼ね顧みることができなかったのは、彼が天下を統一できなかった原因の一つだと考えた。
演義の記述(In the Novel)
『三国演義』においては、馬謖の人物像により多くの文学的色彩と劇的性が与えられ、とりわけ諸葛亮との関係および街亭の戦いの細部において、史実から増補され乖離している。
演義における馬謖の初登場は、諸葛亮の南征の折である。彼は素袍白衣をまとい、兄・馬良のために喪に服していた。諸葛亮が彼に蛮を平定する策を問うと、馬謖は「心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とし、心戦を上とし、兵戦を下とする」という方略を提示し、諸葛亮の深い賞賛を得て、これによって参軍に任じられた。南征の過程で、馬謖は幾度もその智謀を発揮した。たとえば孟獲が弟の孟優(もうゆう)を遣わして偽りの降伏をさせたとき、馬謖は密かに紙片に書く方法をもって、諸葛亮と心が通じ合うように孟優の計略を見破った。
北伐の前夜、馬謖はさらに諸葛亮に計を献じ、司馬懿(しばい)と曹叡(そうえい)の間の猜疑を利用して流言を広め、曹叡自らに司馬懿を除かせて魏国の実力を削ぐよう進言した。孟達(もうたつ)が魏に反して蜀に投じようとしたとき、馬謖もまた諸葛亮に急ぎ書を修めて孟達に司馬懿への警戒を促すよう進言したが、諸葛亮は司馬懿の行動が迅速で、孟達は成功しがたいと予見した。これらの場面はいずれも演義における馬謖の「軍計を論ずるを好む」人物像をさらに強めているが、そのうち流言を用いて司馬懿を除くといった一部の細部は、史書には明確な記載がない。
街亭の戦いは演義における馬謖の最も濃密に描かれた一筆である。演義は、馬謖が兵書を読み込んだことを自負し、副将・王平(おうへい)の諫言を聞かず、当たり所の要衝を占めるのではなく、あえて大軍を山上に屯営させた様子を詳細に描いている。彼は王平を「女子の見」とまで嘲笑し、「死地に置きてしかる後に生く」という兵法の理論を引いて自らの決断を弁護した。司馬懿が馬謖の配置を見破り、蜀軍の水源を断つと、蜀軍は戦わずして自ら乱れた。馬謖は山上で魏軍が山野を埋め尽くすのを見て、兵卒は胆を失い、誰一人として山を下って突撃する勇気を持たなかった。最終的に街亭は失われ、馬謖は大敗して帰った。
斬首される前、演義では馬謖は自ら縛して帳前に跪き、孔明は彼が軍令に背いて大敗を招いたことを痛烈に叱責した。馬謖は諸葛亮に父子の情に免じ、舜帝が鯀を殛し禹を用いた義に倣うよう泣いて願い、死すとも恨みはないと表した。諸葛亮が涙を流して馬謖を斬る場面は、「泣いて馬謖を斬る(ないてばしょくをきる)」という故事を頂点へと押し上げ、諸葛亮の法を厳正に執行する姿勢と、才を愛し惜しむ心との矛盾を深く描き出した。演義はこれらの細部を通じて、馬謖の「言葉が実を超える」性質と「自負」を余すところなく描き、街亭の敗北をより悲劇的な色彩あるものとした。
主要な関係
* 蜀漢(serves):馬謖は蜀漢の重要な官員であり、綿竹・成都の県令、越巂太守などの職を歴任し、諸葛亮の北伐の期間には参軍を務めた。
* 張郃(enemy_of):街亭の戦いにおいて、馬謖の率いる蜀軍は魏将・張郃の軍と交戦し、最終的に張郃に大敗した。
* 馬良(sibling_of):馬謖は蜀漢の侍中・馬良の弟である。演義では、馬謖の初登場の際、馬良が亡くなったばかりで喪に服していた。
* 諸葛亮(advises_in):諸葛亮は馬謖を深く重んじ、しばしば彼と夜を徹して軍計を語った。馬謖もまた諸葛亮の南征のために「心を攻めるを上とする」策を献じた。しかし、諸葛亮は最終的に街亭の敗北のため涙を揮って馬謖を斬り、二人の関係は悲劇をもって終わった。
* 劉備(advises_in):劉備は臨終の際、諸葛亮に対し、馬謖は言葉が実を超えており大いに用いてはならぬと戒めた。
* 王平(advises_in):演義では、王平は馬謖の副将であり、馬謖に山上に屯兵せぬよう幾度も諫言したが、馬謖は聞き入れなかった(演義のみ)。
* 司馬懿(enemy_of):演義では、馬謖はかつて司馬懿を除く計を献じ、街亭の戦いで司馬懿と対陣した(演義のみ)。
象徴的な場面
* 南征で「心を攻めるを上とする」を献策:諸葛亮の南征の折、馬謖は「心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とし、心戦を上とし、兵戦を下とする」策を提示し、孟獲を赦免して南方を服させるよう進言した。この計は諸葛亮の深い賞賛を得て採用された。演義では、この場面は馬謖が初めてその智謀を発揮し、これによって諸葛亮に参軍に任じられたものとして描かれている。
* 街亭の戦いで令に背き失陥:諸葛亮の北伐において、馬謖は命を受けて街亭を守備した。しかし彼は諸葛亮の指揮に背き、副将・王平の諫言を聞かず、あえて山上に屯兵し、最終的に魏将・張郃(演義では司馬懿)に大敗し、街亭の失陥を招き、蜀軍は漢中へ退いた。これは馬謖の生涯で最も重要かつ最も論争のある出来事である。
* 泣いて馬謖を斬る:街亭の失陥の後、馬謖は獄に下された。諸葛亮は軍紀を厳粛にするため、内心は痛惜しながらも、最終的に馬謖を斬るよう命じ、自ら上疏して罪を請うた。この出来事は「泣いて馬謖を斬る」の故事となり、諸葛亮の法を厳正に執行する姿勢と才を愛し惜しむ心との矛盾を深く体現している。
* 臨終の遺書:馬謖は臨終の前、諸葛亮に書を送り、諸葛亮への父子の情誼を表し、諸葛亮が舜帝が鯀を殛し禹を用いた義に倣い、この事によって平生の交わりを損なわぬよう望んだ。この細部は史伝と演義のいずれにも記載があり、馬謖の諸葛亮への深い感情を示している。
* 司馬懿と曹叡を離間する計を献ずる:演義では、馬謖はかつて諸葛亮に計を献じ、流言を広めることで曹叡に司馬懿を猜疑させ殺させ、魏国の実力を削ごうとした(演義のみ)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 馬謖(ばしょく)は才器が人並み優れ、軍略を論じることを好んだが、言葉が実を上回り、自負して軽率で、同僚の言を聞かなかった。彼は謀に長け、かつて離間の計を献じて曹叡(そうえい)に司馬懿(しばい)を疑わせ、また諸葛亮(しょかつりょう)を父のように仰いだ。
- 話し方
- 彼は軍略を論じることを好み、昼から夜まで語り続け、兵法の格言を引くことを好んだ。たとえば「心を攻むるを上と為し、城を攻むるを下と為す」や「これを死地に置きて後に生く」などである。
- 生涯
- 馬謖(ばしょく)は馬良(ばりょう)の弟で、荊州(けいしゅう)従事として先主に従い蜀に入り、かつて綿竹(めんちく)・成都(せいと)令、越雋太守を務めた。彼は諸葛亮(しょかつりょう)に重んじられ、参軍とされた。建興六年、諸葛亮が軍を祁山(きざん)へ出したとき、衆の反対を押して馬謖を抜擢し前鋒として大軍を統べさせたが、魏の将張郃(ちょうこう)と街亭(がいてい)で戦って郃に破られ、兵卒は離散し、亮は軍を退いて漢中(かんちゅう)へ還った。馬謖は下獄して物故し、年は三十九であった。
- 逸話
- 劉備(りゅうび)は臨終に諸葛亮(しょかつりょう)へ、馬謖(ばしょく)は言葉が実を上回るゆえ大いに用いてはならぬと戒めたが、亮はそうは思わなかった。馬謖は街亭の戦い(がいていのたたかい)で敵の旗を望んで敗走し、街亭(がいてい)の失陥を招いた。
人間関係
13 件の関係
名言
全 20 件の台詞 · 厳選 3 件
「愚有片言,望丞相察之;南蠻恃其地遠山險,不服久矣;雖今日破之,明日復叛。丞相大軍到彼,必然平服;但班師之日,必用北伐曹丕;蠻兵若知內虛,其反必速。夫用兵之道:『攻心為上,攻城為下;心戰為上,兵戰為下。』願丞相但服其心足矣。」
この一言は「心を攻むるを上と為し、城を攻むるを下と為す」と説き、千古に伝わる軍事思想となった。
「某自幼熟讀兵書,頗知兵法。豈一街亭不能守耶?」
馬謖(ばしょく)が兵書を熟読していることを自負するさまは、その驕り高ぶり、現実から遊離した性格の典型的な表れである。
「汝莫亂道!孫子云:『置之死地而後生。』若魏兵絕我汲水之道,蜀兵豈不死戰?以一可當百也。吾素讀兵書,丞相諸事尚問於我,汝奈何相阻耶?」
兵法の「これを死地に置きて而る後に生く」を曲解しており、机上の空論に走り、剛愎で我意を通す姿を描き出している。
登場回13 回 ▸
- 史ch.17ch.35ch.39ch.41ch.43
- 演ch.52ch.85ch.87ch.88ch.91ch.94ch.95ch.96
関係の年表6 条 ▸
史 ch.39
- 張郃(ちょうこう)§16
enemy_of
与魏将张郃战于街亭为郃所破
演 ch.87
- 馬良(ばりょう)§12
sibling_of
马良之弟,为兄新亡素袍挂孝
演 ch.88
- 諸葛亮(しょかつりょう)§13
advises_in
暗书所见以呈,与孔明谋同
演 ch.91
- 諸葛亮(しょかつりょう)§12
advises_in
献反间计离间魏君臣
演 ch.95
serves
自请守街亭,立军令状
- 馬良(ばりょう)§7
sibling_of
兄弟("乃馬良之弟馬謖也")
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は幼いころから軍略を論じるのを好み、丞相(じょうしょう)は私を深く買い、ひとかたならぬ者として、しばしば招いて語り合い、昼から夜に及ぶこともあった。先主(せんしゅ)が臨終の際、私の言葉は実力以上であり、大きな役目を任せてはならない、よく見
- 私は幼い頃から兵書を読み込み、胸中では常に自らの策謀を誇っていた。丞相が誰か街亭(がいてい)の守備に赴く者はいないかと尋ねたとき、私は進んで志願した。丞相はこの地には城郭も険しい地勢もなく、街亭を失えば大軍の退路に響くと、繰り返し言い聞かせ
- 私は幼常といい、幼いころに聞き、見たことも、細かな経緯まですべて一つ一つ覚えているとは限らない。今、昔のことを思い返すと、人は世に身を立てる以上、才能や思慮は振る舞いと釣り合っていなければならないと、しばしば感じる。兄の馬良(ばりょう)が亡
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