言語

曹魏 · 尚書

杜畿

字 伯侯 · 163–224

杜畿の肖像
他の人物と同じ場面に →

杜畿(とき)は曹魏(そうぎ)の官吏で、河東を平定し、寛恵な統治と軍糧の確保で知られ、晩年に船の試験中、風に遭って没した。

正史 『三国志』2巻に登場 · 『演義』に登場せず

出典

原典に杜畿が登場する箇所

  • 正史 · 巻 2『三国志』

    秋七月,冀州大蝗,民饑,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。八月,蜀大將黃權率衆降。…
    段落全文を読む

    秋七月,冀州大蝗,民饑,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。八月,蜀大將黃權率衆降。〈《魏書》曰:權及領南郡太守史郃等三百一十八人,詣荊州刺史奉上所假印綬、棨戟、幢麾、牙門、鼓車。權等詣行在所,帝置酒設樂,引見於承光殿。權、郃等人人前自陳,帝爲論說軍旅成敗去就之分,諸將無不喜恱。賜權金帛、車馬、衣裘、帷帳、妻妾,下及偏裨皆有差。拜權爲侍中鎮南將軍,封列侯,即日召使驂乘;及封史郃等四十二人皆爲列侯,爲將軍郎將百餘人。〉

  • 正史 · 巻 16『三国志』

    杜畿字伯侯,京兆杜陵人也。〈《傅子》曰:畿,汉御史大夫杜延年之后。…
    段落全文を読む

    杜畿字伯侯,京兆杜陵人也。〈《傅子》曰:畿,汉御史大夫杜延年之后。延年父周,自南阳徙茂陵,延年徙杜陵,子孙世居焉。〉少孤,继母苦之,以孝闻。年二十,为郡功曹,守郑县令。县囚系数百人,畿亲临狱,裁其轻重,尽决遣之,虽未悉当,郡中奇其年少而有大意也。举孝廉,除汉中府丞。会天下乱,遂弃官客荆州,建安中乃还。荀彧进之太祖,〈《傅子》曰:畿自荆州还,后至许,见侍中耿纪,语终夜。尚书令荀彧与纪比屋,夜闻畿言,异之,旦遣人谓纪曰:“有国士而不进,何以居位?”既见畿,知之如旧相识者,遂进畿於朝。〉太祖以畿为司空司直,迁护羌校尉,使持节,领西平太守。〈《魏略》曰:畿少有大志。在荆州数岁,继母亡后,以三辅开通,负其母丧北归。道为贼所劫略,众人奔走,畿独不去。贼射之,畿请贼曰:“卿欲得财耳,今我无物,用射我何为邪?”贼乃止。畿到乡里,京兆尹张时,河东人也,与畿有旧,署为功曹。尝嫌其阔达,不助留意於诸事,言此家疏诞,不中功曹也。畿窃云:“不中功曹,中河东守也。”〉

  • 正史 · 巻 16『三国志』

    …彧曰:“杜畿其人也。”〈《傅子》曰:彧称畿勇足以当大难,智能应变,其可试之。…
    段落全文を読む

    太祖既定河北,而高幹举并州反。时河东太守王邑被徵,河东人卫固、范先外以请邑为名,而内实与幹通谋。太祖谓荀彧曰:“关西诸将,恃险与马,征必为乱。张晟寇殽、渑间,南通刘表,固等因之,吾恐其为害深。河东被山带河,四邻多变,当今天下之要地也。君为我举萧何、寇恂以镇之。”彧曰:“杜畿其人也。”〈《傅子》曰:彧称畿勇足以当大难,智能应变,其可试之。〉於是追拜畿为河东太守。固等使兵数千人绝陕津,畿至不得渡。太祖遣夏侯惇讨之,未至。或谓畿曰:“宜须大兵。”畿曰:“河东有三万户,非皆欲为乱也。今兵迫之急,欲为善者无主,必惧而听於固。固等势专,必以死战。讨之不胜,四邻应之,天下之变未息也;讨之而胜,是残一郡之民也。且固等未显绝王命,外以请故君为名,必不害新君。吾单车直往,出其不意。固为人多计而无断,必伪受吾。吾得居郡一月,以计縻之,足矣。”遂诡道从郖津度。〈郖音豆。《魏略》曰:初,畿与卫固少相狎侮,固尝轻畿。畿尝与固博而争道,畿尝谓固曰:“仲坚,我今作河东也。”固褰衣骂之。及畿之官,而固为郡功曹。张时故任京兆。畿迎司隶,与时会华阴,时、畿相见,於仪当各持版。时叹曰:“昨日功曹,今为郡将也!”〉范先欲杀畿以威众。〈《傅子》曰:先云:“既欲为虎而恶食人肉,失所以为虎矣。今不杀,必为后患。”〉且观畿去就,於门下斩杀主簿已下三十餘人,畿举动自若。於是固曰:“杀之无损,徒有恶名;且制之在我。”遂奉之。畿谓卫固、范先曰:“卫、范,河东之望也,吾仰成而已。然君臣有定义,成败同之,大事当共平议。”以固为都督,行丞事,领功曹;将校吏兵三千餘人,皆范先督之。固等喜,虽阳事畿,不以为意。固欲大发兵,畿患之,说固曰:“夫欲为非常之事,不可动众心。今大发兵,众必扰,不如徐以赀募兵。”固以为然,从之,遂为赀调发,数十日乃定,诸将贪多应募而少遣兵。又入喻固等曰:“人情顾家,诸将掾吏,可分遣休息,急缓召之不难。”固等恶逆众心,又从之。於是善人在外,阴为己援;恶人分散,各还其家,则众离矣。会白骑攻东垣,高幹入濩泽,上党诸县杀长吏,弘农执郡守,固等密调兵未至。畿知诸县附己,因出,单将数十骑,赴张辟拒守,吏民多举城助畿者,比数十日,得四千餘人。固等与幹、晟共攻畿,不下,略诸县,无所得。会大兵至,幹、晟败,固等伏诛,其餘党与皆赦之,使复其居业。

ランキング

各ランキングでの順位。

ほか 6 件

史書の記録(Historical Record)

杜畿(Du Ji)は字を伯侯といい、京兆杜陵の人である。幼くして父を失い、継母に孝行を尽くしたことで知られた。二十歳のとき郡の功曹となり、鄭県令を代行した。自ら囚人を取り調べ、罪の軽重を定めて多くの者を釈放したため、郡中では若くして大志を抱く人物と評された。その後、孝廉に推挙され、漢中(かんちゅう)府丞に任じられた。天下が乱れると官を辞して荊州(けいしゅう)に身を寄せたが、建安年間に帰還し、荀彧(じゅん いく)の推挙によって曹操(そうそう)の幕府に入った。司空司直、護羌校尉を歴任し、西平太守を兼ねた。

曹操の河北平定(そうそうのかほくへいてい)後、高幹(こうかん)が挙兵し、河東の衛固、范先は密かにこれに通じた。杜畿は河東太守に任じられ、衛固の部隊が渡し場を封鎖する中、車一台で迂回して河を渡った。強攻すれば民衆を反乱に走らせると判断した杜畿は、臨機の策を用いて郡治に入り、いったん衛固と范先から授けられた職務を引き受けた。徴兵を緩め、吏員を解散させる一方、密かに民心を得ようとした。情勢が変わると、数十騎を率いて張辟へ赴き、守りを固めた。郡中では呼応する吏民が次第に増え、曹軍が到着すると反乱は鎮圧された。杜畿は残党を赦し、生業に戻らせた。

河東が安定すると、杜畿は寛大さと恩恵を重んじた。訴訟があれば自ら道理を説き、当事者を帰して考えさせた。また、孝子、貞節な婦人、孝順な孫を表彰し、牛馬や鶏、豚の飼育を奨励して生計の向上を図った。民が豊かになると、軍事を整え、学校を設け、自ら経典を手に教えた。韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)の反乱では、河東は賊と境を接していたにもかかわらず、民心は揺らがなかった。曹操の西征に必要な軍糧は河東に頼り、戦後も二十余万斛の穀物が残った。曹操はその治績を称賛して俸禄を増やした。杜畿は河東を十六年間治め、天下でも屈指の郡治として知られるようになった。

魏国が建国されると、杜畿は尚書に任じられた。文帝が即位すると関内侯を賜り、のちに豊楽亭侯に進封され、司隷(しれい)校尉に任じられた。文帝が呉へ遠征した際には、尚書僕射として留守の政務を統括した。詔を奉じて陶河で御楼船の試運転を行ったところ、船が風に遭って沈没し、杜畿は遭難した。文帝は涙を流して悲しみ、太僕を追贈し、戴侯と諡した。甘露二年、河東の樂詳が上書して杜畿の遺績を称えたため、朝廷はその子の杜預(とよ)を豊楽亭侯に封じた。

演義での描写(In the Novel)

『三国演義』にこの人物は登場しない。現存する資料には、『三国演義』などの小説における杜畿の筋書きや人物像は記されていない。そのため、小説での言動を補って書くことはできず、史書の事績を演義の場面に書き換えることもしない。

重要な関係

杜畿と曹魏(そうぎ)政権との関係は、その仕官生活を通じて続いた。荀彧の推挙によって曹操に任用され、河東の反乱を鎮め、民生を整え、軍糧を確保した。魏国の成立後は尚書などを務め、文帝の留守中に朝政を担った。曹操はその統治と軍糧供給の成果を称え、文帝は杜畿の遭難後、太僕を追贈して戴侯と諡した。

河東では、衛固と范先は杜畿の着任当初に立ちはだかった相手であり、杜畿が策略を用いて立ち回り、その勢力を切り崩した相手でもあった。反乱が鎮圧されると、杜畿は残党を赦し、郡県の暮らしの回復を図った。樂詳は杜畿の学問振興に関わる人物である。杜畿はかつて樂詳を登用して後進を教えさせ、樂詳は晩年、上書して杜畿の遺績を称えた。

代表的な場面

車一台で河東に入る。 渡し場は封鎖され、援軍もまだ到着していなかった。杜畿は兵力で性急に圧力をかけず、民衆すべてが反乱に加わりたがっているわけではないと判断し、迂回して河を渡ることで、一時的な妥協によって時間を稼いだ。徴兵を遅らせ、吏員を解散させたことで敵対勢力は人々を集めにくくなり、郡中で呼応する者が増えてから兵を率いて守りを固めた。この経験には、時勢を見極め、強攻ではなく策略によって乱を治める杜畿の姿勢がよく表れている。

寛大な施政で民を安んじ、豊かさを軍糧につなげる。 杜畿は善行の奨励、家畜の飼育、学問の振興を治安の向上と結びつけた。訴訟は諭して少なくし、農家は家畜を飼う仕組みを整えて次第に豊かになった。さらに軍備を整えて武事を講じ、自ら経典を授けた。その後、河東は韓遂・馬超の乱の中でも安定を保ち、曹操の西征に軍糧を提供した。これは杜畿の地方統治の成果を鮮明に示している。

陶河での試運転中、船が風に遭う。 晩年、命を受けて御楼船の試運転を行った杜畿は、風に遭って沈没し、命を落とした。文帝は詔を下して哀悼し、その殉職を古人の職務に尽くして死んだ例になぞらえ、太僕を追贈して戴侯と諡した。この最期によって、杜畿の仕官生活は地方の統治から朝廷の留守を預かる務めへと至り、魏の文帝がその忠勤を偲ぶこととなった。

台詞

  • 史 ch.16 §18

    “河东有三万户,非皆欲为乱也。今兵迫之急,欲为善者无主,必惧而听於固。固等势专,必以死战。讨之不胜,四邻应之,天下之变未息也;讨之而胜,是残一郡之民也。且固等未显绝王命,外以请故君为名,必不害新君。吾单车直往,出其不意。固为人多计而无断,必伪受吾。吾得居郡一月,以计縻之,足矣。”

  • 史 ch.16 §19

    “民富矣,不可不教也。”

人間関係

9 件の関係

杜畿 の人物関係図杜恕杜理樂詳張晟范先衛固曹丕荀彧曹操杜畿
  • 親族
  • 友人
  • 敵対
  • 師弟
  • その他
扇形は関係の種類ごとの区分。内側の環は最も関わりの深い 9 人。ノードにホバーまたはフォーカスすると詳細を表示

全 9 人を表示

杜恕

続けて読む

杜恕

子

杜恕へ →
関係の年表3 件 ▸

正史 · 巻 16

  • 衛固§18

    敵対

    一台の車で河東にまっすぐ入り、偽ってこれに奉仕した;計略によってこれを引き留めた

  • 范先§18

    敵対

    先に門下で主簿以下三十余人を斬って威を示したが、畿は平然と振る舞った

  • 杜恕§21

    子

    子;爵位を継いだ