起因
「山越(さんえつ)」は単一の民族ではなく、孫呉(そんご)の版図内で長期にわたって戸籍と租税の体制から逸脱してきた山岳部族・役を逃れた流民・豪族の部曲(ぶきょく)が混在した存在だった。丹陽郡(治所は宛陵(えんりょう)、現在の宣城(せんじょう)一帯)はその典型であり、呉郡・会稽(かいけい)・新都(しんと)・鄱陽の四郡と接し、山谷が数千里にわたって連なり、山中の民は自ら銅鉄を精錬し武を好み、機会があれば外に出て略奪を行った [c:17748]。孫策(そんさく)・孫権(そんけん)父子が江東を開拓して三十年、何度も兵を出して討伐したが、外縁部の平民を捕らえるのがやっとで、深山の腹地の壮丁を得ることはできなかった。兵源として活用することもできず、郡県の秩序を乱し続けた。諸葛恪(しょかつかく)は嘉禾三年(234年)に自ら丹陽太守・撫越将軍を志願し、江東内部で「孫策の開拓を再現する」意図のもと、三年間で中央が動員できる山岳兵団を作り上げようとした。
関与する勢力
呉側の主導者は諸葛恪本人であり、背後では父の諸葛瑾(しょかつきん)が朝中から支援し、孙権が節鉞(せつえつ)と編制の白紙委任状を直接与えた。軍事的な執行は丹陽周辺の四郡——呉郡・会稽・新都・鄱陽——の太守が同時に辺境を守備し、山越への包囲を形成することで担われた。山越側には統一された首領がなく、散点的な部落と坞堡(うほ)式集落が分布し、伝統的な抵抗方式は山の地形を利用した散戦と遊撃略奪によって官軍を退かせることだった。諸葛恪の戦略はまさにこの「中心のない」構造を狙ったものだった。斬るべき主帥がいないなら、「資源と時間」の消耗戦に切り替えればよい。
重要な転換点
重要な転換点は諸葛恪が着任した第一年にあった。彼は前任者のように直接山中へ兵を出して討伐するのではなく、孫権に上書して「内において兵力を整え、外において辺境の守備を厳しくする」ことを求め、各県に主動的な追撃を停止させて、山の入り口と谷地に要塞を築くことに兵力を集中し、山越を山の奥へ追い返した [c:17748]。秋に入り山の田の穀物が実る頃になると、各部の官軍に山の中へ攻め込まないよう命じ、山外の田の熟した穀物だけを奪い取り、まだ刈り取られていない山田には火をつけた。翌年の春、山越の糧倉が底をつき、小規模な部落が山から下りて帰順し始めた。諸葛恪は一律に軍籍に編入して就地に安置し、殺さず略奪しなかった。この「地を奪わず、糧だけを奪う」という忍耐強い戦法は山地民族に致命的な打撃を与えた。伝統的な討伐出兵では三ヵ月で退くため、山越は一季節だけ身を潜めれば済んだ。しかし諸葛恪の包囲は三年間継続する資源の圧迫であり、山越はいかなる季節にも息をつく余裕がなかった。
平定と結果
嘉禾六年(237年)になると、丹陽の山越は「老幼が手を取り合って山を下りる者が数万人」に上り、諸葛恪は「三年で甲士四万を得る」という約束を果たし、さらに帰化民戸十余万を収めた。彼は自らその中の一万を機動部隊として統率し、残りは同時に出征した諸将に分け与え、東呉中軍の山岳兵源の安定的な補充を形成した [c:17748]。功績により孫権は諸葛恪を都郷侯に封じ、威北将軍を加えて、陸遜(りくそん)に次ぐ呉軍の第二梯隊の帥位へと押し上げた。これ以後、東呉の淮南や蜀漢(しょくかん)への戦役において、山越兵は核心的な歩兵兵源となった。東興(とうこう)・新城両役の二十万呉軍の基底の相当部分は、この丹陽山越平定に遡ることができる。
歴史的余波
丹陽の戦役の長期的意義は一回の地方平叛をはるかに超える。第一に、東呉の版図を「沿江豪族の割拠」から「腹地の戸籍化」へと推進し、江東の郡県が初めて中原王朝と比肩できる財政基盤を真に備えた。第二に、諸葛恪個人にとって完整な「独立統軍・治民」の履歴を積み上げ、孫権が臨終に太子の輔政の地位を彼に托す自信を与えた。これはまた諸葛恪が後に朝廷で増長する起点でもあった。第三に、「包囲して糧を断つ」戦法は三国(さんごく)後期に繰り返し援用された。陸抗(りくこう)が西陵(せいりょう)を経営し、羊祜(ようこ)が襄陽(じょうよう)を守るにあたっても、「速勝を求めず、殲滅を求めず、資源の枯渇だけを求める」という辺境統治の論理を抽出している。諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)における七縦七擒(しちしょうしちきん)が西南の山地民族統合の範式であるなら、諸葛恪の丹陽山越平定(しょかつかくのたんようさんえつへいてい)は東南の山地民族統合の範式といえる。叔父と甥の二人は、意図せずして、三国後期の帝国が山地民族に対して「征伐に代えて戸籍編入を行う」という統治の道筋を共に切り開いた。
