言語
邴

曹魏(そうぎ) · 五官将长史

邴原(へいげん)

登場回
3
台詞の記録
3
人間関係
11
内面の独白
1

史載(Historical Record)

邴原(へいげん)、字は根矩、北海郡(ほっかいぐん)朱虚の人である。彼は若くして管寧(かんねい)とともに高尚な操守をもって名を知られた。州郡がたびたび徴召したが、彼はいずれも召命を拒んだ。黄巾の乱が起こると、邴原は家族を連れて海辺の郁洲山の中へ移り住んで難を避けた。当時、孔融(こうゆう)が北海相を務めており、かつて邴原を有道の士として挙げた。

黄巾軍(こうきんぐん)の勢力が盛んであったため、邴原は最終的に遼東へ赴き、同郡の劉政とともに身を寄せた。劉政は平素より勇略と雄気をもって知られていた。遼東太守の公孫度(こうそんたく)は劉政を畏れて、これを殺そうと意図し、すでに劉政の一家を逮捕していた。劉政は運よく逃れ、公孫度はただちに各県に通告して、「あえて政を匿う者あらば同罪とする」と告げた。劉政は窮地に陥った際、邴原のもとへ身を寄せた。邴原は彼を受け入れ、一月余りにわたって匿った。当時、東莱の太史慈(たいし じ)がちょうど故郷へ帰ろうとしていたので、邴原は劉政を彼に託し、脱出させた。

劉政が去った後、邴原は公孫度に面会して言った、「将軍が先に劉政を殺そうとしたのは、彼があなたにとって脅威であったからです。今、劉政はすでに去り、あなたの禍患はもう除かれたのではありませんか」と。公孫度は答えた、「その通りだ」と。邴原はまた言った、「あなたが劉政を畏れたのは、彼に智謀があったからです。今、劉政はすでに脱出し、その智謀は発揮されることでしょう。それなのに、あなたはなぜなおもその家族を拘留しておくのですか。彼らを赦免して、いたずらに恨みを増すのを避けるに越したことはありません」と。公孫度は邴原の進言に従い、劉政の家族を釈放した。邴原はさらに劉政の家族を援助し、彼らが故郡へ帰れるようにした。邴原が遼東に住んでいた間、一年のうちに数百家の百姓が彼のもとへ身を寄せ、学を求める士が絶え間なく訪れ、講学の声が絶えることがなかった。

後に、邴原は中原へ帰ることができ、曹操(そうそう)に司空掾として徴辟された。邴原の娘は早世しており、当時、曹操の愛子である曹沖(そうちゅう)もすでに世を去っていた。曹操は彼らを合葬しようと望んだが、邴原は断固として辞退して言った、「合葬は礼法に合いません。私があなたに重んじられ、あなたが私を礼をもって遇するのは、まさに私が訓典を守ってたやすく改めないからです。もし私があなたの命に従えば、私はただの凡庸な輩に過ぎず、あなたはどうして私を重んじましょうか」と。曹操はこれを聞いて合葬の考えを打ち消し、代わりに邴原を丞相征事に任じた。建安十五年、初めて征事二人が設けられ、邴原は平原(へいげん)の王烈(おうれつ)とともに選び補われた。崔琰(さいえん)が東曹掾を務めた際、かつて上書して邴原と議郎の張範(ちょうはん)を称え、「みな徳を秉ること純懿にして、志行は忠方、清静は俗を励ますに足り、貞固は事を干すに足り、いわゆる龍翰鳳翼、国の重宝なり。これを挙げて用いれば、不仁なる者は遠ざかる」と述べた。後に、邴原は涼茂(りょうぼう)に代わって五官将長史を務め、門を閉じて自らを守り、公事でなければ決して外出しなかった。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』には邴原の生涯の事跡が直接描かれていないため、彼についての文学的造形の内容はない。正史に記載された邴原の事跡、例えば乱を避けて遼東に赴いたこと、智をもって劉政を救ったこと、ならびに曹操がその娘を曹沖と合葬しようとしたのを拒んだことなどの場面は、『三国演義』にはいずれも言及がない。これは、『三国演義』が人物の選択と筋立ての配置において、三国の争いの中核的な出来事に直接加わった人物を描くことにより重きを置き、邴原のような高潔な品徳と隠逸の風で知られる人物については、文学上の再創作を行わなかったことを示している。

重要な関係

* 管寧(friend_of):邴原は管寧と若い頃から高尚な操守をもって名を等しくし、志を同じくする友であった。
* 劉政(friend_of):劉政は危難の際に邴原のもとへ身を寄せ、邴原は命の危険を冒して彼を匿い、脱出を助け、深い友誼と義気を示した。
* 公孫度(advises_in):邴原は遼東にいた際、巧みに公孫度を説いて劉政の家族を釈放させ、その智慧と影響力を示した。
* 曹操(serves):邴原はかつて曹操に司空掾・丞相征事として徴辟され、後にさらに五官将長史を務め、曹操麾下の重要な官員であった。
* 崔琰(colleague_of):崔琰はかつて邴原の品徳と才能を高く評価し、彼を「国の重宝」と称えた。

象徴的な場面

* 智をもって劉政を救う:劉政が公孫度に追われ、逃げ場を失った際、邴原は自身の危険を顧みず、彼を一月余り匿い、巧みに太史慈に手配して彼を送り出させた。続いて、彼はまた智謀をもって公孫度を説き、劉政の家族を釈放させ、彼らを援助して故郡へ帰らせた。この出来事は邴原の仁義・智慧・胆力を十分に示している。
* 合葬を拒む:曹操がその娘を愛子の曹沖と合葬しようとした際、邴原は「合葬は礼に非ず」を理由に断固として拒んだ。彼は曹操に対し、自分が重んじられているのは、まさに礼法を守れるからだと表明した。この場面は邴原の「訓典を守って易えず」という清高な品格と、儒家の礼儀への固持を際立たせている。
* 遼東での避乱と講学:黄巾の乱の際、邴原は家族を連れて海に入り乱を避け、後に遼東に至った。彼は遼東にいた間、数百家の百姓を引き寄せ、遊学の士が絶え間なく訪れ、講学の声が絶えることなく、独特の文化的景観を形作った。これは、邴原が乱世においてもなお高潔な操守を保ち、その学識と品徳をもって世人を感化したことを反映している。

人間関係

11 件の関係

名言

全 3 件の台詞 · 厳選 2 件

「君之畏政者,以其有智也。今政已免,智將用矣,尚奚拘政之家?不若赦之,無重怨。」

史 第11回→ 公孫度(こうそんたく)

この一句は邴原(へいげん)の智慧と胆力を示し、公孫度(こうそんたく)に劉政(りゅうせい)を釈放するよう説き、遺恨を残すことを避けた。

「合葬,非禮也。原之所以自容於明公,公之所以待原者,以能守訓典而不易也。若聽明公之命,則是凡庸也,明公焉以為哉?」

史 第11回→ 曹操(そうそう)

この一句は邴原(へいげん)が礼法を堅持し、時流に流されない品格を表しており、その核心的な特質の表れである。

登場回3 回 ▸
  • 史ch.11ch.13
  • 演ch.66
関係の年表4 条 ▸

史 ch.11

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 若い頃、私は管寧(かんねい)とともに、節操と志を称賛され、州府からたびたび招聘されたが、いずれも応じなかった。仕官への道を知らなかったわけでも、世事を軽んじていたわけでもない。ただ、身を立てる根本を思えば、守るべきものが定まらぬうちに召しに