言語
顧

顧譚(こたん)

登場回
4
台詞の記録
1
人間関係
5
内面の独白
1

史載(Historical Record)

顧譚(こたん)、字は子默、呉郡呉県(ごけん)の人である。彼は若くして才華で名を知られ、諸葛恪(しょかつかく)などとともに太子孫登(そん とう)の「四友」に選ばれ、道芸を講論する任を負い、孫登の賓客にして好友となった c:4197。初め顧譚は中庶子を務め、後に輔正都尉に転じた。陸機(りくき)はかつて顧譚のために伝を作り、太子が東宮に正位した時、天子孫権(そん けん)が訓導を強めるべく、俊彦の士を精選して太子の左右で講学させたと称している。当時、四方の英傑が雲集し、諸葛恪などは雄奇にして世に並ぶ者なかったが、顧譚はその清識絶倫をもって、ひとり推重を受けた。太尉の范慎、謝景、羊徽などの名士でさえ、みな自ら顧譚に及ばぬと認めた c:4194。

赤烏年間、顧譚は諸葛恪に代わって左節度を務めた。『呉書』の記載によれば、顧譚が初めて官府に入った時、かつて上疏して事を陳べ、孫権は読んで食事を止め、その才華が徐詳に勝ると称賛した。顧譚の性格は高雅で、小節にこだわらず、時にこのため非難を受けたが、孫権はその才能を重んじ、彼への待遇はきわめて手厚く、幾度も賞賜し、わざわざ召見した c:4194。顧譚は簿書を審閲する際、決して算木を用いず、ただ暗算によってすべての疑謬の箇所を指摘でき、下属を心服させた。彼は後に奉車都尉を加えられた。薛綜(せつそう)が選曹尚書を務めた時、かつて固辞して顧譚に譲り、顧譚を「心は精にして体は密、道を貫いて微に達し、才は人物を照らし、徳は衆望にかなう。まことに愚臣の越えて先んずべき者ではない」と称賛し、顧譚はその後、薛綜の職を継いだ c:4194。

しかし、顧譚の仕途は平坦ではなかった。孫権の晩年、太子孫和(そん か)と魯王孫覇(そん は)の間の儲位の争いが日増しに激しくなった。顧譚は陸遜(りくそん)・諸葛恪などとともに嫡庶の義を堅持し、太子孫和を擁護した c:4196。これが彼と魯王孫覇との間に隙を生じさせた。魯王孫覇の賓客であり、衛将軍全琮(ぜんそう)の子である全寄(ぜんき)は、その邪な品性ゆえに、顧譚に受け入れられなかった。これより先、顧譚の弟である顧承(こしょう)と張休(ちょうきゅう)は、かつて全琮に従って寿春(じゅしゅん)を北征し、芍陂(しゃくひ)で魏将の王淩(おうりょう)と交戦して利あらず。魏軍が勝ちに乗じて追撃すると、顧承と張休は奮戦して反撃し、見事に魏軍の攻勢を食い止めた。全琮の子である全緒・全端(ぜんたん)も参戦したが、功は顧承と張休に及ばなかった。論功行賞に際し、顧承と張休は雑号将軍に封じられ、全緒・全端はわずかに偏裨将軍とされた。全寄父子はこのため怨みを抱き、ともに顧譚を陥れた c:4195。

『呉録』の記載によれば、全琮父子は幾度も、芍陂の役で典軍の陳恂が張休・顧承の功を偽って水増ししたと誣告し、張休・顧承が陳恂と私通したと称した。張休はこのため捕らえられ獄に下された。孫権は顧譚のゆえに、なかなか決せず、顧譚が過ちを認めて張休を赦免できることを願った。だが、ある大会において、孫権が顧譚に問うた時、顧譚は過ちを認めず、かえって「陛下、讒言がはびこっております!」と言った。『江表伝』の記載によれば、有司は顧譚が誣罔し大いに不敬であり、罪は死に当たると奏した。孫権は顧雍(こよう)(顧譚の父)の旧情を念じ、極刑を施さず、顧譚などを交州(こうしゅう)へ流した c:4195。顧譚は交州で二年流され、わずか四十二歳で世を去った。流謫の間、彼は発奮して『新言』二十篇を著し、その中の『知難篇』は自らの遭遇を悼むためのものであった c:4195。

喪に奔る際の法規の問題を処理するにあたり、顧譚はかつて自らの見解を提起した。彼は、奔喪の刑罰がもし軽すぎれば孝子の情を禁ずるに足りず、もし重すぎてもそれは死罪ではないため、厳刑峻法をもってしても完全に禁ずるのは難しいと考えた。彼は、もし長吏が遠方にあり、告発がなければ知りがたいと進言した。選代の間に告発する者があれば死刑に処せば、長吏には廃職の責がなく、孝子も重罪を犯すことがない、というのである c:15478。

演中(In the Novel)

『三国志演義』においては、顧譚への独立した文学的造形はなく、その事績と形象は小説で言及されていない。したがって、顧譚は演義において具体的な出番、せりふ、筋立てがなく、史伝との乖離を論じることもできない。彼の小説における不在は、その歴史上の重要な役割と悲劇的運命が文学の形で広く伝わることを妨げた。

重要な関係

* 孫登(friend_of):顧譚は諸葛恪などとともに太子孫登の「四友」であり、道芸を講論する任を負い、孫登の賓客にして好友となった c:4197。陸機の伝の記載によれば、孫権は太子孫登のために俊彦の士を精選して太子の左右で講学させ、顧譚は清識絶倫をもってひとり推重を受けた c:4194。
* 孫覇(enemy_of):孫権の晩年、顧譚は太子孫和を断固として支持し、魯王孫覇に反対したため、孫覇と隙を結んだ c:4196。孫覇の賓客である全寄は、顧譚に受け入れられなかったため、全琮父子とともに顧譚を陥れ、彼の流謫を招いた c:4195。
* 孫和(friend_of):顧譚は太子孫和と魯王孫覇の儲位の争いにおいて、陸遜・諸葛恪などの大臣とともに、嫡庶の義を堅持し、太子孫和を擁護した c:4196。彼の流謫もまた、孫和を支持し孫覇に反対する党争と密接に関わっている c:4195。
* 諸葛恪(friend_of):顧譚は諸葛恪とともに太子孫登の「四友」であり、若くして才華で名を知られ、ともに太子に侍して道芸を講論した c:4197。後に顧譚もまた諸葛恪に代わって左節度を務めた c:4194。孫権の晩年の儲位の争いにおいて、二人はともに太子孫和を断固として支持した c:4196。
* 全琮父子(enemy_of):全琮の子である全寄は邪なるゆえに顧譚に受け入れられず、加えてその父全琮が芍陂の戦い(しゃくひのえき)において、顧譚の弟である顧承と張休の功がより大きかったことから、全琮父子は怨みを抱き、ともに顧譚を陥れ、最終的に彼を流謫に至らせた c:4195。

象徴的場面

* 太子の四友、清識絶倫:顧譚は若くして諸葛恪などとともに太子孫登の「四友」に選ばれ、道芸を講論する任を負った。陸機はかつてその「清識絶倫、ひとり推重を見る」を称賛し、范慎・謝景などの名士でさえみな自ら及ばぬと認めた c:4194。これは顧譚の早年の才華と声望を体現している。
* 暗算で案を断じ、下吏を心服させる:顧譚は左節度を務めた期間、繁雑な簿書を審閲する際、決して算木を用いず、ただ暗算によってすべての疑謬の箇所を指摘し、下属を心服させた c:4194。これは彼の卓越した才知と精密な思考力を示している。
* 嫡庶を堅持し、交州へ流される:孫権の晩年、太子孫和と魯王孫覇の儲位の争いにおいて、顧譚は陸遜・諸葛恪などとともに太子孫和を断固として支持し、嫡庶の義を堅持した。このため魯王孫覇とその一党の怒りに触れ、最終的に全琮父子に陥れられ、交州へ流され、わずか四十二歳で異郷に客死した c:4196, c:4195。これは顧譚の一生で最も悲劇的な転換点であり、彼が原則に忠実であったことの表れでもある。
* 獄中で著述し、自らを悼む:顧譚は交州へ流謫された間、逆境にありながらも、発奮して『新言』二十篇を著し、その中の『知難篇』は自らの遭遇を悼むためのものであった c:4195。これは彼の堅忍の意志と深い学識を示すだけでなく、その内心の悲憤と不甲斐なさをも吐露している。これは彼の人生の悲劇の最後の註脚となった。
* 奔喪の法を議し、殺をもって殺を止める:顧譚はかつて奔喪の刑罰の問題について自らの見解を提起し、もし長吏が遠方にあり、奔喪する者を告発する者があれば死刑に処すべきだと考え、「長吏に廃職の負なく、孝子に重を犯すの刑なし」という効果を期した c:15478。これは彼の法律制度への思考と人情倫理への権衡を反映している。

人間関係

5 件の関係

台詞

  • 史 ch.47 §52

    「奔喪立科,輕則不足以禁孝子之情,重則本非應死之罪,雖嚴刑益設,違奪必少。若偶有犯者,加其刑則恩所不忍,有減則法廢不行。愚以爲長吏在遠,苟不告語,勢不得知。比選代之間,若有傳者,必加大辟,則長吏無廢職之負,孝子無犯重之刑。」

登場回4 回 ▸
  • 史ch.47ch.52ch.59ch.64
関係の年表4 条 ▸

史 ch.52

史 ch.59

史 ch.64

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は顧譚(こたん)、字は子黙(しもく)という。今、交州(こうしゅう)に身を置き、長く幽閉されて、胸中の憤懣を述べるすべもないため、『新言』十篇に託した。なかでも『知難』一篇は、自らの身に思いを致すと、ひときわ心のやり場がない。若い頃、私は諸
生涯の大事3 ▸