史載(Historical Record)
孫韶(そん しょう)、字は公礼、その伯父の孫河(そん か)は字を伯海といい、本姓は兪氏であったが、後に孫策(そん さく)に愛されたことから孫姓を賜り、孫氏の族譜に列せられた c:1455。孫河は孫堅(そん けん)の麾下で征討し、後にまた孫策に従って呉・会を平定し、また孫権(そん けん)に従って李術を討伐し、功によって威寇中郎将に拝せられ、廬江(ろこう)太守を領し、京城に屯兵した。孫韶は十七歳のとき、伯父孫河の余部を継承し、京城の修繕に着手し、楼櫓を築き、器械を整備して敵軍に備えた c:5174。
孫権は京城に異動があると聞き、椒丘から戻り、丹楊を経て、軍を引いて呉へ帰った。彼は夜間に京城の下に至って営を構え、試探的な攻撃によって城中の守兵を驚かそうとした。城中の将士はただちに城に登って戦に備え、歓呼の声は天地を震わせ、城外へ向けて矢を射た。孫権が人を遣わして諭してから、守兵はようやく射撃を止めた。翌日、孫権は孫韶を召見し、その働きを大いに讃え、ただちに承烈校尉に任じ、孫河の旧部を統領させ、曲阿・丹徒(たんと)二県の食邑を享受させ、自ら長吏を設置することを許し、一切の待遇はみな孫河の旧制と同じとした c:5174。
この後、孫韶は広陵(こうりょう)太守、偏将軍を歴任した。孫権が呉王を称すると、孫韶は揚威将軍に昇進し、建徳侯に封ぜられた。孫権が称帝してからは、孫韶はまた鎮北将軍に任じられた。孫韶は辺疆の将領として数十年に及び、士卒を養うことに長けていることで名高く、士卒はみな彼のために死力を尽くすことを願った。彼は常に辺境を警戒し斥候を遠くへ派遣することを要務とし、敵軍の動向をあらかじめ洞察して備えをなすことができたため、敗績はまれであった c:5174。彼の治めるもとで、青・徐・汝・沛などの地には帰附する者が多く、淮南の沿江の屯候も次々と兵を撤して遠くへ移り、徐・泗・江・淮の間の数百里の地が無人となり、一つの天然の屏障を形成した。
孫権が西征した後、武昌(ぶしょう)に遷都し、孫韶はこの間十余年にわたって入朝して覲見しなかった。孫権が建業(けんぎょう)へ遷り戻ってようやく、孫韶は朝見することができた。孫権は彼に青・徐の各所の要害の屯兵の状況、ならびに遠近の人馬の多寡、魏国の将帥の姓名などを尋ねたが、孫韶はみな詳細に答え、問うものには必ず対えた。彼は身長八尺、仪態は端荘にして雅致であった。孫権はこれを見て、喜んで言った、「我は久しく公礼を見ざりしが、彼の進歩がかくも大なるとは思わなかった」と。続いて彼に幽州(ゆうしゅう)牧を領せしめ、假節を賜った c:5174。赤烏四年、孫韶は逝去した。その子孫越が位を嗣ぎ、官は右将軍に至った。孫越の兄の孫楷(そん かい)は官が武衛大将軍・臨成侯に至り、後に孫越に代わって京下督となった。孫楷の弟の孫異(そん い)は官が領軍将軍に至り、孫奕は宗正卿、孫恢は武陵(ぶりょう)太守となった。天璽元年、孫楷は宮下鎮驃騎将軍に徴召された。呉が平らげられた後、孫楷は晋に降り、渡遼将軍に任じられ、永安(えいあん)元年に逝去した c:5174。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、孫韶の身分は孫堅の過房養子とされ、本姓は兪氏、字は公礼と設定されている c:1456。この設定は、史実における孫韶が孫河の甥であり、孫河が孫姓を賜ったという記載とは異なっており、演義は「兪氏の一子を過房とする」ことによって彼を直接孫堅の家族体系に組み入れ、孫氏との血縁的なつながりを強化している。
孫韶が演義において初めて登場するのは第七回であり、孫堅が劉表(りゅう ひょう)を討伐しようと準備していたとき、孫静(そん せい)が孫堅に軽々しく兵を起こさぬよう諫めたが、孫韶は孫堅の養子として孫策とともに馬前に列拝したものの、直接の言行の描写はなかった c:1456。
孫韶が演義において最も際立つ働きを見せるのは第八十六回である。当時、曹丕(そうひ)の大軍が国境に迫り、呉王孫権は徐盛(じょせい)を都督に命じ、兵を提げて魏を拒んだ。孫韶は揚威将軍として、年若く気盛んで、胆勇は人に過ぎ、自ら進んで申し出て、三千の精兵を率いて江を渡り、広陵で曹丕を迎え撃とうとした。彼は広陵が自分の旧守の地であり地理に詳しく、もし早めに敵を迎えなければ、曹丕の兵が長江に臨むのを待っては、東呉は危ういと考えた c:1457。しかし、徐盛は曹丕の勢いが大きく、かつ猛将を先鋒としているため、江を渡って敵を迎えるべきではなく、敵軍が北岸に集結するのを待ってから破る計を行うべきだと主張した。孫韶はこれに服さず、再三にわたって己の見を堅持し、徐盛を怒らせ、徐盛は彼を斬首して軍法を正そうとした c:1457。
肝心なときに、孫権が報せを聞いて駆けつけ、孫韶を救い出した。孫韶は自分の戦略的な考慮を泣いて訴え、徐盛の決策の誤りを主張した。孫権は孫韶を救い出したものの、徐盛は軍法は廃すべきではないと堅持した。孫権は、孫韶は本姓は兪氏であるが、その兄孫策が彼を甚だ愛して孫姓を賜り、かつ孫韶は東呉に功労があるため殺すに忍びないと説明し、自分の顔に免じて、しばらくその死罪を免じてほしいと徐盛に請うた c:10113。しかし、孫韶はそれを意に介さず、かえって厲声して、自分はただ兵を引いて曹丕を破ることだけを認め、たとえ死んでも徐盛の見識には服さないと表明し、これによって徐盛は顔色を変えた。孫権は孫韶を叱って退け、徐盛に対し、たとえ孫韶がいなくても東呉に損はなく、今後は彼を用いないと表明した c:10113。
しかし、その夜、孫韶は本部の三千の精兵を引いて、ひそかに江を渡って去った。徐盛は孫韶に万一のことがあるのを心配し、丁奉(ていほう)に三千の兵を率いて江を渡り接応させた c:10113。後に、曹丕は撤退の途中で、孫韶の伏撃に遭った。孫韶は軍を率いて斬り出で、魏兵は抵抗することができず、損失は惨重で、溺死する者は無数であった c:1458。この筋立ては史書には記載がなく、演義が孫韶の勇猛さと戦略的眼識を造形するために虚構したものである。
関係性
* 孫河(kin_of):史実において、孫韶は孫河の甥であり、孫河の部曲と食邑を継承した c:5174。演義においては、孫河は言及されず、孫韶は直接孫堅の過房養子と設定され、孫河との関係は薄められている。
* 孫堅(kin_of):『三国演義』において、孫韶は孫堅の過房養子とされ、孫策・孫権らと同輩であり、孫氏一族における地位が強化されている c:1456。史実において、孫韶と孫堅には直接の血縁関係はなく、伯父の孫河を通じて孫氏とつながっている。
* 孫権集団(serves)/孫呉(serves):史実においても演義においても、孫韶は孫権集団(そんけんしゅうだん)の重要な将領であり、孫呉(そんご)政権のために尽力した。史実においては、彼は長く辺疆を鎮め、功勲は卓著で、孫権に大いに重んじられた c:5174。演義においては、徐盛と衝突したものの、最終的にはなお孫権のために戦功を立てた c:1458。
* 孫策(kin_of):史実において、孫策が孫河を愛してその孫姓を賜ったことが、間接的に孫韶と孫氏のつながりを促した c:1455。演義においては、孫権が孫韶のために弁護した際に「孤が兄は甚だこれを愛し、孫姓を賜う」と述べ、孫策の孫韶への愛情を示唆している c:10113。
* 徐盛(colleague):演義において、孫韶と徐盛は曹丕に抗する戦略をめぐって深刻な意見の相違を生じ、危うく斬られそうになった。この衝突は演義における孫韶の性格造形の鍵となる筋立てである c:1457。
象徴的な場面
* 京城の修繕と孫権の賞識:孫韶は十七歳のとき、伯父孫河の余部を継承し、京城を修繕して敵を防ぐ備えをした。孫権が夜に京城を襲って試探すると、孫韶は指揮よろしきを得て孫権を大いに讃えさせ、承烈校尉に拝されて旧部を統領した c:5174。この場面は孫韶の少年にして老成し、危に臨んで乱れない軍事的才能を示している。
* 辺疆を鎮守し、斥候を遠くへ派して備う:孫韶は辺将として数十年、士卒を養うことに長けていることで知られ、常に辺疆を警戒し斥候を遠くへ派遣することを務めとし、あらかじめ敵情を知って備えをなしたため、敗績はまれであった。彼の治めるもとで、青・徐・汝・沛などの地には帰附する者が多く、淮南の沿江の屯候はみな兵を撤して遠くへ移り、数百里の無人区を形成した c:5174。これは孫韶の卓越した辺防の策略と軍事的智慧を体現している。
* 孫権に朝覲し、対答流るるが如し:孫権が西征後に武昌へ遷都すると、孫韶は十余年見えなかった。孫権が建業へ遷り戻ると、孫韶は朝覲することができた。孫権が青・徐の諸屯の要害、遠近の人馬の衆寡、魏将帥の姓名などを尋ねると、孫韶はみな詳細に答え、問うものには必ず対え、孫権を大いに喜ばせ、幽州牧・假節を加封させた c:5174。この場面は孫韶の軍情への精通と人に過ぎる記憶力を示している。
* 広陵に戦いを請い、徐盛と争う:曹丕の大軍が国境に迫ったとき、孫韶は自ら進んで申し出て、三千の精兵を率いて江を渡り、広陵で曹丕を迎え撃とうとし、自分は広陵の地理に詳しく、座して死を待つべきではないと考えた。彼は都督の徐盛と戦略において深刻な意見の相違を生じ、己の見を堅持し、危うく徐盛に斬首されそうになった c:1457。この場面は演義における孫韶の性格造形の見せ場であり、その年若く気盛んで胆勇人に過ぎ、軍事への執着を示している(演義独自)。
* 夜に長江を渡り、曹丕を伏撃す:孫韶は徐盛の反対を顧みず、夜に本部の三千の精兵を率いてひそかに江を渡った。曹丕の撤退の途中、孫韶は軍を率いて斬り出で、魏軍に重創を与え、曹丕を狼狽して逃げ走らせた c:1458。この場面は孫韶の果敢さと軍事的実行力を際立たせ、また彼に実戦における勝利をもたらした(演義独自)。
人間関係
5 件の関係
名言
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「吾手下自有三千軍馬,更兼深知廣陵路勢,吾願自去江北,與曹丕決一死戰。如不勝,甘當軍令。」
この一句は孫韶(そん しょう)の勇猛さと気概を示し、国のために身を捧げる覚悟を表している。
「臣往年在廣陵,深知地理;不就那裏與曹丕廝殺,直待他下了長江,東吳指日休矣!」
孫韶(そん しょう)の地理への熟知と、戦局への深い洞察を強調している。
「據吾之見,只是引軍破曹丕!便死也不服你的見識!」
孫韶(そん しょう)の剛烈な性格を体現し、自説を貫き、権勢を恐れぬ様を示している。
登場回3 回 ▸
- 史ch.51
- 演ch.7ch.86
関係の年表4 条 ▸
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は孫韶(そん しょう)、字は公礼(こうれい)といい、もとの姓は俞(ゆ)であった。伯父の河蒙(かもう)は孫策(そん さく)から姓を賜り、孫氏の属籍に列せられた。私もその姓を受け継いだ。このことを思えば、姓を改めたのは、ただ書類上の変更ではな
生涯の大事2 ▸
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